晩年の母と、1959年の私に出会う
- 2017年 10月 16日
- カルチャー
- 内野 光子
今、必要があって、国立国会図書館で『女人短歌』のバックナンバーを調べている。デジタル資料化されているので、マイクロやフィッシュと違って、現物の雑誌の頁を繰る楽しさがある。こちらの視力もあって、画面は、たしかに見にくいこともあるが、つい、今は必要のない短歌や記事に寄り道することが多い。
33号(1957年9月)の作品欄の最終頁は、蒔田やよひ、清水千代、阿部静枝、五島美代子であり、その左頁の雑報欄に「第一回女流短歌連盟の会」とある。そんな「連盟」があったんだと、読み進めてみると、何と、母親の名前「内野佳子」が出てきたのだ。「えッ」と読み返す。女流短歌連盟主催、毎日新聞社後援の第一回女人短歌会では、応募1213首の中から選ばれた入選者10人の名前の中の一人として列記されていたのである。選者は生方たつゑ、長澤美津、五島美代子、阿部静枝であった。私は知らなかった!私が高校生の時代、母には、晴れがましいことだったに違いないのに、私には記憶がない。一体どんな作品だったのだろう。当時の毎日新聞を調べなければいけないと、帰宅後思い立ったのである。
また、そんな中で、なんと、わたくしの短歌にも出会ったのである。いつだったか手元の1997年の『女人短歌』終刊号の「初出の一首一覧」のようなコーナーを目にして、自分の一首を見つけたことは覚えているが、バックナンバーがあるわけでなく、そのままになっていた。今回、1959年発行の40号と41号に掲載されていることがわかった。高校時代からほそぼそ始めていた短歌だが、大学に入学直後、母の短歌の師だった阿部静枝先生の紹介で『女人短歌』に入会したような記憶がある。しかし、錚々たる歌人のおば様たちとご一緒するのは気も引けたし、気も重かったのだろう、そして、その年の12月に母を亡くしていることもあって、早々に退会したようなのだ。現在も所属している「ポトナム短歌会」入会前のことである。恥ずかしいが、以下のような作品だった。といっても、現在の作品と何ほど違うのかと思うとつらいものがある。
40号(1959年6月)
コーラスの聞こゆる屋上春の風に髪を吹かせて舊師を想ふ
勇気ある判決讀みて法律を学ぶ徒のわが今日を祝へり
闇の中鐵路に残る響きありて生きものごとき心を傳ふ
41号(1959年9月)
店頭に少女が並べるカン詰は雨季の朝陽に鋭く光れり
水道を太くして皿洗う遅き夕飯ひとりで終えぬ
白桃を冷やしてありぬ桶の水淡き紅色明るく映す
閉店のチャイムが流れるデパートに追はるる如く干物を買ひぬ
一箱のトマトを置きて豊かなる如き厨は灯さぬままに
ミキサー車静かな廻りが暑を誘うビルに囲まれしビルの工事場
ギリギリと土掘る機械を隙間よりながめて去れり和服の老女
40号に表れる旧字は、当時の私は書くことが出来なかったと思うので、漢和辞典を引いたのか、阿部先生が直されたのか、編集部が直されたのか、定かではない。旧かな表記に関しては、古文の知識から必死になって使ったのだろうと思う。2首目の「勇気ある判決」とは、この年の3月30日の東京地裁の米軍駐留を違憲とした、いわゆる伊達判決だったのだろう。当時、創刊されたばかりの『朝日ジャーナル』を小脇に抱えたりした先輩がカッコよく見えた。私自身は、学友からは「氷川下セツルメント」の活動に幾度となく誘われたり、出版まもない丸山真男の『現代政治の思想と行動』、当時はまだ上下の2巻本だったが、読書会のメンバーに声を掛けられたりした時代だったが、参加するでもなかった。他大学の高校時代の旧友で「全学連主流派」の活動家から「法律なんて、いったい何の」とか責められたりもしていたが、といって、まじめに法律の勉強をする学生にもならなかった。
41号になると旧かな・新かなの混在であって、ちょっとまずいことになっている。41号末尾の2首は、実家がある、当時の池袋は、建設ラッシュのさなかであったことがわかる。
さっそく、連れ合いにも読んでもらうと、「若いね、前向きだったんだ」との感想であった。
初出:「内野光子のブログ」2017.10.15より許可を得て転載
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