周回遅れの読書報告(その29)森嶋通夫著作集と彼の初期の著作
- 2017年 10月 8日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
細川の著作のことを「周回遅れの読書報告」(その28)で触れた。この本は私の貧弱な書庫にだいぶ前からある。そしてこの本のすぐ側に森嶋通夫の数冊の著作があった。森嶋については色々な思いがある。森嶋本人には会ったことはないが、尊敬すべき学者だと思っていた。ことにその自伝は興味深く読んだ記憶がある。ただ、この自伝さえも集録した森嶋の著作集(岩波書店)の編集方針にはいささか違和感がある。
少し前に古い資料(コピーと切り抜き)を整理していたら、森嶋を追悼する記事が出てきた。森嶋は2004年7月13日に死去しているが、根井雅弘が『経済セミナー』2005年1月号で「シンフォニーの残響」と題して、森嶋を偲んでいる。その末尾に「個人的には、経済学の初心者の頃に読んだ名著『産業連関論入門』(創文社、1956年)のことが忘れられない」とあった。この「名著」とされる『産業連関論入門』は、だが森嶋の著作集にはどういうわけか集録されていない。何かの事情があるのだろうか。阪大時代の森嶋の弟子であった本間正明が、森嶋の死の直後、日本経済新聞2004年7月19日に追悼の記事を載せている。森嶋が後年、自分の初期の業績を「今となっては恥ずかしい」といっていたことを、本間は紹介している。そのことと『産業連関論入門』が著作集に収められなかったことと、何か関係しているのであろうか。私の知っている限り、森嶋は初期に産業連関関係の本を二冊書いている。
『産業連関と経済変動』(有斐閣、1955年6月)
『産業連関論入門』(創文社、1956年6月)
このいずれもが著作集には入っていない。ある時期、私は産業連関を勉強しようと思って、だいぶ苦労してこの二冊を集めた。しかし、いずれも難解であった。根井が「名著」と呼んだ『産業連関論入門』も、私には歯が立たず、結局どちらも読みきれなかった。そういった苦い思いのある本である。ひょっとしたら、簡単に読むことのできない本を書いたことが、森嶋が「今となっては恥ずかしい」と言った理由かもしれない。しかし、あの森嶋にしてこういう本を書いたということを確認するためにも、それらを引っ張り出して、もう一度読み直して森嶋を偲ぼうかとさえ思うほどである。
しかし、森嶋の著作集しか知らない読者には、森嶋が初期に書いたこれらの本は目に触れることはない。いかに森嶋本人が「今となっては恥ずかしい」と言ったところで、また一年間もおかずに書いたようなものには、たしかに内容に重複があるような気がするが、ともかくそれらはいずれもかつて公刊されたものである(この間、1955年1月に森嶋はさらに『資本主義経済の変動理論』創文社も上梓している。ついでにいえば、この本も著作集には収められていない)。しかも、一部の論者は「名著」だとしているのである。そういった本を「今となっては恥ずかしい」として、著作集から外すのでは、一体何のための著作集なのかと言わざるをえない。自伝三部作(『血にコクリコの花咲けば』、『知に働けば角が立つ』、『終わりよければすべてよし』)で、日本人離れした口調で、多くの経済学者をキッパリと批判した森嶋だけに、初期の作品群を「今となっては恥ずかしい」として著作集から外すというやり方は、うなずけない。
もっとも、これは著作集を丁寧に読んでいないがゆえの、それゆえ森嶋が著作集に込めた思いを理解していないゆえの、誤解かもしれない。
森嶋通夫『産業連関論入門』(創文社、1956年6月)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7016:171008〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。