東大音感合唱研究会の内田義彦とその問題史的意義(1)
- 2017年 9月 22日
- カルチャー
- 内田義彦野沢敏治
以下の文章は私が昨年ある小さな研究読書会で報告したことを元に大幅に加筆したものである。それは明治から昭和の戦後にかけての時期のものであるが、忘れさせようとする内と外の動きに対して意志をもって記憶し省みるべきことである。4回に分けて掲載する。
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Ⅰ 音楽と日常生活
Ⅱ 音楽と社会運動
Ⅲ 音楽と国家生活
Ⅱ 東大音感合唱研究会――明日の糧となる音楽を
それは1950年の夏、日本は戦後の民主化と経済再建の途上にあり、東西冷戦の下で朝鮮戦争が勃発した時であった。東京大学法経25番教室に歌声が響きわたる。ベートーヴェンの第9交響曲の「歓喜によす歌」である。バリトンの「ともびとよ しらべかえて いざ こえも ほがらかにあげん よろこびのうた」に誘われて歌いだす合唱である。これは東大音感合唱研究会(以下、音感と略す)という学生サークルが一般学生向けに行なった初等講習会の最後に卒演したものであった。
学生は男子であれば、男に音楽なんて!という雰囲気であり、寮歌を蛮声張りあげて歌うことしか知らなかった。女性はといえば、戦前は帝国大学への入学を許されず、結婚は親が決めた相手とするのが普通であった。こういう因習や偏見が若者ののどを固くさせていたのだが、この研究会は歌いたいという隠された欲求を引きだしたのである。講習会に参加した学生は「オンチ歓迎」の文句につられ、本当に第9なんて歌えるのかと思って入会したが、違った高さの声を合わすハーモニーの美しさに胸を震わせ、きれいごとでなく下手でも心にくる合唱を求めるようになる。彼らはよりよき明日の生活への泉になる音楽をめざすようになる。
合唱指揮者は内田義彦、新進気鋭の経済学者となっていた人である。この彼が3年後に『経済学の生誕』を著すことで日本の社会科学における旋回軸の1つとなっていく。『生誕』は戦後になって本格的に胎動するが、彼はすぐに専門研究に入るのでなく、ほぼ同時に日本の学問・芸術批判と新劇・音感活動、経済再建と民主化の時論、経済理論・学史研究の4つが進行する。ここでは芸術活動のうちの音感を取りあげるのであるが、それが経済学とどんな関係があるのか、その詳しい展開は拙著『内田義彦――日本のスミスを求めて』を見ていただくことにして、以下、主として、音楽することの意味を明治以来問題にされてきた芸術と現実生活、芸術と社会や政治との関わりの中で考えておきたい。
Ⅰ 音楽と日常生活
ここで言う生活とは、音楽を生み育てる母胎のことである。音楽を作ったり楽しむ人は、一方で自然や物に関わり、他方で他の人と交わっている。それらの関係の仕方は時代によって違う。また生活はそれを問題にする人の立場によって異なる意味をもつ。その点で音楽は自然環境や労働と、また教育や社会、政治と何らか関連している。芸術の絶対性の体験については後で触れる。その音楽を主として歌に限定してみると、日本の歌は明治以来ずっと幾つかに分裂してきた。学校の唱歌対童謡、西洋音楽対伝統音楽、教育音楽対芸術音楽というように。それに対してその分裂を解消して音楽を現実生活に根づかせようとした各種の運動が起きてきた。歌を子供の生活になじませるとか社会進歩や労働生活に適合させる、あるいは戦争の国家生活に合わせる等。音感合唱研究会もそのような結合運動の一つであった。
1 明治の学校唱歌、校門を出ず
日本の近代音楽を用意した最初期の1人に伊沢修二がいて『音楽取調成績申報書』(1884年)を編纂したのであるが、その趣旨は西洋音楽を日本の小学校教育に取り入れて生徒をして富国強兵の国家づくりに役立てるというものであった。音楽は純粋音楽でなく実用音楽でなければならない。そこには今日に至るまでの洋楽受容の特徴がみられるのである。
伊沢の方法は慎重であった。当時、今ある不十分な東洋楽を育てて西洋楽に完成させることは迂遠すぎるから、最高度に発達している西洋楽の良いところを移植すべしという議論があった。他方、各国の音楽はそれぞれの事情があって自然に生まれたものであるから、洋楽を日本に取入れるのは無理だという考えがあった。この対立は後発国が先進国と交渉する時によく出てくる型である。伊沢はそれに対してそれぞれの理を認めて偏向を嫌い、折衷を良しとした。この場合の折衷は賢明であった。彼はアメリカの公立学校の唱歌教育を参考にして日本の童謡を集め、新たに唱歌を作ったのである。
音楽は音から成るが、高さに注目してその関係を測ると、そこに音律がある。この点は後でもう一度検討するが、伊沢は日本の在来の音楽(雅楽・長謡等)は歌でも楽器演奏でも西洋と音律の点で少し異なることを確かめた。そのさいに彼はそれぞれの旋律の法は固有の価値をもつとするよりも、そこに長所と短所があると価値評価し、長所をとり短所を捨てていくのである。
西洋の旋法には長音階と短音階がある。長音階は今日の日本では誰もが学校で習うものであって、ドレミファソラシの7音階のうち、ミとファの間およびシとドの間の音の高さが半音で後は全音となっている。短音階はレとミ、ソとラの間が半音で後は全音となっているもの。この2つの音階を比較すると、一般に長音階の曲は快活であるが、短音階の曲は柔弱と感じられる。日本にも伝統的に呂律の2つの旋法があったのだが、伊沢はちょっと乱暴だが、呂旋は西洋の長音階と一箇所違いはあるがほぼ同じであり、律旋も西洋の短音階と一箇所違いはあるがほぼ同じであるとみなしてしまった。そして西洋では長音階の曲が多く、日本では短音階の曲が多いと見た。彼は以上の東西比較をしたうえで、実際には西洋長音階からドレミソラの5音を取り出し、ファとシを抜いたいわゆるヨナ抜き長音階(ドレミファソラシをヒフミヨイムナと呼んでいた)を作ってそれを歌づくりに用いた。今日では考えられないが、当時の日本人がドレミファソラシをそらんずるのは大変な努力を要したのである。同じくヨナ抜き短音階も作られるが、こちらは次節の大正期の流行歌に多く用いられる。
さて伊沢が注目したことは音楽の教育的効果であった。音楽は人心に働きかける力が大きく、人間作りに役立つと考えられたのである。戦後高度成長期における「期待される人間像」の明治版である。そこで幼児の時から長音階の曲を練習させて秩序を敬う有徳な心を作り、同時に勇壮な精神を養って軍隊の規律に従わせようとした。「五輪の歌」や「五常の歌」が作られる。あの「蛍(の光)」の第3番の歌詞の終りは「ひとつにつくせ、くにのため」であった。戦後その歌詞は消える。このように小学唱歌は裃を着たものであった。そして政府は社会の底辺ではびこる演歌(――街頭での演説歌であって、戦後のこぶしを利かせた歌謡曲ではない)などは猥雑であって風俗を乱すものと蔑視する。児童が親をまねてそれを口に出すのは教育上よくないと取り締まられるのである。
唱歌の歌詞は日常語でなく文語調であり、その内容は花鳥風月を歌うものであって子供の現実生活や遊戯から離れていた。今日誰もが知っている「むすんでひらいて」はJ.J.ルソーの曲を発展させたものであるが、最初は『古今集』から歌詞をとって「見渡せば」の題をつけられていた。それが雅正婉美な感じを現わしていて好ましいとされたのである。
ここから後々まで続く問題が生じる。学校では音楽がそれ自体として自由に歩むことは抑えられ、唱歌は俗の日本語自身がもつ音楽性を考慮することはなかったと言える。唱歌は上品でなければならず、修身の道具とされる。昔からあったわらべ歌は卑俗なものと軽視され、それは最初期の唱歌集には入らなかった。わらべ歌はてまり歌のように子供同士の日常の集団生活から自然発生的に生まれ、昔から口伝えで伝承されてきたのだが、それが学校では抑えつけられる。これでは子供は学校から帰ると唱歌を口にしなくなる。彼らが日頃口にしていたのは大人の演歌や俗謡の類であった。こうして「学校唱歌、校門を出ず」という状況になる。この種の分裂は今日までそう変っていないのである。
この2重化を解消しようとして、まず大正期の童謡運動が出てくる。
2 大正期の童謡――日常語を曲につなげる
大正期になると、明治と異なる音の風景が出てくる。山田耕筰のような人物が出てきて楽壇が作られていき、その中心に東京音楽学校が座った。そこではドイツのクラシック音楽が一番高尚だとされたのだが、それに対して同じ洋楽畑の成田為三(「浜辺の歌」の作者)などはそれまで低く評価されていた童謡を積極的に作っていく。また、唱歌教育は明治も末になると少し改善されて軌道に乗るようになり、洋楽の音感をもった聴衆層ができていく。中山晋平がその状況を受けて大正から昭和初めにかけ、ヨナ抜き短音階を使って大衆歌を作った。彼は島村抱月のモットー――大衆とともに芸術を作れ、日本の伝統を忘れるな――を守り、日本的な哀調の歌を作っていくのである。それは輸入洋楽のリート調でも日本の巷の唄でもない和洋折衷の歌であったが、旋律が歌詞の調子に合うように作られていた。伝説となったことだが、芸術座がトルストイの『復活』を公演した時に中山は劇中歌「カチューシャの唄」を作り、それが松井須磨子によって歌われて大変な人気を呼んだ。その第1番の歌詞が「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願ひを(ララ)かけましよか」であった。ここでは原作における人生の再生への自覚と決断がちょっと感傷的に歌われている。中山は続けて同じ芸術座の公演でツルゲーネフの『その前夜』でも劇中歌「ゴンドラの唄」を作り、これも流行した。吉井勇作の第1番の歌詞がこうである。「いのち短し 恋せよ 少女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日のないものを」と短き青春の恋が率直に唄われる。これは明治では出てこない曲調であった。中山はその後、新民謡と言われるものを続々と出し、そこに民謡のはやし言葉を入れた。「カチューシャの唄」での「ララ」や「波浮の港」でのヤレホンニサ」等。新民謡の代表作は「船頭小唄」(「枯れすすき」)であろう。歌詞は野口雨情がどん底生活の中で作り、船頭にでもなって暮らそうというもの。「己は河原の 枯れ芒 同じお前も 枯れ芒 どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れ芒」。そこには庶民のいじけた気持が出ており、文学者からはめそめそと哀れだと謗られたが、そこから誇らかに歌えるのであれが歌いたいという願いのようなもの(添田知道『演歌の明治大正史』、参照)を救い上げてよかったのである。
戦後の音感はそれに対して新しい世の中を作る中で歌を取り戻そうとしたと言えよう。
だが中山の童謡になると、今日のわれわれにも親しいものとなる。「背くらべ」や「證城寺の狸囃子」などは誰でも知っている。たいていは短調の曲であるが、「雨降りお月」はどこまでも懐かしく澄んでいる。また彼の童謡には明治の唱歌と違って、わらべ歌や民謡の旋律が取り入れられている。「てるてる坊主」の前段の「てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ」や「通しゃんせ」など。「兎のダンス」は実にリズミックであり、子供のエネルギーの発散を促すようで、それは戦後の子どもにも受けいれられていく要素であった。「蛙の夜まはり」では蛙の鳴き声がガッコ、ゲッコと子供が喜ぶような擬音が入る。
以上、中山は『赤い鳥』的に子供を純一な心の持主と見ていたが、しゃぼん玉が生まれてすぐにこわれて消えたとか、てるてる坊主に願っても雨だったら首をちょん切ると言う歌詞にはちょっとドッキリする。でもこういう歌は子供の奇異な想像力に合うのかも知れない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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