東大音感合唱研究会の内田義彦とその問題史的意義(2)
- 2017年 9月 27日
- カルチャー
- 内田義彦野沢敏治
Ⅱ 音楽と社会運動
1 園部三郎――社会全体のための音楽を
音楽を現実生活と関係させた第2のものがプロレタリア音楽運動である。日本では近代を根づかせる間もなく早くも資本と労働の対立が生じ、社会主義の思想と理論が入ってきた。それは芸術を社会進歩と労働階級の解放に結びつけるものであったが、まだ創造的な作品は少なかったので、楽壇からは無視されがちであった。だが音楽と言えば一般にお師匠さんについて術を習い覚えることであり、社会から離れた密室でなされるものと考えられていた風潮に対して異議を唱えた点で意味はあった。
問題はそれが政治主義的になったことである。音楽は革命に参加して社会を進歩させるための武器とみなされ、その合言葉は音楽家は楽器を捨てて労働者民衆に接し、彼らに分かる音楽をせよであった。戦前に開かれた第1回プロレタリア大音楽会は盛況であり、労働者や学生、インテリは労働歌や闘争歌の演奏に足踏みして合わせていた。「里子にやられたおけい」のような抒情歌が作られることもあったが、原太郎の「マルクスの歌」などのように反体制の運動を歌うものが一般的であった。
問題はまた次のことにもあった。プロレタリア音楽は流行歌を支配階級が流す卑俗な歌だと切り捨て、ジャズや小唄は資本主義社会の末期における悲鳴だとみなしたのである。民謡などの伝統音楽は歴史の進歩と合わず、遅れたものと見くびられる。それらから何ものかを探る姿勢はなかった。
園部三郎がプロレタリア音楽運動の評論家の1人であった。彼によると、芸術作品は個人のものでなく社会全体のものであり、芸術における自由は人民の生活と教養の向上のためにあるというのだが、それがどこまで自分の感性を通して内発的に行われるかは問題になっていない。彼の評論の仕方は音楽の過去・現在・未来の歴史を社会の歴史と関係させて客観的に説明するものであり――その中でも良質なのは戦後の『音楽史の断章』におけるルソー対ラモーの音楽論であろう――、小林秀雄のモーツアルト論のような純粋な心象に拠る評論とも対極的であった。小林は言うに言われないものを自己の内部に感じているか、例えばモーツアルトに「疾走する悲しみ」(アンリ・ゲオン)をというように、どこまでも主観を大事にする人であった。
園部は1943年に「音楽文化新聞」にこう書く。――評論家は音楽活動に「国民的創造性を発見する」ことを任務とすべきであり、それは書斎にいて思弁したり、個々人の判断で自由に任せるのでなく、新体制運動の音楽文化協会の中でこそできる。評論家もこの共同体の立場で評論せねばならない。
この園部は戦時統制も終わった戦後の民主化の中でも変わらなかった。彼は論説「新しい人間音楽の創造――ソ連作曲家批判をめぐって――」においてソ連共産党の音楽政策を支持した。1947年11月、ソ同盟共産党中央委員会はソ連の作曲家が欧米のモダニズムや前衛的実験に陥っており、ソ連邦内の民族的伝統と旧ロシアの古典作曲家を継承していないと批判した。その批判に西側のジャーナリズムの方も紋切り型に反批判する面があった。園部はその反批判に反論して言う。――共産党は現在、社会主義から共産主義への移行を進めるために真剣に過去のブルジョア文化を批判しているのだ。ソヴェト文化は今までの人類の文化になかったものであり、新しい社会の建設にいそしむ働く人民大衆の魂を揺り動かすものである。そのことはソ連音楽の世界的進出や各種国際音楽コンクールでの受賞によって証明されている。音楽家は社会主義建設に照応した精神とイデオロギーをもつべきなのだが、まだ古い意識を残している。だから国家が人間の精神教育にマイナスとなるものに我慢できず、倫理的な統一を強化するのは当然のことである。
園部はそう論じて、少し遡るが、1936年にソヴェト作曲家同盟が作曲の基準を人民にとっての「簡潔、真実、明朗」においたことを評価した。その観点からベートーヴェンは簡潔で直截的なテーマを提示して展開することによって新しく作られる社会の人間感情を表現したと解釈される。音楽に作曲者の世界観や思想が盛り込まれるのである。園部からすれば、第1次大戦後の無調音楽は人民の基礎を離れた悪いものであり、主観的・技巧的で通人にのみ受けいれられるものであった。他方、ロシア5人組やチャイコフスキーは西洋から影響を受けつつも民族性を忘れなかったと評価される。園部にとってモダニズム期のショスタコヴィッチが批判されたのは当然であり、第5交響曲で彼は自己批判をし、思想性を入れたのだということになる。
真実はどうであったか。園部はまだソ連音楽の内部を十分に知らなかったのである。ショスタコヴィッチは第5で思想性を取り戻したというよりも、人民の敵扱いされて粛清されるかもしれない恐怖の中にあってもなお作曲できる、死なずに生きたことをこそ証明したのである。園部はドイツのヒットラー政権下で前衛の12音技法や無調音楽が「文化ボリシェビキ」とか「退廃芸術」とみなされて圧迫されたことも知らなかった。指揮者オットー・クレンペラーのクロール・オペラでの演奏はその先端的な実験の一つであった。
2 吉田隆子――自国語で、自分で語れる作品を
園部と異なって、作曲の面で音楽と社会との関係をよく考える者がいた。吉田隆子である。彼女の軌跡は『音楽の探求』(1956年)で追えるのだが、そこからわれわれはプロレタリア音楽運動は音楽活動でもなければならないという当前のことを知らされるのである。
吉田は最初はフランスの現代音楽の雰囲気の中にいたのだが、プロレタリア演劇運動と社会主義リアリズムに刺激されて「芸術の主題性と社会性」という問題にぶつかる。でも彼女は社会主義リアリズムの様式を直輸入するのでなく、それを日本の現実に生かそうとする。そこから彼女の苦しい歩みが始まる。
吉田は1932年3月の「鍬」の初演で成功し、聴衆と熱く交流した。でも彼女はそこに満足せず、もっと社会進歩の実践生活の中からの音楽が欲しくなる。それを音にするには技術が必要だが、彼女は日本の伝統技法にそのまま頼ることはできず、西洋音楽が蓄積してきたものを継承する以外にないことを自覚する。唯物弁証法によって新たな世界観を獲得したからといって、それを表現する新しい形式はできないだろう。その場合、西洋の音的なイメージが入り込むのは必然であって、彼女はそれを避けるオリエンタリズムには批判的であった。オリエンタリズムの中にはもう少し評価してよいものがあったのだが。彼女は今日の日本の現実を反映した民族的な音楽を西洋の技術で表現すべきだと考え、ムソルグスキーをモデルとしたり、「江差追分」のように心に沁みるものを西洋の技術で作曲したいと願うのであった。こういう彼女は大衆の義太夫節や浪曲(浪花節)も馬鹿にしていない。義太夫節はお腹から声を絞り出すように節をつけて物語を演じていた。代表的な演目は「義士伝」や「次郎長伝」であって、義理人情や忠孝の封建道徳ものであった。でもそれらは日本の庶民生活を反映しているから、批判的に摂取すべきなのである。俚謡も古き時代の思想と生活を反映しているから、その音楽言語を集めて己の楽器にすべきなのである。この点は大正期の新民謡に通じる姿勢であるが、吉田の場合はそれらを社会変革との関係で取りあげるのである。
こんな吉田であるから、園部と同じくショスタコヴィチを批判するとしても、もっと内在的であった。彼女もモダニズム的な手法には厳しく、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に大都会的な狂騒しか認めなかった。その点ではソ連当局や園部と同じである。しかし彼女には次のように的確に批評できる面があった。彼女はショスタコヴィチの初期の第1交響曲や弦楽8重奏などを積極的に受け止める。それらは形式主義的で大都会の激しい機械音が入るが、それでも偉大な建設の時代の嵐や息吹があると聴きとる。彼女はそう認めた上で、その後の彼の作風には時代の巨大な進歩のテンポに合わず、「簡潔、明確、真実」という創作基準から外れていったと批判するのである。かの第5交響曲にしてもその基準にあっていないと自由に音楽的に対処した。第1楽章から第4楽章まで分析した上で、全体を通してオーケストレーションには見るべきものはあるが、第1交響曲にノスタルジーを抱いたままで、まだ立ち直っていないと感想を残すのである。彼女はこういう鋭い批評ができる人であった。
吉田は反ファシズムの立場から戦争に協力するものを書かず、音文協を評価することもなかった。そのために当局に捕われ、そこで重い腹膜炎を患ってしまう。彼女は帰宅を許されて長い療養生活に入るのだが、パートナーの久保栄は検挙される。彼女はこういう苦難の中でなお希望を捨てず、西洋の技術をもって日本の新しい現実生活を表現しようと試みていくのだが、自分の体力と才能の無さを嘆くのであった。でも一歩でも歩もうと、自国語で、自分の言葉で語れる作品を書こうと心に決める。
吉田が病床でラジオから流れる音楽を聴いて記した感想が実に良く、そこからわれわれは想像力を駆使して考えたくなる。彼女は『ジャン・クリストフ』の中でジャンが労働者に向かって、ベートーヴェンの後期の弦楽4重奏を好むよりも自分たち民衆の新しい芸術を求めよと批判していたと思い起こす。それからすると、後期ロマン派のR.シュトラウスには音の洪水はあっても音楽はないことになる。シュトラウスが好きなのはあの山田耕筰であったと付して。彼女はまたドビュッシーの『海』にいきいきとした描写を感じ取るが、それだけのものであって、古典的なソナタ形式を復活させ循環形式を創造したフランクのニ短調の交響曲の方がまだ新しい思想や感情があると評価するのであった。
吉田は以上のようなリアリズムの感性をもっていたから、西洋の古典をも民族的伝統と関連づけることができたと言える。彼女はバッハの『コーヒー・カンタータ』から流行の飲料をめぐる父親と娘世代の間の対立に民衆的なものを感じ取る。モーツアルトの『魔笛』からは民衆のつぶやき(パパゲーノ!)を。
こうして吉田の創作のモデルはフランス革命の中で作られた「マルセイエーズ」と滝廉太郎の歌曲「荒城の月」となっていく注。
注 マルセイエーズはフランス革命の最中にルジェ・ド・クルが作曲したもの。それは日本では『音楽取調成績申報書』の「明治頌撰定の事」のなかで外国の国歌の一例としてかなり詳しく紹介されていたのは、同報告書の姿勢が国体の称揚にあったことからすると皮肉である。今日のフランスでは共和国憲法に国歌と定められているが、それを歌わない自由はあると考えられている。
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