社会学者の見たマルクス(連載 第3回)
- 2017年 10月 8日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
しかし、マルクスは「彼を襲った」疑問を解こうとした。マルクスは上述の論争で、「人間の理性の客観的認識に対するその人間自身の主観的願望の反乱を引き起こす良心の不安」について語っている。この段階ですでにはっきりしていることは、マルクスが「イギリスとフランスにとっての現下のきわめて深刻な問題」としての共産主義に関することを読んでいたということと、「英仏両国民がそのことの克服のために努力している諸問題」が彼の精神に深い印象を残したということである。
シュレスヴィッヒ・ホルシュタインの人、フォン・ロレンツ・シュタインの書いた『現代フランスにおける社会主義と共産主義』はドイツの学界にとって画期的なものとなった本であるが、マルクスは『ライン新聞』にこの本の短い案内を寄せた。ゾンバルトは他の論者とともに、この本はマルクスにとって大きな意味を持ち、後々まで彼に影響を与えたに違いないと指摘している。マルクスがこの本の中で見たのは、社会主義が科学、あるいは哲学的体系といわれているのに対して、共産主義が、特定の目的や意欲をもつことなく、現存するものをまるごと否定するものだというレッテルを貼られていることであった。
『ライン新聞─政治と商工業のための』は短命であった。ロマンチストの王を戴いた政府は出版の自由という窓を少しばかり開けてみたが、そこから吹き込む暴風がすぐに政府を恐怖に陥れたのである。ザクセン州政府もまたアーノルド・ルーゲの出版活動に震えあがった。彼は、『ハレ年報』が発禁になった後、ザクセン州の州都ドレスデンに移り、そこで月刊の『ドイツ年誌』を何冊か出した。この雑誌も弾圧された。そのあと、ドイツ急進主義の化身であったルーゲはその足をパリに向けた。彼は、ヨーロッパにあっては、フランスに、そしてフランスだけに、政治上の原則、人間としての自由を守るという純粋な原則があると見たのである。
ルーゲは、マルクスに対しては、流刑生活の仲間を見つけた思いであった。マルクスの輝くばかりの才能が、彼よりもずっと年長のルーゲの強い関心を引き起こした。彼らは共同で『独仏年誌』を出した。この雑誌はその題名からしてルーゲの以前の仕事を想起させる。新聞や雑誌の短命さには、昔の、1848年の三月革命期以前の時代の特質が表れていた。この新しい年誌はたった二つの号が、それも一冊にまとめられて、発行されただけだった。
ある枢密顧問官は、この雑誌が意図しているのは「革命の手段としての、思想の反乱である」と報告した。多くのドイツ人亡命者にとってさえ、この雑誌はあまりにも先を行っていた。プロイセン政府はこの合併号に掲載された韻文[詩]にも散文[論文]にも反逆罪や不敬罪にあたるたくらみを見て取った。230部がプフアルツの国境で押収された。ルーゲとマルクスに対して、彼らがプロイセンの国境を越えて来たら逮捕せよという命令が出された。また、この雑誌でバイエルンのルートヴィッヒ王をあしざまに罵ったハイネに対しても、同じ逮捕命令が出た。
『独仏年誌』は、フランスの出版法に基づいて発行を停止させることができるかどうかが決定される以前にすでに破綻していた。パリで発行されたドイツ語の印刷物という極めて珍しいものが歴史に名を残しているのは、少なからずマルクスが書いた論文のおかげである。巻頭には、全紙一枚分[16頁分]のルーゲの「計画」が掲載されたが、そのすぐ後に、ルーゲ、マルクスそして若いロシア人バクーニンの間の交換書簡が続いている。それは、1843年3月の「D(おそらくは、ドルデレヒトのことであろう)行きの馬引き船の船上で」と書かれた、マルクスのルーゲ宛の手紙でもって始まっている。マルクスは、間近に迫った革命を「ドイツの宿命」として語っている。また、ベルリンからルーゲが、「友よ、君は自分が望んでいることが実現すると確信しているが、こんなことは実際には起きることもなければ、意のままになるはずもない」と言ってきた時、マルクスは次の名言でもって応じた。「民衆は絶望しません。彼らはたとえ無知であっても、無知であるというだけで長い間希望を抱き続けるはずですし、そして長い年月のうちに突然賢明になって、彼らの信仰にも似た希望を現実のものとするのです」。当座はルーゲが正しいように見えた。
この頃、パリで発行されているドイツ語の新聞があった。この新聞は、ドイツ公使館の不興を買いながら、それまで「穏健な進歩主義」を支持してきたが、ここに来て「ルーゲ派」の協力を求めてきた。新聞の名は『フォアヴェルツ』といった。まもなくこの『フォアヴェルツ』の共産主義的な傾向が問題になった。ドイツ公使館は共産主義者達を国外へ追放することを要求した。『フォアヴェルツ』の編集人は、規則に則って出版保証金を支払わなければならなかったが、それをしなかったために禁固刑に処せられた。リベラルな市民階級の首脳は、パリからドイツの革命思想を一掃しようとしたのである。『フォアヴェルツ』は、さしあたり月刊誌に切り替えて発行を継続しようとしたが、それはできなくなった。
大臣ギゾーが遂に国外追放を命じたとき(1845年1月)、パリに家庭を構えていたマルクスは最初はリュティッヒに行き、次いでブリュッセルに向かった。彼の流浪の時代が始まった。マルクスは亡命者としてパリにやって来たわけではない。しかしそこを追われ、以来、生涯を閉じるまで亡命者のままであった。
故郷のラインラントで、マルクスは外国の社会主義理論のことを知って、他の急進主義者と同じように、興奮することを覚えた。マルクスは、ロレンツ・シュタインを通じて社会主義に関する知識を深める前に、既に所有についてのプルードンの著作に出会っていたものと思われる。そしてプルードン本人とパリで親交を結んだ。マルクスはプルードンに、ドイツ哲学すなわちヘーゲル哲学を理解するための知識を吹き込もうと骨折った。
それと同じ頃、マルクス自身はヘーゲル哲学から離れ始めた。マルクスはルーゲと彼自身が編集した雑誌(『独仏年誌』)にヘーゲル法哲学の批判を書いた。マルクスは法律を学び、政治的には急進主義であったにもかかわらず、それまでは宗教を中心に考えていた。マルクスの友人ブルーノ・バウアーはシュトラウスよりもっと急進的な合理主義によって、新約聖書が歴史的文献としては特定の意図をもった文書であることを暴いた。ヘーゲル的な考え方にあっては、宗教はなお理念であって、キリスト教はその理念の最高形態とされていた。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』は、他の重要な著作と同じように、1841年に出版されたが、これは、宗教批判の側面からヘーゲル学派の解体を完成させたものであった。
「ドイツにとっては、宗教批判は本質的に終わっている。そしてこの宗教批判があらゆる批判の前提である」。マルクスはこう言って『ヘーゲル法哲学批判』の序文を始めている。この論文のなかでこの序文ほど知られているものはない。この論文はマルクスの考えに重大な転換があったことを示している。ヘーゲル学派特有の用語で書かれ、また文章表現には対句法が多用されている。このことは、この若い哲学者がジャーナリストであることを示している。マルクスは、天国の批判は地上の批判に、宗教批判は法批判に、そして神学批判は政治批判に、それぞれ転化しなければならないという考えからこの論文を展開しようとしている。マルクスはドイツの世俗的政党と宗教的政党とを区分する。
世俗的政党は哲学を現実化せずにそれを廃棄しようとし、宗教的政党はその逆をやろうとしている。それゆえ、ドイツの法哲学及び国家哲学に対する批判は、近代国家及びそれに関連した現実を批判的に分析することであり、それはまたドイツの政治的、法的な意識に関するこれまでのあらゆる手法を明確に否定することでもある。この意識の最も洗練され、普遍的な、そして学問にまで高められた表現こそが思弁的法哲学に他ならない。
それ故この批判は、解決するための手法が唯一つしかないある課題に行きつく。原理と同一線上の「実践」、すなわち革命がそれである。革命はドイツを、単に近代的国民として広く認められた水準にだけではなく、近代的国民にとってはその次の目標となる人間的な高みにまで引き上げるはずである。「批判の武器はもちろん武器に対する批判によって代用することはできない。物質的な力は、ただ物質的な力によって打ち倒されなければならない。しかし理論もまた、それが民衆を掌握すればすぐに物質的な力となる」。
マルクスの考察はここで宗教批判に立ち返る。宗教批判の最後にくるのは、人間が人間にとって最高の存在なのだという教義であり、それ故、人間が、貶められ、隷属化され、見捨てられ、蔑まされた存在となっている全ての関係を覆滅せよ、という断固たる要求である。ドイツにおける革命的な事件であった宗教改革もまた同じことを教えている。
このことから、急進的ドイツ革命の「物質的根拠」はフランスの先例のなかに示される。フランスでは一階級が敵に対して「私は何者でもない。私は全てであらねばならない」という反逆的な言葉を投げつけた。ここにドイツ革命の積極的可能性が追求されるのである。マルクスは、ドイツ革命の「物質的根拠」を次のように説明する。
「一つの、階級、階層、集団が形成されること」。それは「急進的な隊列をもった階級」であり、「全ての階層から分解された階層」であり、「普遍的な困窮を負うが故に普遍的な性格をもった、そして個々別々の不正ではなく、不正そのものが丸ごとその集団に対して行われているために、個別的な正義を要求するわけではない集団」である。「彼らは社会の他の全ての集団から自らを解放することなくしては、解放されることはありえない。一言で言えば、彼らは人間性を完全に喪失しているのであり、それ故人間性を完全に回復することによってのみ自分自身を自分のものとすることができるのである。この特別な階層として社会から分解されたもの、それがプロレタリアートである」。
マルクスは、ドイツのプロレタリアートを「主として中産階級が解体し、そのなかから生まれ出た人間集団」として、その形成について更に詳述したあと、次のように語る。
「哲学がその物質的基礎をプロレタリアートに見い出すように、プロレタリアートはその精神的基礎を哲学に見い出す。そして、こうした考えが人民という無垢な大地のすみずみまでを照らすように一閃すれば、直ちにドイツ人は人間的なるものへ解放されるであろう」。
マルクス自身は、自分の考えをどのように展開してきたのかを書いた1859年のメモで、「ヘーゲル法哲学の批判的検討」は、彼を悩ませた疑問を解くために手がけた最初の仕事であったとしている。それからマルクスは当時の研究の成果を述べているが、そこでは、ブルジョワ社会の解剖は経済学において追求されるべきだという結論に達している。
これからすると、ヘーゲル批判に関してはあたかも序説以上のものが完成していたかのような印象を受けるが、実際には序説以上のものは何も得られないままであったようだ。ただ、彼の研究が進んでいったということを、当時の他の断片から想像できるだけである。
パリで発行された『独仏年誌』には「ユダヤ人問題によせて」の二つの重要な論文も掲載された。ここでいう「ユダヤ人問題」とは、マルクスの哲学における師であったブルーノ・バウアーの二つの論文のことを指す。ヘーゲルとの対決はバウアーとの対決をも意味したのである。
まず、バウアーの第一論文とマルクスの第一論文とを対比させてみよう。バウアーは、解放されるユダヤ人とはいかなるものなのか、それを解放するはずの国家とはいかなるものなのか、と問題を出す。バウアーの回答は、宗教的対立ということに照準を合わせ、解決の条件として、宗教からの解放をユダヤ人と国家の双方に求める。宗教を前提とする国家は、まだ真の国家、現実的な国家ではない、とする。これに対してマルクスは、問題となるのはいかなる類の解放なのかということであり、バウアーはこのことも問わなければならないと批判する。宗教的国家を批判するのと同じ様に、世俗的国家も批判することで答えが出てくるというのである。マルクスは言う。
ユダヤ教徒、キリスト教徒、総じて宗教的人間一般の政治的解放とは、ユダヤ教、キリスト教、総じて宗教一般からの国家の解放のことである。この問題をとことん突き詰めて考えていくならば、すべては「市民」社会とヘーゲル的意味での国家との差異と対立を明らかにするものとなる。論理的に整合のとれた国家とは、宗教を単なる私的な事項として社会に委ねる国家のことである。宗教はもはや国家の精神ではない。宗教は、市民社会の精神、エゴイズムの領域の、そして万人の万人に対する戦いの、精神となる。宗教はもはや共通のものではなく、個別的なものである。……例えば、北アメリカでの宗教の際限のない分裂は、すでに宗教に対して、それが純粋に個人的な事項であるという形態を外面的に与えている。宗教は、私的な関心事に数えられるものの中に追いやられ、共通なもの[Gemainwesen]としては、共同体[Gemainwesen]からは放逐されている。
ついで、いわゆるキリスト教国家と現実的国家としての民主的国家との区別がもう一度強調される。
宗教的精神は人間の精神が発露されたものであるが、民主的国家においては、この精神の発展度合は世俗的な形態をとって現れ、成立する。キリスト教ではなく、キリスト教の人間的基盤がこの国家の基盤である。
バウアーは、ユダヤ人には「人権」を要求することが許されるかどうかと問題を提起し、そしてそれを否認した。バウアーは言う。
ユダヤ人は、絶えず非ユダヤ人と分離することによって、「人権」に関してはみずからを例外的なものとし、自分をユダヤ人たらしめる特殊な本性こそが彼にとって真の最高の本性なのだと宣言するのだ。
これに対してマルクスは特に、公民(Staatburger)としての権利から区別される人間の権利とは、市民社会の成員としての権利、すなわち他の人間や社会から切り離された自我的な人間の権利のことだと言おうとする。マルクスはこれを、「譲り渡すことのできない自由、平等、安全、所有権」という規定をもった1793年の[フランスの]憲法と関連づけて詳論している。
[ここでは]類的生活それ自体、すなわち社会は、人間を類的存在として理解するなどというようなものとは程遠く、むしろ逆に、個々人にとってはその本来的な独立性を制約する外的な枠組みであるかのようにして現れる。(拙著『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』を参照)。
マルクスにとって謎だったのは、フランス国民が政治的共同体の構築に取り掛かり、かつまた英雄的献身によってしかフランスは救い得ず、エゴイズムは犯罪の如く処罰されねばならないという時期に、この宣言が出されたことだった。そして、政治的な活動は市民的社会で[自我的な人間として]生きることを目的とした、単なる手段に過ぎないことが、こうした時期に明言されたことであった……(もちろん、革命における現実は理論とは明らかに矛盾していた)。
政治的解放とは同時に古い社会、すなわち封建社会を解体することであり、政治的革命とは同時に市民社会を革命することである。これがこの謎に対する簡潔な答えである。革命は市民社会を、その単純な構成要素、すなわち一方における個人と、他方におけるその人間の生活を構成する物質的・精神的要因とに分解するのである。
かくして、エゴイスティックな個人の自由を承認するということは、これらの要素の無規律な運動を承認するということになる。
政治的人間にかかるこの抽象的な概念を、ルソーは正しく描いている(『社会契約論』第2章)。現実の個別の人間が、抽象的人間一般を自らのうちに取り戻し、個別の人間として、その即物的生活、その個別労働、そしてその個人的な諸関係のなかで、類的存在となったときに初めて人間の解放は実現する。つまり、人間が彼自身の力を社会的な力として認識し、組織し、したがって政治的な力の形成にあたって、この社会的力をもはや自分から手離さなくなるときに、初めて人間の解放は実現するのである。
ユダヤ人問題に対するマルクスの第一の論文はこの意味深い言葉で結ばれている。我々はこの論文の中に、法哲学者マルクスが、今日においては社会学的な思考過程とも呼びたいような過程を通して、ヘーゲルからの離脱をいかにして開始したかを見る。そしてヘーゲル左派がヘーゲルの理論を急進的な形で受け継いだものである自由主義をいかにして克服したかを見るのである。
マルクスの考察は全体にわたって倫理的な色合いを帯びている。マルクスは市民社会のエゴイズムとエゴイスティックな人間の自由を、封建社会が革命によって解体された基盤であり、そして「今や」政治的国家の基礎となったとしたとする。その上で、それを徹底的に批判する。次の文章もマルクスの主張の特徴を表している。
人間は、したがって宗教から自由になったわけではない。信仰の自由を持ったのだ。所有から自由になったのではない。所有の自由を持ったのだ。職業を巡るエゴイズムから自由になったわけではない。職業の自由を持ったのだ。
この若い著述家マルクスは眩惑的な対句法を依然としてひどく好んでいた。この語法はまた、ユダヤ人的思考方法に特有の辛辣さを特徴づけるものでもある。
(連載第3回 終わり)
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study890:1701008〕
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