周回遅れの読書報告(その27)関矢留作のこと
- 2017年 9月 24日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
関矢留作という農業経済学者がいた。講座派に近い人物であるが、若くして死んだ。その人物のことを知っている人間はほんの僅かであろう。私も、長岡新吉(当時北海道大学経済学部教授)の『日本資本主義論争の群像』という本を読むまで全く知らなかった。最近になって、関矢と『日本資本主義論争の群像』のことを思い出した。私は、この本が出版されてから4年もたってから、ある書店の店頭で偶然見つけて、この本を読んだ。それまでこんな本が出ていることさえ知らなかった。長岡はこの本の中で、(日本資本主義の規定をめぐる)「労農派と講座派の論争のセクショナリズム化」を指摘し、次にその「冷静な観察者」として、宇野弘蔵、猪俣津南雄、関矢留作の三人を挙げている。この三人のうち、宇野弘蔵と猪俣津南雄については多少の知識は持っていた。ただ関矢留作についてはその名前を聞いたこともなかった。
長岡は関矢に対して、本書で取り上げられた極めて多数の「群像」の中でも、最も深い親しみと同情をもって接しているように見えた。その関矢留作は、本書において最も頻繁に登場し、論争の一方の一貫した“引き回し役”の感さえある猪俣津南雄と同様────日本主義論争の「群像」の多くがそうであったように────志半ばにして無念の死を遂げている。猪俣津南雄は42才、関矢留作は僅か31才であった。これ以上のことは直接『日本資本主義論争の群像』を読まれることを薦める。
この本を読んだ前後のことについてはかなり細かいメモが残っている。日曜日に、ほかに読む本もないからという実に消極的な理由で読み始めたのだが、読み始めた途端、「一読、巻を擱くあたわず」の状態になり、300頁を超すこの本を一気に読み終わった。日本主義論争自体はよく知られた論争であるが、この論争を「一読、巻を擱くあたわず」のように書いた著者・長岡の筆力に脱帽した。今でもこの本は「名著」ではないかと思っている。
そして後日、関矢の夫人・マリ子が書いた私家版の冊子『関矢留作について』の全文コピーを読むことができた。『関矢留作について』は古い本であった。北大がまだ「帝国大学」と称していた時代の付属図書館に著者からの寄贈書として収められたことが蔵書印から読みとれた。「帝国大学」時代の北大には経済学部はまだなかったはずである。それなのに、こんな私家版の冊子がよく収蔵されていたものである。当時の北大にも関矢留作の急逝を惜しむ者がいたのであろうか。冊子には脱稿したと思われる「1936.8.13」という日付が付されていた。関矢が急逝したのが1936年5月15日。関矢マリ子はその一ヶ月後の6月15日から執筆を開始したことが冒頭の文章で窺える。小さな文字で、1頁に50字×22行で組まれている。それが実質55頁ある。400字詰め原稿用紙に換算して、150枚を超える。それをマリ子は僅かニヶ月で書きあげている。留作に寄せるマリ子の強い思いが伝わってくるようであった。
『関矢留作について』も一気に読んだ。関矢留作は最後まで開拓地・北海道の現場で農業問題に取り組み続けて、死んだ。関矢は早朝「越後志士河井継之助の伝記を読みながら、ノートをとって居」るなかで急逝したという。関矢の父親は、開拓のために集団で北海道に渡ったグループのリーダーであった。そして越後魚沼に残った彼の妻の代わりに、開拓地でめとった「現地妻」が留作の母であった。彼は、父の死後、北海道から父の実家に引き取られ、長岡の旧制中学に学んだ。長岡は彼にとって決してなじみのある町ではなかったはずだ。そんな彼が、死の直前まで幕末の長岡藩の家老であった河井の伝記を読んでいたことが、ひどく印象に残る。関矢にも河井にも「春雁吾ニ似タリ 吾雁ニ似タリ 洛陽場裏花ニ背イテ帰ル」という直江山城の漢詩を思い出す。関矢もまた河井の生き方の中に、自分に通じるものを感じたのであろうか。
長岡新吉『日本主義論争の群像』ミネルヴァ書房、1984年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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