『資本論の世界』を改めて読む(第1回)
- 2017年 11月 20日
- スタディルーム
- 『資本論の世界』内田義彦野沢敏治
はじめに
今年に入って私は内田義彦の『資本論の世界』(以下、『世界』と略す)を改めて読んだ。それを最初に手にしたのは出たばかりの1966年の末だから、もう50年も前のことになる。この新書は今でも刷りを重ねているのだから、超ロングセラーである。その年の4月、私は平田清明先生のゼミナールに入り、まったく新たなマルクス読解に心を奪われていた。その平田を通じて私どもは内田を知ったのである。
『世界』の文章はのびやかで思考は柔軟であり、とにかく明るく感じた。それまで資本主義と言えば、失業や恐慌をもたらして全般的危機の段階にあるとかばかり聞いていたから、資本主義がそれまでの社会と比べて本質的に革命的であって産業の構造を変えて高度化させる、労働力もそれに応えるべく流動的で多面的になる、人間と自然を開発するうえでプラスの面があるなどと論じたのであるから新鮮であった。
またいわくありげで心に引っかかるものがあった。マルクスを論じるのに経済人嫌いの河上肇を出してきたり、翌67年の『資本論』刊行100年と明治国家成立100年を前にした準備とを当然のこととして併行させるとか、中期のマルクスが資本主義の意外な強靭さに注目して経済学を改めて最初からやり直したこと(――内田自身も戦後の高度成長で日本資本主義の生命力に気づき、改めて経済学史を振りかえったと言える)、『資本論』初版の「序言」でイギリスの労働者階級がアメリカの南北戦争にさいしてとった態度を『資本論』の本質的な理解に関連させるところなど。でもよく分からないところもあった。資本主義は私有財産制の社会であって、他の同じく私有財産制の古典古代の奴隷社会や中世の封建社会とは違って独自なものがあり、だから前史の最後だ、本史は資本主義の後から始まるという歴史観など。今は『世界』初体験の時の意外で新鮮な感覚は薄れているが、今にしてあれはこういうことだったかとしみじみ解ることも多い。
今年は『資本論』が出て150年、それを記念する研究集会も開かれているが、一般の関心を大きくひくことはないようだ。それよりも立憲民主主義を危うくさせる政治の拡がりや現実味をおびた憲法9条改訂の動き、3年後のオリンピックの方が話題になっている。マルクスへの関心は50年前の時も明治100年を迎えるその陰に隠れて低かったが、今はまたさらに低くなっている。当時も憲法の改訂を進める動きが与党にあり、67年の2月11日は紀元節を復活させた建国記念の日と定められていた。
本書は書かれた当時の時代状況や思想状況を反映している(1966年の年表、参照)。日本は戦後の復興と民主化を曲がりなりにも果し、1955年後半から資本主義の新たな発展である高度成長期に入る。東京オリンピックは2年前に終っていたが4年後には大阪万博が開かれるという時であった。もちろん問題はあった。環境破壊の公害列島や人間疎外の管理社会化など。しかし経済成長による物的な豊かさは時代を批判的に捉えるのに必要な古典への関心を薄れさせていた。戦後直後に知的な飢えを満たすために書店の前に列をなしたことは過去のこととなっていた。内田はそれにも拘らずこういう時こそ古典をお仕着せでなく自分のものとして読むのに良い時だと発想を逆転させ、そのことをこの新書で実験してみたのである。現在はさらにその時とは政治も経済も、社会も文化も変わった。福祉国家から新自由主義へ、高度成長と公害から定常経済とリサイクル型社会へ、人口増大から人口減少と少子高齢化社会へ、本からインターネットの情報社会へ、と。こういう時に今こそ古典を読むのによい時だと口にするには勇気がいるが、『世界』は現在の問題に答えないから今さら内田でもあるまいとすることでは、内田にすべてを求める態度と同じく、怠け者の甘えであろう。
本のタイトルが変っている。『資本論の経済学』とか『資本論の体系』でなく、「世界」とは何だろう?それに中の構成も変っていて、内田はすぐに『資本論』の中身に入らないのである。全部で6章構成になっており、最初の3つは問題意識を述べた序論で、題も内容も「ん!」と思わせる。Ⅰ「マルクスを見る眼」、Ⅱ「『資本論』以前のこと」、Ⅲ「スミスの世界とマルクスの世界」。特にⅠが鮮やかで刺激的であった。Ⅱは日本社会を西欧と比較したものであり、Ⅲは経済学史的にマルクスの歴史理論をスミスのそれと比較したものであった。3つのどれも他の本にないものであった。
後の3つが本論であるが、これもまた実に独特な構成であった。Ⅳ「労働と疎外」、Ⅴ「相対的剰余価値の論理」,Ⅵ「資本と人間の再生産」。これで資本主義のなんたるかを示そうというのである。多少ともマルクス経済学に関心のある人はマルクスは疎外思想を清算して物象化論に移行したのでないかとか、最も基礎的な価値論において古典派と決定的に異なる価値形態論への言及はあるのか? 資本主義の特徴は絶対的剰余価値論にあるのでないか? あるいは人間の再生産って何か?と思った(今でも思うかも)のである。
以下では3つのことに絞って述べてみたい。① 内田の方法が100年前の『資本論』を使って今日の日本の人間と社会がどう見えてくるかを試すものであったこと。② そのことと関係するが、「人間」にとって資本主義とは何かという問題意識について。③ 経済学を歴史の理論としたこと。以上のことを述べる中で、内田後の私どもが内田に学びつつ自己の問題を意識していったことに言及してみたい。『世界』の成立の時期は内田後のわれわれが学問上の自意識に目覚め、研究活動に入り始めた時と重なる。もしも健康に問題がなく時間が残されているのであれば、その経験を整理しておこうと思っている。
専門用語と日常語
『世界』は『資本論』の解説本とは違う。同書が出た頃は学生や知的な読者に向けて『資本論』の体系を解説したり、マルクスが資本主義を理論的に捉えるに至ったあとを追う本が沢山出ていた。大学ではマルクス経済学の原論が近代経済学の原論と並んで講義されていた。でもそれらはいきなり専門の概念を用いて説明されていたから、われわれ抽象的な論理を追うことに慣れている学生にとってもいささかげんなりするものであった。研究するには対象と距離を置いていろいろな角度から分析し、それらを順序立てて組みあわせねばならないのだが、なぜ専門用語を使うかの理由が深く問われることはなかった。われわれ学生消費者もそうであり、学期末の試験に備えてただ暗記するのであった。『資本論』を理解するのに自分の言葉をもつことは科学的でないとする雰囲気があり、マルクスの思想についても自分自身に切実に関わるものとして検討することはなかった。
そこにこの新書が現われた。同書は前年65年にNHKで10回にわたってラジオ放送したもののテープを聞きながら何回か書き直したもの。放送であるから聞いて分かるように語っていたと思うが、本になっても目で追うのに優しくて読みやすい。読者に対するこういう親切は内田が専修大学等で行なった経済学史の講義の場合と同じであった。内田は同書で学問の供給者としてよりも学問の消費者として『資本論』を実際に使おうとしている。その使い手には資本主義のど真ん中にいる社会人も入る。それは学校制度の中だけでなく、働いて暮しを立てつつ学ぼうと意欲をもつ人々であった。内田はそこに身を置いている。学者が一般読者に対して上から見下ろすのでなく、ずいぶん近いのである。
『資本論』を使うと言っても、内田も断っているように、その体系全体を使うことはとてもできない。『資本論』のどの行も文字も、注1つさえも見逃さず巨細に論述することでは見晴らしを得ることはできない。また今日ではその内容は19世紀西欧と時代が違うのだから直接あてはまることは少ない。今でも直接学ぶことができるのはある事態を矛盾したものとして問題にする方法であろう。そこで内田は体系の一部を取る。それも体系全体の理解に必要なところを取る。それが彼がよく言う「断片」である。『世界』の目次にある労働過程論と相対的剰余価値論、資本蓄積論がそれであった。繰り返すが、内田はよく「ふくらませる」とか所々の節をとって「砕いてみる」と言うが、それは断片を孤立的に取りあげて勝手に操作することでなく、広い視野と問題意識の中においてそれの適正な位置を決めることなのである。この点、誤解してはならない。その例は次の節での労働過程論の取り上げ方によく出ている。
経済学の専門語を日常の生活のなかで開いているところはユーモアがあり、巧みであった。マルクスが使う用語は読者が普通経験することや生活上の意識にひっかけて説明されているので、術語の意味がよく分かる。後でも出すが、「労働」の本来の意味をトンボ釣り(取り?)の少年で説明するところなど。多くの専門書はそれと反対であった。明治維新期や戦中期には大衆は難しいことが偉いことと思わせられてきたが、戦後の高度成長期にもまだそのような雰囲気はあった。今は一種の開国の時期であって、外からやたらと新しい思想や理論、社会活動の型が紹介されている。こんな時に相変わらず翻訳語はすぐに聞いて分からない漢字で書かれ、あるいはカタカナ言葉や原語そのままに紹介されることが多い。今は分からなくてもくり返し使われるなかで分かっていくことはあるだろうし、すらすら読めるよりも少し難しい方が印象に残ることはある。それでも難しさが表に出るようでは言葉の意義はなくなるだろう。福沢諭吉が笑った翻訳の態度である。三枝博音はヘーゲルのBegriffを「概念」と訳したことに対抗して「捉えてあること」としたことはもう忘れられている。私も同じ意味の漢字をよく考えることもなくただ2つ並べてきた習慣の中にいたのである。認識、範疇、等。学術語を考えや感じを的確に伝えるための道具と言うよりも飾り的に使ってきた面がある。内田は新書を書くことでその日本語の問題に答えようとしたと言えないか。
とにかく『世界』は私どもが大学でマルクス経済学を勉強して試験に備える以上のものとなった。参考書は用がすめば捨てられるが、この本だけは何度も読み返したことを覚えている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 /www.chikyuza.net/”>http://www.chikyuza.net/
〔study908:171120〕
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