社会学者の見たマルクス(連載 第2回)
- 2017年 9月 24日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
目次
Ⅰ 生涯
1. 共産主義者たらんとの決意と、フリードリッヒ・エンゲルスとの出会いまで(1819-1843年)
2. 疾風怒濤-ロンドン移住まで(1843-1850年)
3. 『経済学批判』、『資本論』第一巻の完成まで(1850-1867年)
4. その死まで(1867-1883年)
Ⅱ 学説
Ⅰ. 経済学批判、価値理論
Ⅱ. 平均利潤の謎
Ⅲ. 資本主義的生産様式とその発展
Ⅳ. 唯物史観
Ⅴ. 批判
第1部 生涯
マルクスの生涯は四つの期間に分かれる。この期間は明確に区切られる。第一期は、エンゲルスと友人になり、「共産主義者たらん」との決意をした青年時代までである(1818-1843年)。第二期は疾風怒濤の時代であって、このドイツ人革命家がロンドンに居を構えるまでである(1843-1849年)。第三期は、画期的な著作『資本論』の第一巻が初めて出版されたことによって区切られる(1867年)。そして第四期はその死によって終わる(1883年)。
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ハインリッヒ・カール・マルクスは1818年5月5日にトリーアで生まれた。早熟な子供であり、早熟な青年であった。その出自と最初の環境は、彼の精神的成長にとって幸いした。弁護士であった彼の父は、フランスとドイツの双方の教養を併せ持ち、大革命とナポレオン時代の影響のもとで育った。善良なプロイセン人であり、プロイセン人としてホーエンツォレルン王家にも好意的であったが、その他の点では自由思想の持ち主であった。マルクスの母は心根の優しい、穏やかな人だった。家庭は、飾り気がなく、市民的で、裕福であった。
こうした暮らしのなかで、一家はルター派のプロテスタント、連合プロテスタント教会に改宗した。このことは、外面的には重大なことであったが、家庭内においては大きな意味はなかった。しかし、この夫婦は二人とも古くからのラビの家系の生まれであったから、それだけにやはり驚くべきことであった。
マルクスの生徒時代のことについてはほとんど知られていない。ユダヤ人の血を引くこの若いプロテスタントはもっぱらカソリックの僧侶から授業を受けたのであろう。――こうした宗教上の多様性のなかでは、考えることへの刺激に事欠くことはなかった。マルクスは僅か17歳で卒業資格試験に合格した。このことから彼がギムナジウムの優秀な生徒であったことが推察されるであろう。
マルクスは法学部の学生としてボン大学に入学した。彼の父はおそらく、この有能な息子がいつかは彼の仕事を継ぐと考えていたのであろう。あるいは、息子がプロイセンの行政機構のなかで出世していくことも、この父にとってはかえって望ましいことだったのかもしれない。しかし、マルクスは単に有能なだけではなかった。彼には天才ともいえる資質があった。彼の関心は多方面に及んだ。抒情的な詩を作ることが大好きだった。哲学を研究することは、当時の大学生にとっては、愚か者でもなければ、当たり前のことであった。ヘーゲルが思想界と大学の教壇をまだ支配していた。そして青年ドイツ派が登場していた。
七月革命以来、政治的運動が、とりわけラインラントとプロイセンの首都ベルリンで進んでいた。憲法、議会、市民的自由、これが運動を前進させたスローガンであった。フリードリッヒ・ウィルヘルム三世の長い治世の終焉と皇太子の即位とによって期待が大きくかきたてられたが、これはすぐに裏切られた。フランスとイギリスでは労働者階級が激しく扉をたたいていたが、国民的統一と立憲国家を求めていたドイツ市民階級は、その先鋭な部分においては、既にこの労働者階級の要求を自らのうちに取り込んでいた。それだけに、強まりつつあったドイツ市民階級の自意識は、このことによって一層激しく沸き立った。当然のことながらこのことは、資本と労働の、そしてブルジョアジーとプロレタリアートの潜在的な対立が明確に意識されることなしに、生じた。
三月革命[1848年]以前のドイツにおいては、神学の研究がなお他のすべての研究を凌駕していた。哲学に重要性を与えたのは、哲学の神学に対する関係であった。ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派の大きな問題は信仰と教会とに対する関係であった。『イエスの生涯』(1835年刊)の公刊によって大きな震撼をもたらしたのは一人のヘーゲリアンであったが、このヘーゲリアン、ダーフィット・フリードリッヒ・シュトラウスは、当時フランスで生じつつあった議会内の諸党派になぞらえて、学派の内部を右派、中間派、左派と呼んで区別した。
ヘーゲル左派は1840年頃に生まれたが、既存のあらゆる生き方やものの見方に対して、絶えずより先鋭的な攻撃を行っていた。先頭に立っていたのは依然としてやはり神学者であった。その中に知力と精力とで抜きん出た人物が二人いた。ブルーノ・バウアーとルートヴィッヒ・フォイエルバッハである。彼らはまた、我々の主人公であるマルクスにとっても重要な存在となった。
マルクスは、ボンで最初の学年を終えて18歳でベルリン大学に移ったときに、10歳年上のバウアーと知り合いになった。バウアーは、神学の私講師で、頭のなかはヘーゲルの概念で一杯であった。マルクスは指導者としての父を1838年に失った直後であったが、この血気にはやる若者には、他の人間の場合以上に、指導者が必要であった。
ただし学生マルクスは将来の人生の伴侶をもう熱愛していた。それは幼なじみの、ジェニー・フォン・ヴェストファーレンである。彼女はラインラントの明るさを持った素晴らしいドイツ女性であった。家庭外では苦難に満ちた人生を送ったマルクスであったが、ジェニーは彼の人生の太陽となった。
マルクスの学生生活は、イェナ大学での哲学博士号の学位請求論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異について』の提出でもって終わった。それは、1841年4月15日に「本人欠席で」なされた。
ヘーゲリアンであったマルクスの目標は哲学の大学教授資格を取得することであった。しかし、これに続いたのは失意と動揺の日々であった。マルクスは学究生活に入ることはなかった。学究生活というバラの木についている多くの棘を、それが大きくなる前にマルクスは感知していたのである。
マルクスの友人であったブルーノ・バウアーは1831年に全3巻の『共観福音史家の新教史批判』を公刊したが、これが原因で彼は、プロイセン文部省の訓令によって、ボン大学での「教授資格」を剥奪された。このことは、マルクスに深刻な影響を与えたにちがいない。バウアーは、彼を教授にしようと考えていた文部大臣アルテンシュタインに勧誘されて、ベルリンから私講師としてボンに移っていた。バウアーは、年若い友人であるマルクスに対して、自分のところに来て一緒に急進的な雑誌を出版しないかと熱心に働きかけていたのである。
マルクスはまだ、実生活においては堅実な道を探そうと考えていた。婚約者や母親に対する気遣いが、これまで続けてきた研究をそうした方面で役立てたいという考えを起こさせた。もちろん、マルクスは法曹試験にまだ合格していなかった。バウアーは、こうした「意図」を「馬鹿げた」ことだとし、「今や、理論は最も強固な実践活動なのだ。理論が実際にいかに重要な意味を持つようなるか、我々はまだ全く予想できない」と説いた。マルクスはまだ四方を市民社会の壁に囲まれて暮らしていた。マルクスは、婚約者の父にして「誠実な父親のような友人」であった枢密顧問官、ルートヴィッヒ・フォン・ヴェストファーレンに、公刊を準備していた学位請求論文を献ずるつもりだった。
バウアーの考えによれば、彼の企画していた雑誌の急進性は、著名なヘーゲリアンであったアーノルド・ルーゲの機関誌『ハレ年報』の先を行くはずだった。もっとも、マルクスがこのバウアーの雑誌に強い興味を持っていたかどうかは、疑わしい。
バウアーの計画が水泡に帰したのは、彼が遭遇した運命の結果であるが、マルクスにとってもこれは決定的なものとなった。上述のように、この事件はマルクスから学究生活に対する関心を奪い去った。マルクスは、政治的な見地からではなく、哲学上の見地から──ただそれはまだ青年ヘーゲル派的なものではあったが──学究生活を拒否する覚悟を決めたものと思われる。こうしてマルクスは「職業の選択を誤った者達」の道をとることになった。彼はジャーナリストになった。もちろん特殊なタイプのジャーナリストである。彼の実際の職業は、在野の研究者兼フリーの著述家であったといえる。
『ライン新聞』は、ラインの富裕な市民によって作られた。評価の高かった『ケルン新聞』は、当時教皇権至上主義的論調を張っており、プロイセン政府はこれを潰そうとしようとしていたことから、その限りで、『ライン新聞』はプロイセン政府の厚遇を受けていた。南ドイツ及びオーストリアには、以前は『アウグスブルガー・アルゲマイネ』紙、のちには『ケルン新聞』があった。『ライン新聞』は、プロイセン及び北ドイツにとってそういう新聞になるはずであった。
『ライン新聞』の記事のなかのマルクスが書いたと分かっているものを読んでみると、マルクスに与えられた主要テーマがたとえ第6回ライン州議会での討議であったとしても、彼が哲学者であることが隠しようもなく見てとれる。だがマルクスが面目躍如となるのは、『ケルン新聞』の社説を攻撃したり、哲学の宗教に対する関係を論じたりするときであった。ある時、マルクスの幼ななじみは、哲学というものは宗教に関する事柄を新聞記事でまで論じるべきものなのか、と問うたほどだ。マルクスは自分の思うがままに書いた。
これと関連して、もう一つの疑問がある。それは、いわゆるキリスト教国家において、新聞で政治を哲学的に論じることができるか、ということである。若き思想家マルクスは、自由主義者として、そしてヘーゲル的傾向が強かったが、啓蒙思想家として、政治と宗教を卓抜した機知でもって論じた。マルクスの啓蒙思想では、国家は「巨大な機関であって、ここでは、法的・道徳的・政治的自由が実現されなければならず、そして個々の国民は、国法の枠内で、自らの理性、人間としての理性という自然法にのみ従う」と見なされた。
マルクスはフーゴーを完璧な懐疑論者としたが、歴史哲学派の哲学的宣言、すなわちフーゴーの自然法も、マルクスは同じ論調で厳しく批判する。
カントの哲学がフランス革命のドイツ的理論であるのと同様に、フーゴーの自然法はアンシャン・レジームのドイツ的理論であるとみることができる。杜撰な凡庸さがその特徴である。これが、歴史哲学派の遅れてやってきた大物達がやる、もったいぶった大袈裟なもの言いの背後にいつも隠れている。
また『アウクスブルガー・アルゲマイネ』紙が、『ライン新聞』は共産主義に与しようとしていると批判したが、これに対してマルクスは、自分は進歩的自由主義者であると自らを弁護し、次のように言う。
『ライン新聞』は「現在の形での」共産主義に対しては理論の上でさえ現実性を認めたことはない。それ故、ましてやそれが実践の上で現実のものとなることを期待するはずがないし、それが可能だと考えるはずもない。『ライン新聞』は(つまり、マルクスは)しかしこの思想を――ルオーやコンデシランの著作や、とりわけプルードンの先鋭的な作品(『所有について』を指す)といったものを――根底的な批判にさらしてみたいと思う。「本質的な危機」を作り出すのは、実践的な試みではなく、理論の完成である。「なぜなら、実践的な試みに対しては、たとえそれが大衆を動かす試みであっても、それが危険なものになれば直ちに大砲でもって、これに応ずることができる。しかし、思想というものは、それが我々の知性を征服し、我々の考え方を支配し、理性がわれわれの心をそれに縛り付けるとなると、心を引き裂くことなしにはそこから逃れることのできない鎖となり、服従することによってしか征服することのできない悪魔となるからだ」。
力の入った、そして暗示的な言葉である。若く揺れ動くマルクスの精神が、自分がもう共産主義思想に捕えられたと感じとっていたことが、そして、共産主義思想は、一瞬のうちに通り過ぎていく驟雨のように、彼の将来の運命を思わせる風のように、マルクスに触れたということが、このことから言えるであろう。
ずっと後年になってからマルクスは、この当時の自分の発言のなかには、まだ「告白」があるだけだったとした。つまり、それまでの自分の研究では、フランスにおける諸潮流の考えに関して自分で何らかの判断を下すということはまだ許されなかったという「告白」である。
(連載第2回 終わり)
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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