社会学者の見たマルクス(連載 第8回)
- 2017年 12月 17日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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青年エンゲルスが、所有制の廃棄という天国がほんのすぐ近くにまでやってきていることを信じていたことは間違いない。翌年(1845年)の彼の手紙からもまた、若者らしい共産主義への心酔ぶりが窺えるが、ここでも共産主義は「社会主義的著述家」が描いたものと区別されてはいない。
この間に、『イギリス労働者階級の状態』が書き上げられた。その(英語版の)前書きには、「バーメン、1845年3月15日」という日付がある。この著作では、労働運動に関する章でまず、実体を持った最初のプロレタリアとしてのチャーチストが論じられ、次に、社会主義者のことが述べられている。
社会主義者は元来ブルジョアジーの出自であり、そのために労働者階級と一体となることはできない。「しかし社会主義とチャーチズムとの融合、すなわちフランス型共産主義をイギリス的なやり方で再生産することは指呼の間のことであろう。部分的には既に始まっている。チャーチストの指導者はほとんど全員社会主義者だ」。
別のところでは、チャーチストの指導者の大半は「今やすでに」共産主義者だと言っている。そしてこの本の最後の頁で以下の注目すべき発言がなされている。
共産主義は、プロレタアートとブルジョアジーの対立の上に立つ。それ故、ブルジョアジーの中の優れた部分――といっても、その数は極めて少ないし、また青年時代に勧誘する以外には見込みはないが――にとっては、共産主義に与することは、純粋にプロレタリアのものであるチャーチズムに与するよりは容易なことなのだ。
しばらく後になって書かれた論文の中でエンゲルスは、「民主主義、それは今日においては共産主義のことだ」と言っている。この後彼が一層熱を上げていったのは、社会主義の「ドイツ的理論」と、それがシュタインと結びついていることに対する批判であった。一方、「現実に何ごとかをやった唯一のドイツ人であるヴァイトリンク」については、軽蔑して語るか、全く触れないか、であった。
エンゲルスは1846年夏のパリでもまだ、「放浪者達」に共産主義を伝道しようという熱意を持っていた。だがパリで彼はときにはヴァイトリンクの支持者と、そしてときにはプルードンやグリューンの支持者と争わねばならなかった。
ある時、彼らが、エンゲルスは共産主義の名の下でどういうものを考えているのか、を尋ねたことがある。エンゲルスは次の三つのことを挙げて、これに答えた。1.ブルジョアジーの利益とは対立するプロレタリアの利益を貫徹すること、2.私的所有の廃棄とそれに代置するに財産共同体をもってすること、3.この計画を実現する手段として、力による民主主義的革命以外のものを認めないこと、この三つである。
カール・ハインツェンは共和主義者であり、ルーゲの支持者でもあったが、エンゲルスはこの1年後の1847年10月に、彼と激しい論争を行い、次のように主張した。
共産主義とは教義ではなく運動のことだ。それは原理からではなく事実から生まれるものであり、大工場等の産物なのだ。しかし、理論的に見る限りにおいては、共産主義とは、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争における前者の立場の理論的表現であり、プロレタリアートの解放の条件を理論的に総括したものである。(マイヤー、279頁)
エンゲルスはこの数週間後に「教義問答形式」で書かれた『共産主義原理』という著作のなかで、「共産主義とは何か」という最初の問いに対して、それは「プロレタリアートの解放の条件についての学説である」と、断固たる口調で答えている。――かくしてエンゲルスにとっては、共産主義は今度は学説である。
自分の友人であるエンゲルスのこのような見解や発言に対して、マルクスはこの時どういう態度をとったのであろうか。次のことが知られている。1844年9月以来彼らの間には極めて緊密な交流があったこと、そして、エンゲルスが1845年の春ブリュッセルにやってきたとき、マルクスによって「共産党宣言の首尾一貫した基本的な考え」がすでに整理されていたのをエンゲルスが見たこと、である。この「基本的な考え」では、「それぞれの歴史的時代区分における経済的生産とそのことから必然的に生じる社会的構成とが、その時代区分の政治的・精神的歴史とそれから生じる必然的結果の基礎を造る」とされていた。
このことや他の徴候などから、共産党宣言の第1章「ブルジョアとプロレタリア」はマルクスによって書かれたと結論づけてよいであろう。この章は、元来は、階級闘争について論じたものであり、ブルジョアジーとプロレタアートとの階級闘争を、ブルジョアジーが封建制と封建的絶対主義に対して勝ち取った階級闘争と対比している。それ故また、ここではプロレタリアを階級として組織することをも論じている。社会主義あるいは共産主義についてはこの章では何も語られていない。ある者は、ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利から期待できるものは、両者の破滅とヨーロッパ文明の死滅以外にはないだろうとするが、こういう者でも、本章の趣旨には同意できよう。
次に、第2章「プロレタリアと共産主義」では、「これまでの所有関係を廃絶するということは共産主義の本質を特徴づけるものではない。共産主義が何よりも他のものと違うのは、所有一般を廃棄するではなく、ブルジョア的所有を廃棄するということにある」とされる。ここには、エンゲルスが提出した草案にマルクスが加えた修正をはっきりと見て取ることができる。エンゲルスの草案では次のようになっていた(ベルンシュタイン版、21頁)。
かくして、私的所有もまた廃棄されなければならない。……しかも、私的所有の廃棄は、産業の発展の中から必然的に生じた社会全体の秩序の変化を最も端的にそして最も明瞭な形で総括するものであり、それ故また当然のことながら、共産主義者によって中心的な要求として掲げられるであろう。
共産党宣言はさらに、「近代ブルジョア的私的所有」を、階級対立と一階級による他の階級の搾取とに基づく、生産物の産出と取得の、最終にして最も完成された表現であると特徴づけた上で、「この意味で、共産主義者はその理論を私的所有の廃棄という表現に要約できる」と言う。修正はここにおいて一層はっきりとする。
ここで、共産党宣言が書かれるまでの2年間にマルクスが書いたもの、それもマルクスが自分だけで書いたことが判っているものと比較してみよう。そのようなものとしては、上述した『哲学の貧困』とともに、マルクスが1847年に「労働者の前で」行った賃労働と資本に関する講演があげられる。この講演では、物質的生産手段の変化とその発展に伴う社会的生産関係の変化についての理論が、付随的にではあるが、すでに触れられている(この問題は後に、1859年の著作[『経済学批判』]の序文で主題として論じられる)。物質的生産手段の変化とその発展に伴う社会的生産関係の変化は、マルクスの重要な代表作の対象となっているが、同時に、主としてブルジョア社会のブルジョア的生産関係としての資本に関する一般的理論のスケッチでもある。叙述は厳密な意味で専門的であり、理論的にして冷静だ。
資本の利益と賃労働の利益は真っ向から対立するというのが主題であるが、時折、労働者階級の状態と未来が陰鬱な光の下に照らし出される。労働の分割と機械制の拡大によって、労働者間の競争が拡大し、それとともに賃金はさらに減少する。このことは、小規模な生産者や小金しか持たない金利生活者が没落することによってさらに激化する。彼らは、労働者達と並んで、仕事を求めてその腕を上げる。「かくして仕事を求めて、高く差し出される無数の腕は絶えず一層密になってゆく。そして腕それ自体はどんどんやせ細ってゆく」。この論文は『賃労働と資本』として、1849年に初めて公刊されたが、これは危機についての一文をもって終わっている。ここでも、社会主義と共産主義とについては何も語られていない。エンゲルスのような口調はここにはない。
マルクスが1848年1月にブリュッセル民主同盟で行った「自由貿易について」という演説の核心が「自由貿易システムは社会革命を促進するのであって、この革命的意味において私は自由貿易に賛成する」という発言にあったことは事実であるが、この演説でもエンゲルスのような口調は見られない。
マルクスとエンゲルスとの違いをもっと特徴づけるものがある。それは、エンゲルスが、「ハインツェンの、雪崩のように降りかかってくる罵詈雑言にたいしては、せいぜいが横っ面をはり倒してやるくらいで、他には何とも答えようがない」と言ってきた際に(手紙20)、マルクスがエンゲルスとハインツェンの争いに割って入ったことに見られる。これは1847年11月中旬のことであった。マルクスは友人エンゲルスを窮境から救い出さねばならなかったし、またそうするつもりであった。この事件は共産党宣言が書かれる寸前に起こった。ハインツェンは次のように主張した。
権力は所有をも擁護する。君主制か民主制かという問いを前にすれば、あらゆる社会的な問題は消し飛んでしまう。共産主義が(エンゲルスの言うように)ある目標を持った運動であるとするならば、その運動は当然のことながらその目的の実現をもって停止するか、あるいは新たな運動に転化するか、しなければならない。
マ ルクスは、これに対して「売り言葉に買い言葉」で応じ、さらに次のように主張した。
ブルジョア階級の政治的支配は、その近代的な、そしてブルジョア経済学者からは必然的にして永遠の法則と宣言されたところの、生産関係に由来する。1794年のように、歴史的過程において、その“運動”において、ブルジョア的生産様式の廃棄のために、それ故またブルジョアジーの政治的支配の決定的な覆滅のために必要となる物質的条件がまだ形成されない限り、プロレタリアートがブルジョアジーの政治的支配を転覆させたとしても、その勝利は一時的なものにすぎないであろう。それはただ、ブルジョア革命それ自体のための契機となるに過ぎない。人間は滅び行く世界の歴史的成果のなかから新しい世界をうち立てるのである。人間は、発展過程のなかで新しい社会の物質的条件を自分でまず作らなければならない。心情や意志がどのようにもがこうと、人間をその運命から解放することはできない。……所有の問題は、産業一般の発展段階の違いによって、また特定の産業の発展段階も国が違えば異なることによって、きわめて多様なものとなる。
当時のエンゲルスの著作からは激しい革命思想が溢れ出ているが、マルクスのこの文章ではそれは抑え込まれている。
エンゲルスは、ちょうどこの頃、すなわち1845年から47年にかけて、暴力的なプロレタリア革命――最初はイギリスで起こるとされた――とそれに続く所有の廃絶と共産主義への移行を期待していた。そして期待するだけではなく、それを求めかつ追求していた。その意味において、この時期エンゲルスは絶えず自己展開を続けていた。エンゲルスの燃えるような気質が、慎重なマルクスを揺さぶり、この方向への関心を持たせることになったのは、当然のことである。
しかし、マルクスはかってのマルクスのままだった。というのは、パンフレットのなかで語られていることだが、マルクスは本来の報告のあとで、義人同盟の秘密の教義に「容赦のない批判」を浴びせ、それに代えて、ブルジョア社会の経済的構造に関する科学的な洞察を唯一の維持可能な理論的な根拠として示しているからだ。これがマルクスの本質的な精神であった。マルクスはまた、何かあるユートピア的なシステムを作り上げることが問題なのではなく、「我々の目の前で進行している、社会の歴史的な変革過程への自覚的な参加」が問題だとしている。このように、誰にでも分かる簡単な形で説明すること、これがマルクスの精神であった。この言い回しは、次のような言葉で共産党宣言にも受け継がれた。「(共産主義の理論的な定義は)今、ここにある階級闘争、我々の目の前で進行する歴史的な運動、その現実の諸関係の一般的な表現にすぎない」。
(連載第8回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study921:171217〕
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