周回遅れの読書報告(その28)洛陽場裏花ニ背イテ帰ル
- 2017年 9月 30日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
前回(「その27」で)、「春雁吾ニ似タリ 吾雁ニ似タリ 洛陽場裏花ニ背イテ帰ル」という直江山城の漢詩のことにふれた。この漢詩は戦後の読売新聞が生んだ最高のコラムニストの一人である細川忠雄が、半世紀近くも前にコラムで紹介したものである。そのときのコラムで細川は次のように書いている。
謙信・直江山城・河井継之助・山本五十六は越後の生んだ戦争芸術家の系譜である。豪侠にして風流人たりし直江山城に詩がある。春雁吾ニ似タリ 吾雁ニ似タリ 洛陽場裏花ニ背イテ帰ル 秀吉没後の大実力家家康に一泡吹かせようと腹を決め、京から家郷に帰るときのこの戦争アーチストの感慨である。謙信以来の節義を守るために勝敗を度外視して決起する詩人武将には、春雁そのもののような落莫たる翳がある。
初出は1969(昭和44)年3月、「雁風呂」という題名の「よみうり寸評」
甲府生まれの細川が越後の「戦争芸術家」のことを書いた理由は分からない。ただこの四人(謙信・直江山城・河井継之助・山本五十六)に共通するのは、「洛陽場裏花ニ背イテ帰ル」という心情ではないのかと思えてならない。その花が何であるかは、「背く」「背かない」の判断には無関係であり、また「背いて帰った」結果がどういうものになろうと、「勝敗を度外視」しなければならないこともある。細川はこの四人を並べてそう言いたかったのではないか。
そう書いた細川はこのコラムを書いた年の秋に60歳という若さで死んだという。しかし、60歳といえば、新聞社ではもう「卒業」に近い年齢である。その年になるまで彼が出世したという話を聞かない。彼もまた自らの毀誉褒貶を「度外視」して、直江山城の「落莫たる翳」をよしとして、生きたのかもしれない。
もし、その細川が生きてきたら、昨今の読売新聞をどう評価するのであろうか。もし、今また「よりうり寸評」を書くとしたら、一体どう書くのであろうか。細川には、新人記者に向かって「知恵もないが、その知恵を絞り出す努力が足りないのである」と説教したというエピソードが残っているが、今の読売新聞の幹部にも同じことを言ったかもしれない。ユーモアに富んでいた細川のことだから、皮肉たっぷりに、「馬脚を顕すにも、時と場合があるだろう。それもわきまえてやったらどうか」と言ったかもしれない。
いや、「洛陽場裏花ニ背イテ帰ル」ことにした直江山城を親しみを持って紹介した細川のことだ。皮肉る以前に、御用新聞と化したことに呆れ果てて、新聞社を去っていたであろうか。そう考えると、細川はいい時代に生き、いい時代に死んだとも言える。もっとも現場の記者には、そんな愚痴をこぼすことも許されない(これは「読売」に限ったことではないが)。ではどうしたらいいか。細川は、にやっと笑って、こういうだろう。
「だから、お前らには知恵がないというのだ。知恵もないが、その知恵を絞り出す努力がたりないのである」
言われているのは、新聞記者だけではないであろう。我々もまた、無い知恵を絞り出す努力を求められている。手を上げるのは、それからである。
細川忠雄『零落園春秋』(明啓社、1970)
上述のコラムはこの本の129頁にある
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〔opinion6994:170930〕
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