池田嘉郎著『ロシア革命』を一読する
- 2017年 8月 23日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
平成29年・2017年は、ロシア革命百周年である。世間的には殆ど忘れられた社会的・歴史的大事件だ。何冊かの書物が出版されている。
池田嘉郎著『ロシア革命 破局の8か月』(岩波新書、2017年)を一読した。1989-1991年に生起した大変動、ソ連東欧の党社会主義体制の自崩の効果であろうか、ロシア革命を構成する2月革命と10月革命のうち、前者に焦点が当てられている。言論の自由、私的所有権・・・の成立を目指した2月革命の失敗の結果、すなわち「破局の8か月」の結果として10月革命の勃発を見る。そんな立場で書かれている。
私=岩田のトリアーデ体系に立脚する近現代社会発展論図によれば、「破局の8か月」の結果であれ、レーニン・トロツキー等ボリシェヴィキ党の主体的活動の成果であれ、10月革命の方が2月革命――110周年遅れのフランス革命――よりもはるかに歴史的に意味深い。何故かはここで議論しない。
私=岩田は、本書第2章「二月革命――街頭が語り始めた」の主要登場人物二人の両極端の運命について、本書で触れられていない諸エピソードを紹介したい。
国家ドゥーマ議長でドゥーマ臨時委員会議長エム・ヴェ・ロジャンコは、ヴェ・ヴェ・シュリギーンと共にニコライ2世の退位と帝政の終了に際して歴史的大役を演じた。第2章(pp.22-40)の主役である。その後、ドゥーマ臨時委員会とロジャンコの存在感は急速に影が薄くなり、ロシア10月革命の20日ほど前に「臨時政府はついにドゥーマの解散法令を出した。」(p.198)「七年後にロジャンコはユーゴスラヴィアで亡くなることになる。」(p.199)
ここに、エス・ユー・タニン著『ロシア人のベオグラード』(露語、モスクワ、ヴェーチェ出版、2009年)なる面白い本がある。ロシア革命後にセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人=SHS王国(後にユーゴスラヴィア王国と改称)に亡命した数多くの白系ロシア人に関する小列伝の集成である。ロジャンコに8ページほど割かれている。ユーゴスラヴィアにおけるロジャンコの運命について紹介しよう。
白衛軍が敗北すると、ロジャンコはSHS王国に亡命した。ある人によると、SHS王国に向かう列車の中でだぶだぶの服を着た老人がウランゲリ軍(白衛軍の一つ)の将校達に散々に殴られていた。その人こそ侍従で国家ドゥーマ議長ロジャンコであった。ロジャンコは1920年にベオグラードに着いていた。白系ロシア人達は、彼を革命犯罪者であり、王朝の大逆者であると見なしていた。ウランゲリ将軍は、「我々は革命犯罪者として誰かを指定せねばならない。我々は貴殿を選び、指定した。」と公然と声明を出した。事実、ロジャンコは旧白衛軍将校達に殴打された。彼は極貧と殴打の中でベオグラードの国立病院で亡くなった。1924年1月24日、65才であった。(p.115)
ロジャンコのドゥーマ臨時委員会が退位問題で皇帝ニコライ2世の元へ送った二人の使者グチコフと君主主義者シュリギーンのうちシュリギーンは、ロジャンコと同じくユーゴスラヴィア王国(当時はSHS王国)へ亡命した。
池田著『ロシア革命』では、シュリギーンのその後について「それから二七年後、ユーゴスラヴィアで赤軍(ソ連軍)につかまったシュリギーンは、モスクワに移送された。反ソヴィエト活動の咎で収容所に送られ、1956年に釈放された。古都ウラジーミルで静かに暮らし、エルムレルの映画『歴史の裁きの前で』に主演して、公式見解に沿いつつも堂々とした姿で経歴を語った。1976年に九八才で大往生した。」(p.87)
タニン著『ロシア人のベオグラード』(露語)は、シュリギーンにも8ページ割いている。シュリギーンは、ドイツやフランスで亡命生活を送っていたが、1925年10月には秘密にソ連国境を通り抜けて、ミンスク、キエフ、そしてモスクワにもかくれひそんだ。そこで得た印象記を『三都』なる書にして、1927年にベオグラードで出版した。彼はそこで新政権の成功面に然るべく評価を与えたので、亡命ロシア人達の間で信用を落とした。その後いかなる政治活動からも手を引き、セルビアのスレムスカ・ミトロヴィツァに定住した。
1944年末にソ連軍がベオグラードを解放して、シュリギーンは、スメルシュ(国防人民委員部防諜総局)に逮捕された。そして『ロシア革命』(p.87)に書かれているような人生を送ることになった。ここでは、『ロシア人のベオグラード』に従って、補足的諸事実を述べる。
彼は亡命時代の1924年に前妻と離婚し、マリア・ドミトリエヴナと再婚していた。1956年の釈放以後、ウラジーミル州の町ゴロホヴェツの老人ホームに二人は住んでいた。やがて、ウラジーミル市に部屋を与えられた。文学活動をする事が許され、1961年に自著『ロシア人亡命者達への手紙』を出版した。そこには次のような一文がある。「現在、すなわち20世紀後半に共産主義者が行っている事は、2億2千万の人民にとって有益であるだけでなく、完全に必要である。その上、それは全人類に救済的であり、彼等は全世界の平和を守り抜く。」
シュリギーンは客達を招くことが許され、時にはモスクワへ旅することさえも。例えば、1961年10月ソ連邦共産党第22回大会に御客として招待された。ボリショイ劇場の政府特別席にフルシチョフと共に座っている老シュリギーンの姿が見られている。かくして、シュリギーンの所へ映画監督コロソフ、ソルジェニツィン、ロストロポヴィチ、等々が訪れた。シュリギーンをエヌ・エス・フルシチョフのお気に入りだ、と人々は見ていた。『ロシア人のベオグラード』(pp.118-125)より。
私が待ち望むロシア革命論は、ゴルバチョフ時代の自信喪失期もフルシチョフ時代の自信過剰期も同じ原理で説明できる質の議論である。
平成29年8月20日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion6886:170823〕
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