長崎の被爆者、谷口すみてるさん死去 Nagasaki A-bomb Higakusha Taniguchi Sumiteru dies
- 2017年 8月 30日
- 評論・紹介・意見
- ピースフィロソフィー
長崎原爆の被爆者、谷口すみてるさんが亡くなったとの報せが入りました。よく知られる、真っ赤に焼けただれた背中の写真を名刺にも使って、核兵器の残酷さを世界に訴える仕事をしてきた方です。立命館大学とアメリカン大学の広島・長崎の旅でも、ほぼ毎年証言をしていただいていました。声の小さい方で、通訳も苦労したことを覚えています。思うに、背中と、胸から腹にかけていつでも開いてしまうような傷跡をかかえていたため、大きな声も出せなかったのではないかと思います。
2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生に証言。 |
谷口さんにもらった証言原稿の写しをここに記します。追悼の意をこめて。
谷口稜曄
長崎県長崎市
私は1945年8月9日、当時16歳の時、長崎の爆心地から北方1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。三千度、四千度ともいわれる、石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間建物を吹き飛ばし、鉄骨をも曲げる、秒速250メートル、300メートルの爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていても、暫くは地震のように揺れ、吹き飛ばされないように、道路にしがみついていたのです。顔をあげて見ると建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、挨のように飛ばされていたのです。私は、近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。でも、私は此処で死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。暫くして、騒ぎがおさまったので起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。
それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。吹き飛ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。
女の人が、髪は抜け、目は見えないように顔が腫れふさがり、傷だらけで苦しみもだえていました。今でも、昨日のように忘れることはできません。苦しみ、助けを求めている人たちを見ながら、何もしてやれなかったことを、今でも悔やまれてなりません。
多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいきました。
私は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着きました。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取って貰いました。そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらいました。
工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っていたのでしょう、また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われました。力をふりしぼって立ち上がろうとしましたが、立つことも歩くことも出来ません。元気な人に背負われて山の上に運ばれて、木の陰の草むらに、寝かされました。周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所を言い、「水を、水を」と、水を求めながら死んでいきました。
夜になると方々が燃えていて明るいので、人の動きを見て、米軍の飛行機が機銃掃射して来ました。その流れ弾が私の横の岩に当たって、草むらに落ちました。地獄の苦しみの中にいる私たちに、米軍はなお、爆撃をしかけてくるのです。
夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって、一夜過ごしました。夜が明けてみると、私の周りはみんな死んで、生きている人は見当たりませんでした。そこで二晩過ごし、三日目の朝、救護隊の人達に救助され、27キロ離れた隣の市に送られました。病院は満員で収容できず、小学校に収容されました。
それから三日後(被爆して6日目)傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきました。一ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけでした。9月になって、爆風で窓が吹き飛ばされたままの長崎市内の小学校で、大学病院が治療をしているとのことで、送られました。そこで初めて医学的な治療を受けました。
まず輸血でした。でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐り始めました。腐った物がドブドブと、体内から流れ、身体の下に溜まるのです。身体の下にはボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。
その当時、火傷や怪我をした被爆者の身体に、蛆虫が湧いて、傷の肉を食べていました。私には一年過ぎてから、蛆虫が湧きました。
私は身動き一つできず、ましてや、座ることも横になることもできません。腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては、「今日も生きてる、今日も生きてる」とささやいておられました。家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。
身動き一つできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓が動いているのが見えます。
1年9ヶ月経って、ようやく動けるようになり、3年7ヶ月経って、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療を続けてきました。
1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。
皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。
「平和」がよみがえって、半世紀が過ぎました。昨今の世相を見れば、過去の苦しみなど忘れ去られつつあります。だが、私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。
私は、かつて自分をその一コマに収めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが、自分の身体の中によみがえり、広がって来るのを覚えます。
私はモルモットではありません。もちろん、見世物でもありません。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度みてほしい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。
私は、じっと見つめるあなたの目の厳しさ、温かさを信じたい。核兵器と人類は共存できない。私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。
私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。
長崎を最後の被爆地とするため。
私を最後の被爆者とするため。
核兵器廃絶の声を全世界に。
初出:「ピースフィロソフィー」2017.08.29より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.de/2017/08/nagasaki-bomb-higakusha-taniguchi.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion6907:170829〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。