「満洲事変」を忘れるな
- 2017年 9月 27日
- 評論・紹介・意見
- 中国満洲事変阿部治平
――八ヶ岳山麓から(236)――
また9月18日がやってきた。この日を迎えるたび、何かをいわずにはいられない気持ちでいっぱいになる。
「国民政府軍と中国共産党=紅軍との対決が激烈になりつつあった1931年9月18日夜半、瀋陽城北の南満洲鉄道(通称、満鉄)柳条溝付近の線路を爆破したのをきっかけに、関東軍はいっせいに北大営その他の東北辺防軍(通称、東北軍)への攻撃を開始した(姫田ほか『中国近現代史』東京大学出版会1982年)」
若い人で日本近代史を学ばなかったら、上記に現れる満洲が中国東北部の黒竜江・吉林・遼寧の3省を指すことや、これが「満洲事変」と呼ばれる宣戦布告なき日中15年戦争の始まりであり、関東軍とは日露戦争後に満鉄と「関東州」防衛のために中国に駐屯した日本軍であり、東北辺防軍とは中華民国の軍隊を指すとはわからないかもしれない。また爆破事件の発生地点は、いまでは「柳条溝」ではなく「柳条湖」が正確だとされている。
第二次世界大戦敗戦に至るまで、日本では満鉄爆破は東北軍の犯行だと信じられていたが、事実は関東軍の謀略によるものであった。事件首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐、作戦主任参謀の石原莞爾中佐である。
爆破と同時に関東軍は攻勢に出た。中国側は撤退した。翌32年1月には関東軍は錦州を落し、わずか5か月で満洲全土を占領した。
当時、「東三省(と中国では呼ぶ)」すなわち満洲防衛の任にあったのは東北辺防軍司令長官の張学良だった。彼は関東軍の動きをある程度は知っていたが、抵抗しなかった。蒋介石率いる国民政府の無抵抗方針に従ったからである。
のちに張学良はこれを後悔して、「日本には武士道というものがあるのだから、あのように残酷な行為をくりかえすとは思わなかった」と語っている。
関東軍はこうして満洲を確保したが、列強の手前、満洲を独立国にする必要があった。そこで1932年3月、清朝ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀を担ぎ出して満洲国執政とし、翌年には彼を皇帝とする「満洲帝国」をつくりあげた。だがその国務総理は日本人の総務庁長官に実権を握られていた。安倍晋三総理の祖父岸信介はその次長であった。
関東軍は満洲を支配するにあたって、日本人の農業移民を計画した。36年の「二・二六事件」後、軍部は日本の政治決定権をほぼ完全に掌握し、これによって37年からは本格的に農民を大量に満洲へ送り出した。満蒙農業開拓団である。
1937年7月7日、北京(当時、北平)近郊の盧溝橋で発砲事件が発生すると、日本陸軍は約10万の兵を北京など華北に派遣すると決定した。
大量の兵員が大陸へ動員されるようになると、満洲への農業移民を確保できなくなった。このため近衛内閣は、1937年11月末「満蒙開拓青少年義勇軍」を派遣することにした。小学校卒で、数え年16歳から19歳までの身体強健な男子で、父母の承諾を得さえすればば誰でもよいとされた(「満洲青年移民実施要項」)。自由応募がたてまえだったが、実際には道府県に割当てがあり、道府県は各学校へ割当てた。青少年義勇軍は1938年から1945年の敗戦までに8万6000人に達し、満蒙開拓民全体の30%を占めた。
開拓団も青少年義勇軍も長野県が全国最多だった。その数年前長野県では教師が共産思想に染まっているという「教員赤化事件」があった。捏造事件であるが、県指導者と「信濃教育会」は、「天皇陛下に対して申し訳ない」と農業移民と義勇軍の動員をかけたのである。
私の従兄2人ハジメ、マスオ、のちに従姉の夫になったマサトもこれに参加した。
開拓団や青少年義勇軍が敗戦によって壊滅した悲劇は、同情をもって語られる。だが実態はきれいごとではすまなかった。内部ではいじめもあり暴力沙汰もあった。墾屯病と呼ばれた鬱症状になるものもあった。私の従兄は一時帰国の時、義勇軍同士のけんかを語り、「おらぁこれで度胸がついた」と血染めのシャツを見せた。彼らの労働も食生活も苦しかったようだ。その分現地の漢人への迫害もあった。殺人もあったし強姦事件もあった。
生きて帰った者がこんな話をした。
「満洲へ行けば農地20町歩をもらえるという学校の先生の話におとっさまがつられた。おれが二男だったから」
「内原訓練所から満洲へ送られた。向こうでは天地権現造りという名の掘立小屋に住んだ。地面を掘り下げて床に枯草をしき、そのうえに地面からヤンソー(羊草)で葺いた屋根をおいただけ」
「たしかに土地は広かった。ひとうね端から端まで除草するのに半日はかかった」
「開拓団といったって、全部が全部開墾をしたわけじゃない。満人(漢人をこう呼んだ)の畑や家を無理やり二束三文で買取って自分らの土地にしたところもある。土地をとられた満人が開拓団の小作になったところもある」
1945年ソ連が対日戦に参戦し、まもなく日本は降伏した。敗戦が知れ渡ると、まず「満洲帝国軍」が反乱を起した。もともと指揮官は日本人、兵士は中国人という日本の傀儡軍であった。満人は開拓集落を襲撃した。土地と家を取り返すために、抵抗する開拓民を殺し、長年の恨みを晴らした。老婆までが鎌をもって襲ってきたところもある。
従兄らは行方不明になった。敗戦の翌年、祖父の葬儀のとき、父など親戚が従兄らの写真の上でボタンに糸をつけてたらし、「ボタンが回りだせば生きているはずだ」と占いをした。
ハジメは義勇軍宿舎に来た反乱兵に射殺された。それがわかったのは、生き残りの仲間がわざわざ従兄の家まで来て話してくれたからである。マスオは中華民国軍に抑留され2年後に帰国したが、すでに肺結核に侵されていた。彼は数年の闘病生活をしいられ、貧窮の中で死んだ。
マサトは「満洲に赤紙が来て(兵隊にとられて)、本土決戦のために千葉で塹壕掘りをしているうちに無条件降伏になった」
彼は「考えてみれば、よその国へ出かけて人の土地を開墾して無事でいられると思うのがおかしい」と語った。
私が1988~89年に派遣教師として中国で生活していたとき、竹下内閣のある閣僚が、「日中戦争は侵略戦争ではない」と発言して辞任に追い込まれたことがあった。このとき若い副校長が「日本も1億の人口があるから、バカがいてもおかしくはありません。しかしそれが大臣とは……」といった。彼は80年代半ば日本に留学したことのある「日本通」であった。
9月18日がくると学校では、柳条湖事件を記念する「九一八を忘れるな」という講話があった。私の日本語学生は「先生、今日はジューイーパー(「九一八」の漢語読み)ですよ。日本でも何かあるでしょう?」といって私をからかった。彼らは日本人が侵略の歴史を消したがっていることをよく知っていたのである。
金さんという友人がいた。私より10歳ほど上で元満人であった。「満洲帝国には身分制度がありまして、一番上等が日本人、次いで朝鮮人、蒙古人、一番下が満人だったですよ」と、漢人の進学が差別によって妨げられた話をした。彼は私に対して親しみをもって接しているようだったが、中国人同士の話のときは私を「那個鬼子(あの畜生)」と呼んでいた。
「未来志向」ということばがある。常識的には未来に目標を定めてこれに向かって努力するということだ。だが安倍政権が東南アジアや中国や韓国との関係で「未来志向」を口にするとき、侵略と植民地化の過去を無視しようとする意図がありありとしている。
そして、わが民族の負の歴史を語るのを「自虐史観」だという。私の高校教師時代、すでに教室で侵略の事実を語るのは勇気がいるようになっていた。だが、韓国の慰安婦問題、徴用工問題を見ればわかるように、やられた方は決して忘れることはない。
我々は侵略の歴史を忘れてはならない。忘れることは日本民族の恥である。(2017・09・21記)
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