ラカイン州難民問題―状況把握と問題整理のために
- 2017年 10月 3日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー野上俊明難民
半世紀に及ぶ軍人支配からの脱却が始まった2012年、南アジア・ベンガル湾部に特徴的とされたコミュナル紛争が、バングラデッシュと国境を分けるミャンマー・ラカイン州で大規模に再発し、死者約300名、焼失家屋約9000軒、12万人の難民化という災厄を招きました。コミュナル紛争は宗教的・人種的抗争を伴う特定地域の紛争なのですが、その後はやや様相が異なりました。紛争はラカイン州にとどまらず、やがて全国的反ムスリム暴動(メイッティーラ~ラショオ~マンダレーなど)へと拡大し、それとともに運動は従来の一揆的な性格の紛争から、仏教過激派僧侶集団である「マバタ」が主導する「969運動」という大衆運動へと新たな展開を遂げたのです。イスラム教徒をターゲットにした全国的な憎悪キャンペーンを張り、宗派間暴力やヘイト・クライム(人種・宗教差別犯罪)でムスリム・コミュニティを恐怖に陥れたのです。
これに対してNLDや88世代組織はほとんど有効な反撃をなしえず、時のテインセイン政府と手を組んだマバタに、130万人の署名を背景に運動の目的とした「人種宗教保護法」―ムスリムへの差別法―の成立すら許してしまいました。仏教過激主義と民主化運動主流派には仏教中心主義というイデオロギー的同質性があり、そのためにマバタを批判しきれないという恨みがあるように思われます。いやそればかりか、当時野党党首であったスーチー氏はマバタに果敢に挑戦した高名な中央幹部を除名処分してまで、マバタとの直接対決を避けたのです。マバタによる宗教の政治利用を批判したまっとうな主張すら、国軍や仏教団体などの既成勢力との融和と協調を優先するスーチー氏には邪魔だったのでしょう――こういう老獪な政治家的薄情さ・マキャベリズムの一面をスーチー氏が見せたことは、スーチー氏が将来どういう性格の政治家になるのかを占うkey eventとなりました。
その後サンガ(僧侶団体)中央が、マバタを抑えにかかったので運動は下火になっていますが、中核組織は不動ですので要注意です。彼らは左翼顔負けの宣伝組織活動に長けており、演説・雑誌・新聞・ビデオ・SNS・パンフレット・署名・会議や集会の活用方法では抜群の能力を発揮しています。軍事政権下で培った非合法・合法活動のノウハウは、残念なことに民主化運動ではなく仏教過激派の方に継承されているのです。民主化運動は下積みの政治活動経験をまったくもたないスーチー氏をトップに押し上げたため、運動のシンボルを得た代わりにこうした大衆活動や下からの組織づくりの重要性を等閑視することになり勝ちです。またNLDの長老幹部の多くが軍の高級将校上がりで、上意下達の組織論しか知らなかったこともマイナスでした。
それから何年かの空白期間を経て、NLD政権成立後2016年10月にロヒンギャ過激派「ロヒンギャ救世軍」ARSAを名乗る集団が軍・警察の国境哨所襲撃して9名を殺害、その後の国軍掃討作戦で9万人のロヒンギャが難民化します。さらに本年8月、救世軍が大規模な襲撃を行なって数十人国軍側を殺害したのに対し、国軍は大規模な掃討・焦土作戦を展開、210か村以上が巻き込まれ、50万人(9/28付 国連筋)が難民となってバングラデッシュに逃れます(国連によれば、この数年間で総数は70万人)。死者の数も未確認ながら千人単位ともいわれており、未曽有の人道的な危機となったのです。※―この事態に対し、沈黙を守るスーチー政権を批判することはあまりに当然のことであります。「沈黙と無作為は加害行為への加担である」というのは、我々世代がベトナム反戦運動の参加を促されたとき聞かされたtelling phrase殺し文句でした。
※ロヒンギャの大量難民化は国軍の掃討作戦によって生み出されたものですが、それと同時に依然地域・宗教・人種の要素の絡んだ殺戮をともなうコミュナル紛争がベースにあるのです。仏教徒やヒンズー教徒が、ロヒンギャ側の攻撃から遁れています。マウンドウでは母子らしい28名のヒンズー教徒の埋葬死体が発見され、100名のヒンズー教徒が行方不明になっているといいます。
もし国連はじめ国際社会が鋭く問題提起し、スーチー政権に緊急の対策を講じるよう圧力をかけていなければ、事態がどれほど悪化していたか分かりません。政府はようやく国連関係者の紛争地域への入域許可を出しましたが―国連人権理事会による現地実情調査は依然拒否―、スーチー政権には以前から時間稼ぎや責任所在のあいまい化の疑念がつきまとっているだけに、これから相当長い期間に及ぶ強力な国際的圧力が必要でしょう。
私見の範囲ですが、今回の事件はスーチー政権の政治戦略のかなめである国軍との協調路線のほころびが最初に顕在化した例ではないかと思います。ロヒンギャ問題で沈黙による時間稼ぎや責任所在のあいまい化という政治手法が通じなくなったことで、今後国軍との間で多少の軋轢や緊張が生じることもありえるでしょう。基本的にアナン勧告を認めていない国軍と、国際社会に勧告の速やかなる実施を約束したスーチー政権とがどのように共同歩調をとっていくのか、非常に困難が予想されます。すでに元大統領候補マケイン上院議員は、ミャンマー国軍への援助・提携関係を打ち切るよう主張していますし、アメリカ国連大使も武器供与の停止を各国に求めています※。その一方、中国はロヒンギャ問題によって中緬関係は揺らぐことはないとエールを送り、出番の機会を虎視眈々と狙っている風です。
※昨年11月、ヤンゴンでNLDの有力議員と話した時、国軍は変わりますかという私の質問に対し、その議員は西側各国と軍事的な提携関係を結んで民主的な軍の在り方を教育してもらっているので、変わるでしょうと答えました。甘い!というのが私の瞬間的にひらめいた答でした。半世紀間軍部独裁体制を維持してきたことの重みを思い知るべきです。国軍を支えているのは愛国イデオロギーだけではなく、強固にミャンマー社会に張り巡らされた権益ネットワークなのです。権益ネットワークの岩盤が温存されたままでは、民主化は中途半端に終わらざるを得ない。しかもミャンマー人に共通する「緬魂洋才」、面従腹背にも通じますが、西側からは進んだ(軍事)技術だけをもらいたいのであって、精神は受け入れないという確固たる構えがあるのです。民主化運動の圧力なしには軍は変わらない、このことを民主化運動は肝に銘じるべきなのです。この国では軍も秘密警察も依然無傷です。
アナン勧告はスーチー氏にとっては貴重な政治カードであるとともに、反面重荷でもあります。国軍に加え、ビルマ族仏教徒を説得するという大仕事が残っています。しかし課題の緊急性から言って残された時間はあまりありません。状況をもし今までのように放置すれば、すでにこの数年間でARSAが生まれたように、未来を絶望した多く若者が過激派に参加し、国際テロ組織との連携も進むでしょう。バングラデッシュの難民キャンプを取材した西側メディアの伝えるところでは、多くの壮年青年男子がリベンジを誓い、ARSAへの入隊の決意を語っているのです。このことにあまりに鈍感なミャンマーの仏教徒たちに正確な情報を伝え、ボンサンス(良識)と共感能力を呼び覚まさなければなりません。50年に及ぶ鎖国状態は、この国の人々を驚くほど偏狭で自己中心的なあり方に貶めました。建国神話の30人の志士物語は、なにも自分たちだけのものではないのです。いったんは外国に逃れ、外国の基地で軍事訓練を受け、再び本国に戻って外国からの援助を受けながら反乱を組織するという英雄物語は、どんな集団にも正義として構想されうるのです。このままでは近代国家の建設どころか、テロとの泥沼の闘いにみずからはまり込んでいく恐れがあります。※
イラワジ紙から 乾季には霜も降りるカチン州難民キャンプ ―水、食料、衣料、医療、教育の手当てが喫緊です。
※立ち上げて間もないNLDの中央女性委員会は、12万人以上とされるカチン州の国内難民の救援のため、急きょ部隊を編制してキャンプ地に向かうそうです。ラカインは国際援助や政府援助が動き出しているので、自分たちはカチン州を選んだそうです。こうしたイニシアチブがあまりにも不足していました。こうした努力の積み重ねこそが宗教融和や内戦終結の力になるのです。大いなる励ましであります。
2017年10月1日
<資料>
ロヒンギャ問題 難民船転覆、遺体次々 「女性や子供ばかり」 バングラ国境、村追われ
毎日新聞2017年10月1日 東京朝刊配給の飲料水に手を伸ばすロヒンギャ難民の少年ら=バルカリで9月28日
水死した20代ぐらいの女性の遺体がトラックに積み込まれていた。黒い布にくるまれ、顔にハエがたかっている。「昨日からこれで19人目だよ。いやな仕事だ」。29日朝、遺体を運んだ警官の男性(21)がつぶやいた。場所はバングラデシュ南東部コックスバザール郊外の海岸沿い。収容されたのは密航船転覆で亡くなった隣国ミャンマーの少数派イスラム教徒「ロヒンギャ」の難民だ。「なぜこんなつらいことが続くのか」。難民や地元住民から悲痛な声が上がっている。【コックスバザール金子淳】
密航船の転覆事故は28日午後5時半ごろに起きた。約80人のロヒンギャを乗せた小舟が海岸近くの岩礁に乗り上げ転覆し、60人以上が死亡したとみられる。
近くに住むムカッバルさん(30)は助けを呼ぶ姿に気づいて海に飛び込んだ。浮輪につかまらせて浜に引き上げ、11人を救助したが、難民の大半は波にのまれたという。「女性や子供ばっかりだった。遺体を見て、近所の人たちはみんな涙を流した」。浜辺には小舟の破片が流れ着いていた。
バングラデシュではロヒンギャ難民の流入が続き、難民数は50万人以上とされる。
ミャンマーとの国境を流れるナフ川沿いでは、女性や子供が列をなして歩いていた。前夜に到着した難民たちだ。1歳の娘を抱いたノズマ・ベガムさん(25)は数日前、「村に軍人が来て追い出され、家を燃やされた」という。夫(30)と娘2人は逃げる途中ではぐれ、連絡がつかなくなった。28日夜にナフ川までたどり着き、船頭に金の耳飾りを渡して乗せてもらったという。「昨夜、ビスケットをもらったが、体調が悪くて吐いてしまった。友人を頼ってキャンプに行くしかない」
多数の難民が暮らすナフ川西側のバルカリでは28日、約1000人の難民がぬかるんだ地べたに座って食料の配布を待っていた。雨の中にときおり汚臭が混じる。「3日前にコメとイモをもらったが、今はもう尽きてしまった。支援だけが頼りだ」。8歳と5歳の子供と座っていたビビさん(27)が嘆いた。
ビビさんは9月上旬、軍とみられる集団が家に来て夫を連れ出し、火を付けたという。家の中に3カ月の次男を置いたまま飛び出し、4日間山に隠れた後、国境の川を渡った。「子供は焼け死んだ。夫も殺されたはずだ。もう何も残っていない」
難民流出は、8月25日にミャンマーで武装組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)が治安部隊を攻撃し、戦闘が激化したのがきっかけだった。ARSAとは何者なのか? この問いかけに、難民のアユブ・アリさん(70)が「若者たちが戦っている」と言いかけると、周囲から「その話はするな」と声が上がった。別の男性(50)は「彼らは外から来た」と言葉を濁した。
ミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問兼外相は19日の演説で「9月5日以降、戦闘や掃討作戦は起きていない」と語ったが、バングラ軍関係者は「26日にロヒンギャの村が燃えているのを見た。27日夜は銃声も聞こえた」と話す。
ナフ川沿いでは29日、対岸のミャンマー側から煙が上がっているのが見えた。「私たちの村があった辺りだ」。近くにいた難民の女性は対岸を見ようともせず、無表情につぶやいた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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