社会学者の見たマルクス(連載 第5回)
- 2017年 11月 5日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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マルクスがエンゲルスに出会ったのはこの時であった。エンゲルスはどこまでも大胆かつ直線的で、革命志向を具現化したような男であり、この点においてはマルクス以上であった。この時以降エンゲルスはマルクスのことを同志としたが、エンゲルスは同志マルクスが自分とは違った方向で社会主義革命の問題の解明に取り掛かろうとするのを見ることとなる。
エンゲルスにとっては、依然としてフォイエルバッハとブルーノ・バウアーの両者がドイツ哲学の完成者であった。マルクスは、『アルゲマイネ・リタラツーア・ツァイツング』による自分への攻撃のことをエンゲルスに話した。当時短期間ではあったが、バウアーがこれを編集していた。マルクスはその攻撃に対して防御を行おうとしていた。バウアーは、マルクスにとって最も古くからの友人の一人であり、無神論的ヘーゲル主義を主張したという意味からマルクスに最も強い影響を与えた人物であったが、マルクスは、自分とバウアーとの間にも境界線を引く必要があると考えた。
バウアーの批判はハッキリともので、この批判によって彼は、抑えようの自意識、すなわち自分は大衆を凌駕しているのだという思いを鮮明にしようとした。バウアーは依然として優れた知識人であり、彼自身がというよりは、彼の弟エドガーを含む彼の協力者たちがマルクスに対して辛辣な対応をするよう唆したように思われる。
マルクスは「批判のための批判に対する批判」を書こうとして、エンゲルスに協力してくれるよう頼んだ。エンゲルスは喜んでそれに応じた。マルクスは「聖家族」(バウアー一家のこと。バウアー兄弟の3人目は出版業者であった)のことを嘲笑的に語った。『聖家族』という題名はこの本の出版者には歓迎されたが、エンゲルスにとってはいささか驚かされるものであった。また彼は、自分の名が共著者として表題ページに掲載されることも望まなかった。「老人」と呼んでいた彼の父親に衝撃を与えるのをおそれたからである。
『聖家族』は1845年に出版された。エンゲルスが担当した部分は僅かであったが、この『聖家族』で二人の名前は結びついた。そしてその後ずっと結びついたままであった。彼らは当時まだ「真のヒューマニズム」の提唱者とされていた、フォイエルバッハの影響下にあった。エンゲルスは「真のヒューマニズム」に熱狂的な忠誠を誓っていた。『聖家族』の序文は次のように始まる。
この真のヒューマニズムのドイツにおける最も危険な敵は唯心論と思弁的理想主義である。我々がバウアー批判において戦うのは、戯画として再生産されたこの思弁に他ならない。
そしてこれに続いて、ドイツ的思弁の無意味さと思弁的哲学の幻想性が論じられる。それは、あたかもショーペンハウエルがシュリングとヘーゲルを論じるかのようである。
フランス唯物論に対する批判的攻撃を論じた章では、社会主義・共産主義に直接つながるという理由から、イギリス唯物論との連携という方向性が推奨されている。マルクスは、こう主張した。唯物論は、「真のヒューマニズム」論として、そして共産主義の理論的基礎として、フランスの科学的共産主義者テザミやガイなどによって発展を見た。オーウェンもまたこの発展に与っている、と。だが、マルクスがここで主張した哲学上の見解は後に再び相当の変更を受けることになる。社会科学におけるマルクスの姿勢についても同じことが言える。マルクスは『聖家族』においてはまだプルードンに傾倒していて、それがマルクスの姿勢と結びついていた。マルクスは次のように言う。
私的所有はただ、全般的に国民経済の諸関係を粗悪なものにしたにすぎないことをプルードンは示した。彼はこれによって、国民経済学の観点からなしうる国民経済学批判の全てを行った。
序文の最後で、マルクスとエンゲルスはそれぞれが独立した論文を書くことを約束した。その論文では、おのおのが独自に、哲学及び社会にかかる最近の学説についての自分たちの具体的な見解を述べ、併せてそれらの学説に対する自分たちの具体的立場を明確に書くとされていた。
1845年の春、マルクスはブリュッセルに移住したばかりであった。エンゲルスはブリュッセルに出かけていった。それは上述の計画のためであった。この年の夏、彼らは一緒にイギリスを旅行した。イギリスの状態を知ること、依然として勢力を保っていたチャーチスト運動の指導者と知り合いになること。エンゲルスは、こうしたことをマルクスに計らってやることが自分の役目だと考えた。
ブリュッセルに戻ってから二人はヘーゲル以後の哲学の批判に没頭した。マルクスはフォイエルバッハを無条件に信頼したことは決してなかったが、年若の友人エンゲルスは違った。エンゲルスは、『聖家族』においては次のようにフォイエルバッハに公然と与した。
フォイエルバッハは形而上的絶対精神を「自然という基盤の上に立った現実の人間」のうちに解消した。そのことによって彼は宗教批判を完成し、同時に「ヘーゲルの思弁論と、したがってまた、全ての形而上学とに対する批判のための壮大かつ卓越した基本的輪郭」を描いた。
1845年の春ブリュッセルで書かれた11の評注(フォイエルバッハについてのエンゲルスの論文への付録)は、冒頭から次のように強調する。
フォイエルバッハの唯物論も含むこれまでの全ての唯物論の主たる欠陥は、対象、現実、感性が、客観ないし観照という形でのみ把握され、人間的・感性的な活動・実践として、すなわち主体的に把握することがなされなかったことにある。フォイエルバッハは宗教的存在を人間的存在に解消するが、この人間的存在は現実には社会的関係の総体なのである。フォイエルバッハもそうだが、古い唯物論がブルジョア的社会を立脚点とするのに対して、(マルクスが切り開こうとする)「新しい」唯物論は人間の社会を立脚点とする。
「実践」を重視するというのはエンゲルスの意向に完全に沿うものであった。マルクスは時折、「理論」のことを軽蔑しきって語っている。マルクスにとって為すべきことは宣伝活動であった。彼は、ブッターパールの「奔放にして情熱的な染色工や漂白工」を立ち上がらせるという望みを持っていた。共産主義の研究をドイツに定着させることはマルクスにとって極めて魅力的な楽しい仕事であった。
マルクスは、フーリエを始めとした翻訳書の「シリーズ」を出版しようとした。モーリッス・ヘスは、古くからの社会主義者の中でも最も重要な人物の一人であったが、彼はエンゲルスが上述の計画に関してマルクスに手紙を書いた頃(ブリュッセルに二人がやってくる前)、バルメンで暮らしていた。マルクスとエンゲルスはまだヘスのことを尊称(Ihr)をもって呼ぶべき一人だと見ていた。彼らにとっては、これまでの社会主義は全てイデオロギーであると思われたが、ヘスにはイデオローグ以上のものを感じていたのである。
ブリュッセルでマルクスとエンゲルスはドイツ哲学のイデオロギー的な見方と彼らの見方との対立を細部まで明確にする作業を一緒に仕上げた。後に『ドイツ・イデオロギー』という書名で呼ばれることになったこの作品はついに出版されることはなかったが、その大部分は草稿として残されている。第一巻では、フォイエルバッハとバウアーの他にマックス・シュテルナーについて論じている、シュテルナーは、前の二人を絶対的個人主義とエゴイズムとによって打ち倒そうとした。第二巻では、ドイツのこれまでの社会主義を批判し、新しい「史的」唯物論と一体化した新しい「共産主義」を、これに対置した。
1845年にはまだ4種の社会主義的な雑誌が刊行を続けていたが、このうちの一誌『ゲゼルシャフト・シュピーゲル』は、エンゲルスがヘスと組んで、「社会の悲惨さとブルジョア体制」を描かくために発刊したものであった。ヘスはエルバーフェルドでのある演説の中で、共産主義を「愛情の生活法則が社会生活に適用されたもの」と定義したが、これはエンゲルスの好みにはあわなかった。エンゲルスとマルクスがそれ以上に気に入らなかったのは、カール・グリューンであった。彼はフォイエルバッハ派として、「真の社会主義」を説いて回っていた。また彼はパリに住んでいたことから、彼なりのやり方で、プルードンをドイツ哲学の隊列に引き入れようとした。これは以前マルクスが試みたことでもある。
ヴァイトリンクは、1846年にブリュッセルにやってきた、彼はキリスト教社会主義者であり、多くのドイツ人遍歴職人とつながりがあった。ヴァイトリンクはそれまで「ドイツ的」共産主義の第一人者であった。「フランス的」共産主義ではカペーがそうであったように、である。マルクスとエンゲルスは、このヴァイトリンクとも反目するに至った。
マルクスとエンゲルスは共産主義の運動に飛び込んだ。それによって、自分たちが実際の労働運動と一緒に前進しようとしているのであって、知識人として労働運動の外に立つつもりはないということを示そうと考えたのである。とりわけ彼らが望んだのは、運動のトップに立ち、自分たちの考えを広め、それを唯一つの権威のある支配的な考えとすることであった。これは、プロレタリア革命を彼らの基本的考えに沿って指導するためだった。彼らは、プロレタリア革命を自分たちが生きているうちにこの目で見たいと思っていたのである。
その後の彼らの足取りはこの観点から説明することができる。エンゲルスはブリュッセルにやってくる前に、既に『イギリス労働者階級の現状』に関する画期的な研究をやり終えていた。彼はマルクスとは異なる独自の道を進んでいた。『経験論と唯物論』がエンゲルスの基本となった。マルクスは1859年に、『ドイツ・イデオロギー』でエンゲルスともども意図したことは、自分たちのそれまでの哲学上の意識を清算することだと言った。この清算はエンゲルスにとっては難しいことではなかった。それまでの哲学上の意識は、マルクスにあっては、容易に克服できないものとして受け止められていたが、エンゲルスにとっては軽い荷物だったからである。マルクスは、エンゲルスが「別の方法で」自分と同じ結論に達したことを確認するために『イギリス労働者階級の現状』を見るように、と言っている。――もっとも、『イギリス労働者階級の現状』では、時折シュテルナーのことが示唆してあるとはいえ、哲学については何も論じられてはいないのだが。
マルクスは、新しい友人エンゲルスと一緒に、単にドイツ哲学だけでなく、それと同じイデオロギーを持つこれまでの全ての社会主義と絶縁しようとして、二つのことを考えた。第一は、国民経済学はブルジョアジーの階級意識を表したものとして研究しなければならないということである。第二は、行動力と戦闘性を持ったプロレタリア意識を発展させるために、現実の社会状況、とりわけ労働者階級のそれについての研究が必要だということだった。二番目の研究はエンゲルスが既に行ったのと同じものであった。ただエンゲルスは、イギリスには既に発展したプロレタリア意識があり、「社会」革命は目前に迫っていると確信していた。エンゲルス自身は、老年になってから、当時のこの予言は自分の若い情熱が言わしめたものだと語っている。一方、マルクスは、当時から既にこのような幻想にはためらいがちに興味を寄せていただけだったといってよいであろう。
マルクス自身の意欲は政治経済学に向けられていた。これは、最初はプルードンが彼に与えた大きな影響によるものであったが、その後「ブルジョア社会の解剖は経済学によって可能になる」という確信をマルクスが持ったからに他ならない。ブルジョア社会という概念はヘーゲルから受け継いだものである。「ヘーゲルはブルジョア社会という名のもとに、物質的な生活関係の全体を包括している」。マルクスは1859年1月にそう書いた。
我々が見るのは、マルクスが、自分を襲った疑問との格闘を始めたとき、ヘーゲル法哲学の諸概念、とりわけ国家と社会の関係、および政治的な運動・変化・革命と社会的なそれとの関係を絶え間なく検討し、究明したということである。ここでは、マルクスはその成長過程で獲得した彼固有の特質をもって議論を展開している。次の文章にその格闘の直接の成果が示されている。
法的諸関係も国家の諸形態も、共にそれ自体から理解することも、またいわゆる精神の一般的発展から理解することもできない。それらはむしろ物質的な生活関係の中に根拠を持っている。
こうした考えは、公刊されなかった手稿(『ドイツ・イデオロギー』)の次のような叙述の中に既に見られる。
「物質的生活の生産」は、歴史的に見て本源的な行為である。国家は、ブルジョア社会の活動体、ないしは、そこで支配階級の人間達が自らの利益を主張する形態である。
マルクスとエンゲルスは1846年8月までブリュッセルで一緒に仕事をし、その後エンゲルスはパリに赴いた。彼らは自分たちの間ではドイツ人職人を「放浪人」と呼んだが、その「放浪人」の中で宣伝活動を行うためである。エンゲルスはそこでヴァイトリンクの支持者達の抵抗に遭った。グリューンとプルードンの支持者達の抵抗はこれよりももっと強かった。マルクスがプルードン批判を書かなければならないと感じたのは、この時である。それまでマルクスにとっては、プルードンは、(ヴァイトリンクと同様に)プロレタリアートの中から直接生まれた理論家として、尊敬の対象であった。プルードンの新たな著作『経済学の矛盾――貧困の哲学』は、マルクスを刺激して、この本の批判を書かせることになったが、それはまたマルクスに、倒置した題名[『哲学の貧困』]でもって、エンゲルスと共に獲得した新しい見解を展開する機会を与えた。
プルードンは共産主義者を、国民経済学を全く知らない、頭の固い極楽とんぼの夢想家、と呼んだ。マルクスは、これが自分のことを指しているわけではないことを知ってはいたが、彼にはすでに、一貫して科学的根拠に基づいた「新しい」共産主義の基礎を構築するという考えが浮かんでいた。『哲学の貧困』はマルクスにとって初めての純粋な経済学の著作であった。のちにマルクスは経済学の分野で極めて著名な人物となったが、彼はこの本によって世に出たのである。
(連載第5回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study899:171105〕
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