周回遅れの読書報告(その40) 木下順二の『巨匠』を加藤周一はどう理解したのか
- 2017年 12月 31日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
加藤周一が『私にとっての20世紀』で木下順二の『巨匠』を紹介している。木下の『巨匠』は、ある俳優が青年時代に第二次世界大戦中に目撃した事件を語るという構成をとっている。その事件とは、ナチス占領下のポーランドのある町で、ナチスへの抵抗運動に対する報復のためにその町にいる知識人が銃殺されることになり、そのとき、俳優たらんとする夢を持ちながら現実には平凡な事務員として過して来た老人が、ナチスの将校に対して「私は俳優だ」と名乗りを挙げ、それを証明するためにマクベスの一節を朗読するというものである。自分の生死がかかる極限的な状況下で、それでも銃殺されることが分かりながら「俳優として生きる」という信念を貫いた人間の意志を、押さえた筆致の中で描いた秀作だと思う。
加藤が木下の『巨匠』を紹介したのは、これが初めてではない。朝日新聞の連載コラム「夕陽妄語」(1991.9.18)で加藤は『巨匠』を論じている。私もまた、そのコラムで『巨匠』のことを知り、図書館まで出かけて雑誌のバックナンバーで『巨匠』を読んだ。
『私にとっての20世紀』での加藤の紹介は、二つの点で、私が知っている(「夕陽妄語」で加藤が紹介した)木下の『巨匠』とはだいぶ違っている。細かいことからあげよう。『私にとっての20世紀』では加藤は、ナチスは占領した町の知識人全員を射殺しようとしたという。しかし、私の読んだ限りでは、ナチスは知識人を4人だけ射殺しようとした。だから、老人が「私は知識人だ」と名乗れば、誰か一人が助かることになる。加藤が言うように「町の知識人全員」であれば、老人が名乗り出ようと出まいと、他に助かるものはいないことになってしまう(さらに言えば、老人は『私にとっての20世紀』では「役場の書記」になっているが、木下の『巨匠』では簿記係である)。もっと大きな問題は、老人は誰に対して演じたのかである。『私にとっての20世紀』では老人は、青年に対して「自分は俳優だ」と言ったことを証明するために、つまり青年(および青年に代表されるポーランド国民)に対して演じたとされる。しかし、「夕陽妄語」ではそうではない。そこでは、加藤は次のように言っている。
『巨匠』の主人公の選択は、自分が自分であるための行動(identityの確立)である。俳優として銃殺されれば、彼が俳優として送った生涯が生きる。死は他の誰でもない俳優の人生の結末となろう。他方、簿記係(ママ)として生きれば、俳優としての過去は消え、彼は彼自身でなくなる。死か生か、俳優か簿記係か、ゲシュタポをよびとめるか黙ってやり過ごすか、主人公は全く自由に選ぶことのできる状況にあった。誰からも強制されず、誰からも助言されず、ただひとりでその選択を決断したときに、彼はほんとうに「巨匠」になったのである。(引用は、加藤『夕陽妄語 第二輯』から)
ここでは、主人公(=老人)は自分自身の存在証明のために演じたとされている。つまり、老人は死をかけて自分のための演じたのである。木下の『巨匠』を読む限りでは、私もそう思う。実際、だからこそ青年に強い印象を残すことになったのであろう。『私にとっての20世紀』で加藤が言うように、「青年に対して演じた」という理解では、仮に青年が見ていなかったら、老人はマクベスを演じることなく、簿記係として生き残った可能性が出てくることになる。そうではあるまい。老人は青年がいなくても、自分の全人生のために俳優として死ぬことを選んだはずである。これが『私にとっての20世紀』での加藤の『巨匠』理解に対する違和感である。
「夕陽妄語」と『私にとっての20世紀』との間で、加藤の『巨匠』理解が大きく変わったのであろうか。しかし上述した二つの違和感のうち、最初の「細かいこと」には、むしろ『私にとっての20世紀』における加藤の『巨匠』理解を疑わせるものがある。博覧強記の加藤にしてこういうことがある。
加藤周一『私にとっての20世紀』(岩波現代文庫、2009)
加藤周一『夕陽妄語 第二輯 1988・1~1991・12』(朝日新聞社、1997)
木下順二『巨匠』(福武書店、1991)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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