災害を口実に社会的弱者の存在を忘れてはならない
- 2011年 3月 24日
- 交流の広場
昨日のニュースで東京23区と5市の水道水から放射性物質が検出されたことを知った。実はそれを知る前にスーパーマーケットに並んでいたのであるが、周辺にやたらに水(ペットボトル)を抱えた人が多いことに気がついていた。箱詰めされた水を何本も重そうに抱えているおばさんを大勢見かけた。「何事だろうか?」と思っていたら、レジの女性が、「今日はニュースのせいで私は腱鞘炎になってしまった」と嘆いているのを聞き、はじめてそれらしいことに気付いた。
八百屋では、茨城、栃木、群馬、福島の野菜は毛嫌いされ、大量に積み上げられたまま、通常に比べてかなり安い値段で売られていたが、誰も買おうとしない。
勿論僕たち貧乏人にとっても、食の安全は重要である。しかし、僕らの日常生活は、肝心の食費を倹約しなければやっていけないくらいひっ迫しているのだ。ペットボトルなどを買って何日持たせられるのだろうか?こんなところに金を自由に使える家庭はどれくらいあるのであろうか?安全を求めて、高価な関西や九州などの野菜しか食べないような裕福な家庭はどのくらいあるのであろうか?僕にはとてもこの光景が信じられなかった。
きれいなスーツの上に、まっさらな作業着を着こんで、あたかも庶民と苦労を共にしているかの見せかけを作っている方たちだけが、こんな「贅沢」をやってられるのではないだろうか?
失業者、病人、子供や老人を抱えてその日暮らしの方々、ホームレスの人たち、勿論、災害によって生活困窮に追い込まれた方々等、多くの社会的弱者がいることを忘れてはならない。むしろこういう状態の下で、本当に苦しんでいるのは彼らなのではないだろうか?
昔、雪国出身のある友人が、「雪が差別を運んでくる」といっていたが、災害やとりわけ原発事故が差別社会を助長しているように思う。
災害・事故対策がすぐれて政治の問題であることを忘れてはならないし、「対策」ということだけにかこつけて「弱者の存在」を忘れることは許されないのではないだろうか。
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