中国にも「正論」はある、ただ民衆のものになっていないだけだ
- 2017年 8月 26日
- 評論・紹介・意見
- 中国阿部治平
――八ヶ岳山麓から(232)――
はじめに
中国では人文系社会科学系の学者は、たいてい中国共産党の召使にされてしまいました。それでも骨のある人はいます。「物言う経営者」として著名な大手不動産会社の任志強が「(メディアが党を代表するなら)人民の利益は片隅に捨てられ忘れ去られる」と習近平のメディア対策を批判したとき、蔡霞という研究者が任志強を断固として擁護し、公式筋から激しい非難を浴びたことがあります。
ここに紹介するのはその蔡霞の発言で、香港の「鳳凰」ネットのインタービューに答えたものです。大量の民主人権派が逮捕された2015年末に発表されたもののようですが、私がこれを見たのは、劉曉波が獄死して22日たった、この8月9日付「鳳凰」ネットでした。もちろんただちに抹消されました。
蔡霞は1985年から政治研究に従事し、中共上層幹部を養成する中央党学校教研部講師の要職にありました。現在どのような待遇を受けているかはわかりません。
以下、蔡霞の発言のなかから、中国からの資本の退出、労働者の状態、共産党と国家の問題などについて、できるだけ発言の趣旨に添うよう編集要約したものを記します。( )は阿部。
香港最大の資本集団、李嘉誠の長江実業グループが中国から出て行ったことについて
李嘉誠は中国に投資して中国に大量の利益を与え、同時に中国の低コスト労働力を利用して利益をえた。その李嘉誠グループがなぜいま去ったか。中国では権力が市場を独占しすぎており、ここでのビジネスが労働力コストの上昇とともに彼にとって不利となったからだ。
資本自体は中性的で、善悪の色はない。資本が残酷な手段で利益を得るか、合理合法的手段で稼ぐかは、資本そのものではなく、その制度環境が決定する。中国では第一の強勢力は権力である。第二は資本である。社会の下層は最も弱体である。権力は「豚は太らせてから殺すもの」として資本から搾取する。権力と資本が合流したときは、ともに社会の下層から搾取する。
「(中国国内の)李嘉誠を逃がすな」といった理屈は、強盗の論理、用心棒の考え方である。この種のシグナルは李嘉誠を恫喝しただけではない。こういうことをいうから資本が国外に逃亡するのだ。
ところが、現在中国の国営企業・中央企業はともにアフリカ・東南アジアに投資している。これを脱出とか逃亡とかとはいわない。むしろ誇りをもって「中国企業は世界に進出する」という。だが中央企業が出ていったのち、カネは国内に還ってくるのか?投資収益比率はどうなっているのか?稼いだカネが戻ってから、誰がそれを分けあうのか?こうした事情は中国国内では誰も知らない。
中国における労働者階級の状態について
中国社会の現在の制度環境下では、資本は残酷なやりかたでカネを稼いでいる。出稼ぎ労働者の基本的人権は守られていない。労働者が企業と交渉しようとすると、労使交渉権がないものだから、地方政府が治安維持と称して労働者の中心人物を捕まえる。我々は社会主義を自称しているが、具体的な制度環境をみると、いわゆる社会主義とは一致しない。
中国の(現代の)都市化の過程をみると、社会下層の人々には発展へのゆとりがない。彼らは生きられないわけではないが、よりよい生活への可能性は小さい。都市化の過程では社会の成長発育、制度の配置が立ち遅れた。唯一前よりもよくなったのは、外国資本の投資環境が整えられたことである。
現在の労働者の状態は、ある意味では18,19世紀ヨーロッパ諸国の労働者に似ている。労働者階級の地位は低く、労働者の運命は悲惨きわまりないものだった。
マルクスは資本論の中で、労働力の価格はおもに三つの部分からなるという。ひとつは自己生存に必要な費用、もうひとつは家庭の基本生活を保障するのに必要な費用、社会的観点からいえば、労働力の再生産を実現することである。第三の部分は労働者が労働に必要な技能を得るために必要な費用である。
現在、この三部分は出稼ぎ労働者の場合どうなっているか?その労賃はわずかに必要を満たす程度であり、北京・上海のような大都市では、ようやく生きられるレベルである。多くの出稼ぎ者は自分の生活費の中からカネを搾りだして故郷の家族に送っている。このなかで、彼らが職業訓練と教育を受けることなど思いも及ばない。
私は(西欧の)民主社会主義の政策は大賛成だ。鄧小平「先富論」には分配制度の適切な配置が必須であったが、現実にはそれがなかった。
反腐敗運動が地方にまでおよび、官僚が仕事をしなくなっている。この現象について
官僚の不作為・サボリ現象の原因は、(反腐敗運動の中で)自分を維持するため、利を求め害を避けるためである。万一検査の手が及んだとき、過去現在が明かになるのを恐れて、仕事をすることができないのだ。
これは単純な個人の信念の崩壊問題ではない。個人の問題は教育で解決できる。だが大量のサボリ現象が現れたら、それはシステムの問題である。幹部のなかにはこの最も基本的な常識を認めようとしないものがいる。
いま、幹部に対する民主的で公開された評価、公衆による監督、世論の批判によって仕事のやり方を変えさせることが必要である。システムは問題が起こるたびに批判し是正していく過程で健全なものとなる。
地方では世論による監督が抑えつけられている。上級が下級を管理し、大権が小権を抑えるだけでは、(官僚の恣意的行動を)制御しきれるものではない。システムが不健全だから、上層から下層まで大量の腐敗が生まれるのだ。
権力と共産党の問題について
我々の現在の問題は共産党そのものに存在する。指導幹部のなかには党と国家をごちゃまぜにし、権力を私物化し、自分の意志を大衆に押し付け、自分のやっていることが社会大衆の利益になるか否かを考えないものがいる。共産党への支持は強制するものではない。
社会には利益の違いがあり、衝突は免れない。(ヘーゲル「国家の目的は普遍的利益である」を踏まえて)国家は公共権力機関として、いかなる勢力の独占も操縦も受けてはならない。
マルクス主義が中国においてなお思想上の感化力・生命力を維持するためには、共産党は思想解放をしなければならず、なにを堅持すべきか(なにを否定すべきか)深く考えなければならない。
最大の挑戦は、我々自身が今日の中国と現代世界の深刻な変化の中にあって、なおマルクス主義を堅持する必要があるか否かを、またどのように堅持するべきかを考え抜くことだと思う。この問題を明確にできれば、党にはまだ求心力があるといえるかもしれない。
党への忠誠心が揺らぐ原因は二つある。ひとつはそのイデオロギーが社会の変化と時代進歩に適応していないために人心をひきつけることができないこと。もうひとつは利益を用いて人を籠絡し、また強力な反腐敗(運動)をやったために、特権階層の既得権益が(危機に陥り)厄介な問題を引き起こすことだ。
もし党員が自己の生存が安全でないと感じるとしたら、はたして党に求心力があると言えるだろうか?この二つの問題は重視に値し、解決のためには深刻な努力をしなければならない。
(蔡霞の)結び
中国の発展進歩の観点からは、最も基本的なこととして党に憲法と法律の範囲内での活動が求められる。権力を制約することの実際上の意味は、民衆の権利を保護し主張することである。中国では、これをやるか否かの主導権は共産党にある。
中国で最も恐るべきは官僚個人の腐敗ではなく、法制度の不健全なことである。権力の恣意的な政策決定がもたらす損失は、官僚個人の腐敗蓄財をはるかに超過するものである。
おわりに
中共19回大会を控えた中国では、市民の自由への展望はほとんどありません。とはいえ人々は表面なにごともなかったように暮らしています。この状態は今後も長い間続くでしょう。しかし、私は蔡霞の発言がやがて日の目を見ることを確信しています。(2017・08・20)
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