ティム・ショロック「北朝鮮との外交は可能」Tim Shorrock: Diplomacy With North Korea Has Worked Before, and Can Work Again
- 2017年 9月 19日
- 時代をみる
- 「ピースフィロソフィー」
1990年代初頭に始まった北朝鮮核開発疑惑が、1994年の米朝枠組み合意、1997年に始まるミサイル実験、2003〜2007年の六者会合、2006年から始まった核実験を経て、現在の危機的状況に発展するまで、米国と北朝鮮の間ではどのような交渉が行われていたのだろうか。この間に北朝鮮は金日成から金正日、金正恩と指導者が交代し、米国はクリントンからブッシュ、オバマ、トランプと大統領が代わった。クリントン政権下の枠組み合意にはカーター元大統領の外交も関わっている。北朝鮮が一貫して求めてきたのは、敵国扱いを止めて関係を正常化することだった。この外交交渉は成功の一歩手前まで到達していた。枠組み合意は実際に北朝鮮の核開発活動を10年以上にわたって止めていた。しかしアメリカが石油支援を予定通り実行しなかったことで北朝鮮はミサイル実験を開始した。ミサイル協定を調印するはずだったクリントンは、ブッシュ対アル・ゴアの大統領選で米国に釘付けされてしまった。ブッシュ政権以降のネオコンの台頭で「悪の枢軸」と名指しし、北朝鮮の核実験に米韓軍事演習で対抗して関係はこじれていく。オバマの戦略的忍耐はさらに状況を悪化させただけで、トランプはこの全ての結果に向き合っている。ここまで関係が悪化した責任の半分は米国にある。いま、北朝鮮を一方的に敵視するのではなく、交渉が成功していた過去の歴史に学ぶ必要がある。
米国のジャーナリズムの中でこの問題について十分な情報と現地での観察をもとにバランスの取れた発言を続けるティム・ショロック氏が、『ザ・ネイション』に寄稿した記事を翻訳して紹介する。
原文:https://www.thenation.com/article/diplomacy-with-north-korea-has-worked-before-and-can-work-again/
(前文・翻訳:酒井泰幸)
★翻訳はアップ後、修正する場合があります。
過去に成功していた北朝鮮との外交、再び成功の可能性はある
1994年枠組み合意のような過去の交渉が効果を上げなかったというタカ派の言説は誤りだ。
ティム・ショロック著
2017年9月5日
2017年8月は、最も恐ろしく危険な冷戦の日々を思い起こさせた。この1カ月というもの、ドナルド・トランプと金正恩(キム・ジョンウン)は激しい舌戦を繰り広げ、これが報復的な軍事力の誇示へと発展し、最後には互いに大量破壊を行うぞと脅した。この緊張が頂点に達したのは9月3日、北朝鮮が6度目で過去最大の核実験(今回は強力な水素爆弾)を実施し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)に核爆弾を搭載する能力を手にしたという驚くべき発表だった。危機は制御不能となって、ここ数ヶ月トランプの外交政策チームが約束していた外交と交渉のチャンスは、日に日に遠ざかっていくように見えた。
皮肉にも、事件の連鎖は8月15日の明るい兆しから始まった。このとき金正恩(キム・ジョンウン)は、米軍が駐留するグアム島に向けて弾道ミサイルを打ち上げるという大々的に報道された計画を、柄にもなく撤回した。金正恩の突然の決定は、トランプだけでなく米国の外交提案の最前線にいるレックス・ティラーソン国務長官からも、賛意を引き出した。ティラーソン国務長官は、金正恩の「自制」が米国の出した対話の条件(核爆弾とミサイルの実験停止)を満たすかもしれないと提案した。この条件は、ティラーソン国務長官が最近ウォール・ストリート・ジャーナルに寄稿した、ジェームズ・マティス国防長官と共著の論説で明らかにしたものだった。
だが金正恩(キム・ジョンウン)は、米国が「敵視政策と核による脅し」をやめなければ交渉に応じないと言い、「もしもヤンキーどもが極めて危険で無謀な行為に固執するなら」ミサイル実験を再検討すると警告していた。彼が言っていたのは8月21日に開始された米韓軍事演習のことで、報道によれば、そこには北朝鮮に対する先制攻撃の予行演習と、コンピューター上の核戦争ゲームが含まれていた。この威嚇行動に対抗するため、北朝鮮は短距離ロケット3発の試射に続いて中距離ミサイルを1発、北海道を飛び越えて発射した。
案の定、金正恩(キム・ジョンウン)の行動は米国の対抗措置に拍車をかけ、グアムに配備されたB1-Bランサー超音速爆撃機が、日本の米国海兵隊岩国基地から飛び立った4機のF-35B新型ステルス・ジェット戦闘機に護衛されて、朝鮮半島上空で爆撃演習飛行をした。数日後、北朝鮮はICBMに搭載可能な水素爆弾を開発したと発表し、予告通りすぐにそれを実験して大規模な地下爆発を起こした。トランプはツイートで北朝鮮を「ならず者」国家と非難して応酬した。続いてトランプは文在寅(ムン・ジェイン)大統領が北朝鮮との関与(エンゲージメント)を優先する姿勢を「宥和政策(ゆうわせいさく:譲歩することで摩擦を回避する外交政策)」と呼んで韓国を侮辱し、文大統領の側近が模索する外交を明らさまに妨害した。
マティス国防長官はその前の週に「我々は決して外交的解決策が尽きてしまったわけではない」と記者らに語っていたが、すぐに朝鮮半島問題では米政権の足並みは揃っていると請け合った。9月3日に行われたホワイトハウスでの緊急会合のあと、マティス国防長官はカメラの前に立ち、トランプはさらなる脅威に「大規模な軍事行動で対応」し、それは「効果的かつ圧倒的」なものになるだろうと言った。米国は北朝鮮の「完全な壊滅を望んでいるわけではなく」、核開発計画を終わらせたいだけだと、マティス国防長官は不吉に言い添えた。これを受けてニッキー・ヘイリー国連大使は9月4日に、北朝鮮は「戦争を請い願って」いるので、「可能な限り強力な制裁措置」を受けるべきだと、国連安全保障理事会で演説した。だがヘイリー国連大使は対話の門戸を閉ざすことはせず、「我々は遅きに失する前に持てる全ての外交的手段を最後まで使う時が来た」と語った。
状況の重大さが米国政府に理解され始めるにつけ、マティス国防長官とヘイリー国連大使による言葉はあまり頼りにならないとは言え、外交と交渉の道が僅かにでも開いていることを示しているように見えた。「現政権がイデオロギー的に交渉に反対しているとは思わない」と、ブッシュ政権の元当局者でソウル駐在米国大使に間もなく指名されるビクター・チャは、9月5日にザ・ネーションに語った。だがそこにあるのは大きなジレンマだ。
北朝鮮との対話は、米国政府では無理な相談なのだ。多くの当局者や専門家の間で支配的な見方は、北朝鮮は信用できないから直接交渉は悪い考えだというものだ。このような否定論者が真っ先に口にするのが、悪評高い「枠組み合意」だが、ビル・クリントン大統領と金正恩(キム・ジョンウン)の父である金正日(キム・ジョンイル)との間で交わされたこの合意は、北朝鮮との最初の核危機を1994年に終結させた。64人の民主党議員が先ごろティラーソン国務長官に送った書簡では、将来の対話の模範として引き合いに出された。
「クリントン政権はこの協定を交渉したが、北朝鮮政府はすぐにこれを破ったのだ」と、CNNのジョン・キングが視聴者に向けて自信たっぷりに説明したのは、北朝鮮が米国を攻撃できるICBMを試射した直後の7月5日のことだった。キングが一片の証拠も示さずにその日何度も繰り返したこの見解が、CNNやその他のネットワーク系テレビ局での基本路線となり、関与が過去に成功していたという声を一貫して遮っている。この見解は、厳しい制裁措置と政権交代を支持する人々の合言葉にもなった。
「関与ですって?私はそこにいて、それを実行し、Tシャツをもらったけれど、全ては失敗でした」と、元CIA当局者で右派ヘリテージ財団のブルース・クリンガー北東アジア担当上級研究員は、ワシントンで先月開かれた公開討論会で、北朝鮮当局者との短時間の接触について語った。2007年から2008年の「六者会合」でブッシュ政権側に立って交渉したクリストファー・ヒル元ソウル駐在米国大使でさえ、対話否定派の論陣に加わり、これ以上の交渉は「ならず者政権の支配力を強化する」だけだと宣言した。同様の主張を、米国元当局者3人が先週のニューヨーク・タイムズとの対談で行った。
だがもしこの予測が正しくなかったら、もし公式な筋書きが間違いだったらどうだろうか?枠組み合意がなし得たことは一体何だったのか、なぜどのように壊れてしまったのか?いま多くの共和党議員が主張するように、本当にクリントン大統領の合意が北朝鮮に核爆弾を与えたのか?64人の民主党議員が、合意の成功を「再現するために誠心誠意努力する」ようティラーソン国務長官に訴えたとき、何を意図したのだろうか?1994年合意と、北朝鮮政府との交渉で幅広い経験のある米国元当局者らへの聴き取りを注意深く見直すと、合意が崩壊した責任は米国と北朝鮮が等しく負うべきものだということが明らかになる。これは一般的な見方ではないが、今我々が直面するリスクはあまりにも高いので、この枠組み合意をめぐっては正しい理解をすることが重要だ。
1994年合意で米国が対応しようとした地域政治的危機の発端は、その年に北朝鮮が核拡散防止条約から脱退する意思を表明したことだった。この条約は核兵器の開発や取得を決して行わないという同意を非核国に求める。北朝鮮は核兵器を保有していなかったがプルトニウムを製造しており、このことで米国はプルトニウム施設に対する先制攻撃を開始する寸前まで行っていた。
この戦争を回避したのは、ジミー・カーター元大統領が平壌を電撃訪問し、北朝鮮の創始者で当時の指導者、金日成(キム・イルソン)に面会した時だった。(金日成はその数ヶ月後に死去し、権力は息子の金正日(キム・ジョンイル)が世襲した。)合意枠組みは1994年10月に調印され、「非難の応酬と、膠着状態、瀬戸際外交、武力による威嚇、軍事的圧力、張り詰めた交渉が、断続的に続いた3年間」が終結したと、パク・クンヨン教授(韓国カトリック大学校で国際関係が専門)は2009年に出した交渉史の中で書いた。
この合意では、寧辺(ニョンビョン)で運転中だった北朝鮮で唯一の原子炉を閉鎖するとともに、北朝鮮は大型原子炉2基の建設も中止したが、「これら合計で毎年核爆弾30発分のプルトニウムを作り出す能力があった」と記すのは、1994年枠組み交渉を支援したレオン・V・シーガル(国務省の元当局者)で、彼はニューヨークの社会学研究委員会で北東アジア安全保障プロジェクトを指導している。この合意において米国にとって最も重要だったのは、北朝鮮が核拡散防止条約に留まることだった。
北朝鮮の譲歩と引き替えに、米国は毎年50万トンの燃料用重油を北朝鮮に供給するとともに、北朝鮮が使っていたソビエト時代の重水炉施設よりも「核拡散しにくい」と考えられる商用軽水炉2基を提供することに同意した。新たな原子炉は朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)と呼ばれる日米韓の共同事業体によって2003年に建設される予定だった。(しかし、この原子炉が完成することはなかった。)
ソビエト連邦崩壊後に経済が荒廃していた北朝鮮政府にとって最大のご褒美は、米国が北朝鮮を敵国のように扱うのを止めると約束したことだった。具体的には、両国は全面的な外交経済的正常化に向け可能な限り速やかに行動することを合意した。実際の展開は次のようなものだった。
第一に、枠組み合意は北朝鮮のプルトニウム型核兵器計画を10年以上にわたって停止させ、核爆弾100発分以上のウラン濃縮を諦めさせた。「よく知られていないのは、北朝鮮は1991年から2003年までいかなる核分裂性物質も作らなかったことです」とシーガルはいう。(国際原子力機関(IAEA)は1994年に、北朝鮮が3年前からプルトニウムの製造を停止していたことを確認した。)北朝鮮をめぐる「この一連の経緯のかなりの部分が空想とされているのです」と、シーガルはため息交じりに付け加える。
第二に、枠組みはブッシュ政権になっても効力を保っていた。1998年に米連邦議会で、国務省のラスト・デミングは「枠組み合意のどの面でも基本的な違反は無かった」と証言し、4年後にブッシュ政権当時のコリン・パウエル国務長官が同様の宣言をしている。「米連邦議会の人々が、合意にはそれが印刷されている紙ほどの価値も無いと言うのを聞くと、私は本当に腹が立つ」と語るジェームス・ピアースは、ロバート・ガルーチ北朝鮮核問題担当大使が率いる国務省のチームで枠組み交渉を担当した。「結論を言えば、1994年合意には有効だった部分がたくさんあり、長年にわたって継続しました。それを北朝鮮がすぐに破ったという主張は、いまや金科玉条となっていますが、断じて真実ではありません。」
第三に、枠組みとその結果生じた継続的な関与のおかげで、ウィリアム・ペリー国防長官が率いるクリントン政権は、一連の目覚ましい対話を開始することができ、北朝鮮との関係を打開する寸前まで行っていた。交渉が進展すると、金正日(キム・ジョンイル)は驚くような提案をした。敵視政策を止めることと引き替えに、北朝鮮は全ての中長距離ミサイルの開発、実験、配備を中止する用意があるというのだ。だが合意が完遂されることはなかった。(マデレーン・オルブライト国務長官の下で参事官を務めたウェンディ・シャーマンは、両国は「じれったいほど接近していた」と後に書いた。)「実際、彼らは(米国との)関係改善のためならミサイル計画を引き替えにしても良いと思っていました。そして、これは北朝鮮が核を持つ前に起きたことなのです!」とシーガルは私に語った。
第四に、北朝鮮にとって合意の最も重要な部分だった、米国からの石油の供給と政治経済的関係の全面的な正常化を遅らせたことで、米国自身が枠組みに違反した可能性がある。米国が約束した石油の供給が遅く、敵視政策を止めるという誓いは立ち往生しているとして、北朝鮮は1997年までに激しく苦情を申し立てていたとシーガルは回想する。米国によるそれらの約束が、そもそも金正日(キム・ジョンイル)が合意に署名した理由だったからだ。1998年の下院公聴会でガルーチ北朝鮮核問題担当大使は、米国政府が石油供給について「やると言ったことを、責任を取って」やらなければ失敗すると警告した。「北朝鮮が1998年に(他の軍事的選択肢を)模索し始めたのは、このような背景によるものだった。米国は約束を果たしていないという北朝鮮政府の確信が高まったのだ」と、元CNN記者で『メルトダウン:北朝鮮核危機の内幕』の著者マイク・チノイは、先日『ザ・サイファー・ブリーフ』の痛烈な記事に書いた。
最後に、枠組みが2003年に崩壊したのは、合意について重大な疑いを持って就任したブッシュ政権が、1990年代の米国機密情報を蒸し返し、北朝鮮が原爆への第二の手段として高濃縮ウラン計画を開始していたと非難した後だった。(北朝鮮は後に使うために濃縮装置を世界中で探し回っていたが、実際にはまだ持っていなかった。)ブッシュは枠組み合意を破棄し、1年前の2002年1月に彼が北朝鮮を「悪の枢軸」の一翼と名指しして火が付いた関係悪化を、さらに深刻なものにした。これに対抗して北朝鮮はIAEA査察官を国外追放し、同国初の核爆弾の製造を開始して2006年に完成させ、今日まで続く第二の核危機を引き起こした。「北朝鮮は(我々を欺いて)両面作戦をとっていたのだと思います。なぜなら我々も北朝鮮を欺いていたからです」と、2002年にコリン・パウエル国務長官の首席補佐官だったローレンス・ウィルカーソンは、先日リアル・ニュース(テレビ放送ネットワーク)で語った。
言い換えれば、この話の全体像は複雑で、責任はどちらの側にもあると言うことができる。だがその結果は悲惨なものだったと、元国務省当局者のシーガルが、彼の見事な米朝交渉史の中でまとめている。(これは韓国統一研究院とコロンビア大学ロースクールから昨年出版された。)
「ブッシュ大統領が就任したとき、それまでの外交が成果を上げて、北朝鮮は長距離ミサイルの実験を停止していた」とシーガルは書いた。「核爆弾1発分以下のプルトニウムしか持っておらず、もう製造していないことは検証されていた。その6年後、米国の約束違反と金融制裁の結果、核爆弾7から9発分(のプルトニウム)を保有し、長距離ミサイルの試射を再開し、思う存分核兵器の実験を行った。」そのとき以来、「どちらの側も誓約を守らず交渉を継続しなかった」ので「どんな成果も長続きしなかった」と、彼は先日の解説で指摘した。
2008年の大統領選でオバマは北朝鮮の指導者と対話すると公約したにもかかわらず、交渉を再び軌道に乗せることをしなかったので、実際にはオバマ政権下で状況は悪化した。トランプはこれらの失策が残したものに取り組んでいるのであり、8月9日に直接対話の考えをしぶしぶ支持したとき、彼はこのことを理解していたようだった。トランプは記者たちに向かってこう言った。「これまで25年間交渉してきました。クリントンをご覧なさい。彼は交渉に負けたのです。彼は弱腰で無能でした。ブッシュ政権で起きたことを、そしてオバマ政権で起きたことをご覧なさい。オバマは、これを口に出すことさえ望みませんでした。でも私は話します。タイミングの問題です。誰かがやらなければならないのです。」
トランプの言う事実はいつものように的外れだが、対話が必要だという彼の結論は妥当なものだ。しかし、それを実行するためには、彼の政権は枠組み合意を沈没させたのと同じような政治的攻撃に対処しなければならない。そして今回は、北朝鮮との外交が成功したことなど一度もないと信じる外交政策の強硬派から反対が出てきそうだ。
枠組み合意を語る歴史の多くは、重要な事実を見逃している。調印の1ヶ月後、共和党が40年ぶりに米連邦議会で多数を占めたのだ。「合意が締結されるや否や共和党が上下院を掌握し、合意を危機にさらした」と、シーガルは米朝交渉史に書いた。署名のインクも乾かないうちに、ニュート・ギングリッチら共和党指導者、特にジョン・マケイン上院議員が枠組みを攻撃し、これが本質的には核拡散に関する国際法に従うよう北朝鮮に賄賂を渡して米国をさらなるリスクにさらす裏切り行為だと非難した。「カーター大統領時代の、宥和(ゆうわ)政策に逆戻りしているのです」と、マケインは1994年10月にPBSテレビのマクニール・レーラー・ニュースアワーで語った。
合意の過程で、共和党はKEDOと燃料油の鍵となる資金提供を遅らせたので、クリントン政権は他に資金源を探さざるを得なくなり、供給の遅れは著しく、「ときには数年」にもなったと、元CNN記者のチノイはいう。このことで、合意の条件を実行に移すため北朝鮮と直接向き合った米国外交官は困難に直面したと、ピアースは回想する。彼は長期間を平壌で過ごし、北朝鮮に到着した燃料油がどこへ流れていくかを、北朝鮮当局者と共同で監視した。「我々が(資金を)かき集めたのは、米連邦議会から追加の予算はこれ以上もらえないことが分かっていたからです。それでも自力で引き渡すほかありませんでした」と彼はいう。
米国の連邦議会と行政府が対等な力を持っていることを良く心得ていた北朝鮮政府は、この遅れを1994年に締結した合意の破棄とみなした。その怒りにもかかわらず、父の死から間もなく権力基盤を固めた金正日(キム・ジョンイル)政権は、IAEA査察下で寧辺(ニョンビョン)に貯蔵されていた使用済み燃料の再処理や、原子炉の再稼働を試みることはなかった。だが防衛手段として北朝鮮が開始した中長距離ミサイルの建造は、それまでの交渉に含まれていないものだった。1997年までに北朝鮮は2発を試射し、米国防省は恐怖に身を震わせた。
1998年に、米国の敵視政策を終わらせるよう説得する必死の試みで、北朝鮮はミサイル計画を交渉のテーブルに乗せることを提案した。クリントンが難色を示すと、北朝鮮政府はテポドンと呼ばれる3段式ロケットを打ち上げ、人工衛星を宇宙に送ろうと試みたが失敗した。これが引き金となって、クリントンはペリー国防長官を平壌への特命使節に指名してミサイル交渉を開始し、膠着状態を脱する寸前まで行った。
再び交渉に入るという金正日(キム・ジョンイル)の決断の鍵となった要因は、韓国の大統領、金大中(キム・デジュン)との緊張を緩和する努力が実を結んでいたことだった。韓国野党の元指導者が1996年に政権について以来、北朝鮮に向けた新たな「太陽政策」を支持し、朝鮮半島の分断を政治・経済・文化的関与を通じて解消することを目指した。2000年に、非武装中立地帯(DMZ)の両側に住む何千万人もの韓国朝鮮人に希望を与えた類い希な光景の中、2人の金(キム)は史上初の南北首脳会談で面会し、朝鮮半島を非核化すると宣言した。
これらの展開が米朝の対話に弾みを付けた。南北首脳会談から程なく、北朝鮮の高官で金正日(キム・ジョンイル)の副司令官だった趙明禄(チョ・ミョンロク)元帥は、ワシントンD.C.を訪れ、クリントン大統領や他の米国高官とホワイトハウスで面会した。シーガルによれば、二人は米朝の緊張を完全に終わらせることを意図した共同声明に調印し、朝鮮戦争を終結させた1953年の停戦協定を「恒久的平和協定」に転換することを含め、二国間関係を「公式に改善する」ために対話を開始することを誓った。その後間もなく、オルブライト国務長官が平壌に飛び金正日と面会した。
このミサイル協定には、全ての製造と実験を中止する金正日(キム・ジョンイル)の約束が含まれていたが、クリントン自身が平壌を訪問して締めくくる予定だった。だが彼はこの訪問を行わなかった。その理由で最大のものは、民主党のアル・ゴアと共和党のジョージ・W・ブッシュが争って紛糾した2000年の大統領選をめぐる、アメリカを揺るがした法的混迷の間、クリントンの顧問が彼をワシントンに引き留めたからだった。北朝鮮ミサイル計画の一時停止措置は2007年まで続いたが、合意が調印されることはなかった。「あの時が、全てが違う方向に進むかもしれないと思われた瞬間でした」と、ペリー元国防長官は1999年対話についての先日のポッドキャストでニューヨーク・タイムズに語った。
次にネオコンが現れ、対話はすっかり消え失せた。「ブッシュ大統領の下で、時計の針は戻され、(枠組み合意は)クリントンの過ちということになり、無効化し撤廃すべきものということになった」と、韓国カトリック大学校で国際関係が専門のパク教授は書いた。
枠組み反対派の代表格はブッシュ政権の国防長官ドナルド・ラムズフェルドだった。クリントン時代には、彼が議長を務める連邦ミサイル防衛委員会は北朝鮮とイランを危険な「ならず者国家」と特定し、強圧政策と、当然ながら堅固なミサイル防衛システムが必要とされた。その一方で、国務省では強硬な反対派のジョン・ボルトンが軍備管理担当国務次官として枠組みの条件を激しく批判した。(彼は現在、米国が北朝鮮の核開発計画を廃絶することは「北朝鮮を抹殺する」ことによってのみ可能だと言っている。)
政権初期にホワイトハウスで金大中(キム・デジュン)と面会したとき、ブッシュはクリントンの朝鮮半島外交に対して不快感を示した。まだ2000年の金正日(キム・ジョンイル)との南北首脳会談の満足感にひたっていた金大中は、交渉を継続すべきことをブッシュに説得できると期待していた。だが金大中は屈辱を受けた。ブッシュは、北朝鮮を信用せず金大中の「太陽政策」を支持するつもりはないと、テレビ生放送で告げたのだ。
数ヶ月後、コリン・パウエル国務長官の下、国務省の現実主義者が再検討の後で北朝鮮との対話の再開を決断したとき、ボルトン国務次官が率いる強硬派が枠組みの沈没を狙って、1998年のウランの「発見」に飛びついた。「枠組み合意は死んだという決定的な結論が欲しかった」と、ボルトンは後に説明した。
2002年10月に、ブッシュはジェイムズ・ケリー国務次官補を平壌に送り、北朝鮮に最後通牒を渡した。ケリーはディック・チェイニー副大統領とボルトン国務次官からいかなる交渉にも応じないよう厳命されていた。北朝鮮の対談者たちはウラン計画を実施中であるとの疑いは否定したが、その非難については議論しようと提案した後でさえ、ケリー国務次官補はこの命令に従った。「ケリーには副大統領事務局とジョン・ボルトンの参謀の両方から目付役が付いていました」と、国務省情報研究局の元北東アジア課長ジョン・メリルは回想する。「ケリーはこの問題について最初から調べにいくようなつもりはありませんでした。彼は北朝鮮の発言がウラン計画の存在を認めたものと決めつけて帰国しました。」
この説明によれば、北朝鮮はウラン計画の「権利」を有するが、ミサイルについては、より広い交渉の一部としてこの問題を議論する意思があると、ケリーに語った。だが、政権内の強硬派はこの提案を拒否し、枠組みの打ち切りを決定した。数ヶ月のうちに、北朝鮮はIAEA査察官を追放し、核拡散防止条約を脱退し、寧辺(ニョンビョン)核施設を再稼働させ、最初の核爆弾に向けて突き進んだ。
コンドリーザ・ライス元国務長官はブッシュ政権での自らの経験を綴った回顧録で、米国が高濃縮ウラン計画について北朝鮮との対話を拒否したことは、大きな間違いだったと記した。「(ケリーの)指示があまりにも拘束的だったので、ジミー・カーター元大統領は(核)計画を交渉のテーブルに載せるとしたら突破口は何なのか十分に探ることができなかった」とライスは書いた。後の2008年にヒラリー・クリントンが大統領に立候補したとき、彼女はこのことに気付き、ブッシュ政権が高濃縮ウラン計画を枠組み合意無効化の口実に使ったことを激しく非難した。「(枠組み)が破棄されると、全てを帳消しにされた北朝鮮が猛烈な勢いでプルトニウムの処理を始めたことは、議論の余地がありません」と彼女はワシントン・ポストに語った。
それ以来、2002年に北朝鮮が実際に本格的なウラン型核兵器計画を持っていたかどうかについて、多くの分析家が疑問を投げ掛け、むしろ本当にあったのはウラン濃縮の実験計画で、「したがって米国の安全保障に深刻で差し迫った脅威を与えることはなかった」ことを示唆したと国際関係学者のパク教授はいう。ウラン計画の存在についてCIAは「中程度の確実性」しか持っていなかったと2007年に米情報機関高官が米連邦議会で語ったことで、このことは裏付けられたようだった。(最終的に北朝鮮は核兵器を開発し、2010年には核施設を米国の科学者に公開した。)
それでも、北朝鮮はあきらめなかった。2003年10月にクリントンやペリー国防長官とともに練り上げたのと同様の文言を使った不可侵条約に、もし米国が調印するなら、北朝鮮は核兵器計画を放棄すると提案した。だがこれはブッシュにとって遠すぎた橋だった。「我が国は協定を結ばない。それは交渉の対象外だ」と彼は言った。2006年までに、北朝鮮は核爆弾を作るのに十分なプルトニウムを処理し、同年には初の核爆発装置を起爆させた。(米朝対話の詳しい経緯は、軍縮情報機関のアームズ・コントロール・アソシエーションが公表した年表を参照。)
だがブッシュ政権下でネオコンが非常に大きな影響を持っていたにもかかわらず、北朝鮮との対話は米国だけでなく、六者会合のもと中国、ロシア、日本、韓国との間でも継続した。驚くべきことに、1980年代から米国が食い止めようとしてきた「レッド・ライン」である核実験を2006年に北朝鮮が実施した3週間後に、ブッシュは六者協議の一環として北朝鮮との直接対話の開始に同意した。
この対話は、特定の条件が満たされれば北朝鮮は核兵器を放棄し核拡散防止条約に復帰する用意があるという、2005年の宣言の結果だった。膠着状態と危機が2006年の核実験に至った後、2007年2月に北朝鮮は核実験を停止し原子炉の運転を止めた。その数ヶ月後、北朝鮮は寧辺(ニョンビョン)のプルトニウム施設の無効化に同意した。これと引き替えに、米国は制裁措置を緩和し北朝鮮をテロ支援国家のリストから外すことを約束した。だが、北朝鮮政府のウラン濃縮とプルトニウム処理活動の検証の問題をめぐって、この合意は間もなく破綻した。
クリントンの2000年合意と同様に、ブッシュの交渉は2007年10月に行われた2回目の南北首脳会談など朝鮮半島内での進展に助けられた。だが首脳会談から間もなく、韓国では革新派の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に代わって、太陽政策に断固反対する右派の李明博(イ・ミョンバク)が就任した。李明博を支援した日本の新たな保守政権も関与を拒否し、李明博は書面による検証制度を要求し、これをブッシュはすぐに承認した。
しかし北朝鮮はこの要求が盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府の調印した2005年協定に違反しているとして激しく反発した。これに対抗して、日韓両国は北朝鮮へのエネルギー支援を打ち切ったので、六者会合は宙に浮いた。(李明博の強硬政策は、後継者の朴槿恵(パク・クネ)にも引き継がれたが、北朝鮮との緊張を大幅に高めて現在の危機の到来を招いたと、現在の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は5月に『ザ・ネーション』の対談で私に語った。)
しかし、六者会合はオバマ就任後の数ヶ月まで崩壊しなかった。シーガルの詳細な交渉史によると、オバマ大統領とアジア担当最高顧問のジェフリー・ベイダーは2009年に、北朝鮮に要求している検証計画を受け入れさせるため、エネルギー支援の差し止めを圧力として使うという李明博(イ・ミョンバク)大統領の提案を受け入れることを決定した。李明博はオバマ大統領との緊密な友好関係という強みもあったが、ニューヨーク・タイムズはこれを「大統領レベルのマン・クラッシュ(男同士の憧れの感情)」と見なした。
オバマは2008年大統領選で支持していた北朝鮮との直接対話という考えを捨て去った。シーガルによれば、米国の政策は「交渉のない圧力だけの政策」となった。公式には、この政策は「戦略的忍耐」として知られているが、その背後にあったのは北朝鮮が崩壊に向かっているという前提だった。オバマと李明博(イ・ミョンバク)の圧力戦術は緊張を高めただけで、その結果、北朝鮮はさらに核爆弾とミサイル実験を行っただけでなく、2010年には危うく軍事衝突に発展しそうになった砲撃事件も発生した。
状況が悪化すると、オバマは韓国と一連の軍事演習に乗り出し、その規模と頻度はオバマ政権の間に増大して、現在では金正恩(キム・ジョンウン)との緊張関係の中心になっている。それでもなお、対話はシーガルなど米国元当局者のルートを通じて散発的に続いている。
2010年に、米国が北朝鮮に対し「敵意を持たない」ことを誓うことと引き替えに、北朝鮮は兵器級のプルトニウム製造の主原料である核燃料棒を第三国へ搬出することを、このルートを使って提案した。だがオバマ政権は「聞く耳を持たなかった」と会談に参加した元交渉担当者のジョエル・ウィットはいう。2015年に、敵対に終止符を打つ平和条約に向けた包括的提案を北朝鮮が行ったが、これも直ちに拒絶された。
デイビット・サンガーがタイムズ紙の年代記に書いたように2016年末までに、オバマは電子的攻撃を使って北朝鮮のミサイルとその供給網を「妨害する」攻撃的なサイバー戦略を決定した。オバマが退任してトランプがホワイトハウスに来たときには、関係はほとんど修復不可能なまでに悪化していた。
今年の4月に、一連のミサイル実験を受けてトランプは勢いを増し、それからの緊張は天井を突き破った。しかし、私が『ザ・ネーション』で報告したように、北朝鮮は米国が、1994年枠組み合意で捨てると言っていた「敵視政策」を捨てなければ交渉は不可能だという考えにしがみついている。
現在、トランプ政権は北朝鮮に対する制裁措置を中国への圧力と組み合わせ、北朝鮮を交渉のテーブルに着かせようとしている。これはある程度まで成功したかもしれない。8月14日に金正恩(キム・ジョンウン)が身を引いたのは、中国政府が北朝鮮からの石炭、鉄鋼、海産物の輸入を即時禁止すると発表した数時間後のことだった。この決断は中国が8月に国連安全保障理事会が課す厳しい制裁措置に異例の支持票を投じたことを受けたものだった。
だが、ジェームス・クラッパー元米国国家情報長官など米国元当局者が提唱したように、ある時点で米国は金正恩(キム・ジョンウン)の代表者たちと交渉のテーブルに着き、北朝鮮を非核化への道に乗せるため何らかの合意を目指す必要に迫られるだろう。さもなければ、北朝鮮を核兵器保有国と認め、北朝鮮の計画の沈静化を目指すことになる。(過去の交渉担当者の中には意見を異にする者もいる。)北朝鮮は米国が核開発計画を承認すれば外交の道が開けると語ったことを、先週CNNのウィル・リプリーが報告した。
今週、国連で中国とロシアが再び主張したのは、北朝鮮をここまで激怒させた大規模な米韓軍事演習を停止または規模縮小するかわりに、北朝鮮が核爆弾とミサイルの実験を停止するという、「凍結には凍結を」政策こそ、対話を開始する最も良い方法だということだ。この交換条件をトランプ政権は拒否したが(ヘイリーはこれを「侮辱的」と呼んだ)、米国の元交渉担当者は、クリントンが韓国での米国「チームスピリット」演習を停止したことが、枠組み合意を承認させる上で「不可欠」だったということを、先日行われた秘密の電話会談で朝鮮半島問題専門家たちに思い出させた。同時に、先日の世論調査では、米国民の60%が北朝鮮との交渉による解決に賛成であることを示していた。
1994年の時点で、妥協点は敵対関係を終わらせることと平和を見出すことの間に来るはずだった。この交渉史のどこかに、ティラーソン国務長官とトランプ大統領は、1945年の冷戦の夜明けまで遡るこの紛争を解決する鍵を見つけるかもしれない。だがそれは、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が何度もトランプに念を押しているように、韓国の全面的強力を得て行わなければならない。「だれも韓国の合意なしに朝鮮半島で軍事行動を行う決断を下すことは許されるべきではない」と文在寅は珍しく率直な8月15日の声明で宣言した。制裁措置と圧力の目的は「北朝鮮を交渉のテーブルに着かせることであり、軍事的緊張を高めるためではない」と彼は付け加えた。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権で韓国外交通商部の長官として文在寅(ムン・ジェイン)とともに働いた尹永寛(ユン・ヨングァン)は、9月5日にワシントンで行われた米韓関係に関する会議で、この意見を補強した。現在のような緊張が続く間は、「我々は外交ルートを開いておき、可能なことを模索しなければならない」と彼は言った。
彼は、米朝の政治経済的関係の正常化に関する1994年枠組みの条項を指していた。「北朝鮮はそれを強く期待していた。我々は彼らに(交渉の)動機を何か与えなければならない」と彼は言った。歴史家のブルース・カミングスが数週間前に思い起こさせたように、トランプが周知の通り8月9日に脅したような「炎と怒り」の戦争が再び起きることは、問題外なのだ。
(本文終わり)
著者:
ティム・ショロックはワシントンD.C.に本拠を置くジャーナリスト でSpies for Hire: The Secret World of Intelligence Outsourcing (『雇われるスパイ:諜報活動の密かな外注化』)の著者。
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初出:「ピースフィロソフィー」2017.09.18より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2017/09/tim-shorrock-diplomacy-with-north-korea.html
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〔eye4202:170919〕
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