周回遅れの読書報告(その41) 国家と私有財産の起源を巡って
- 2018年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
数年前に、私有財産と国家の関係を考えたことがある。エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』の題名の順番のように、まず家族と家族の私有財産があり、それを守るために国家ができたと長い間思い込んできた。エンゲルス以外の多くの論者(例えば、ジョン・ロック)もそう考えてきたように思う。実際、国家とは本来そういうものだと考えることが自然のように思う。
しかし、ではどうして私有財産が発生するのかと自問すると、この答は思っていたほど簡単ではない。エンゲルス流に考えれば、分業の拡大で剰余生産物(家族や共同体で消費する以上の生産物。ただし、祭祀や災害等のための備蓄はこれにはあたらない)が生じ、これが私有財産の起源となる。如何にももっともらしいが、よくよく考えてみると、国家が形成される以前の共同体で本当に剰余生産物が生じるのか、疑問になる。そもそも剰余となるような生産をする動機が思い当たらない。人間は本来、自分と家族そして共同体が暮らしていけるだけの生産物があれば、それ以上のものは不要ではないか。
南米の先住民族社会を調査していたフランスの人類学者クラストル(40才になる前に事故で死んだという)は、先住民族が剰余生産をしないことを発見した。それは彼らが怠惰だからではない。その必要がないからだ。つまり、共同体には私有財産が存在しないのである。ここから疑問が二つ生じる。「私有財産、あるいはその前提となる剰余労働はどこから生まれるのか」という疑問と「私有財産が存在しないなかで、それを守ること(だけ)を理由として成立するはずの国家はどこから生まれるのか」という疑問である。
クラストルは前者には明確に答えている。国家(権力)がそれを強制するというのである。だからクラストルにあっては、私有財産が先にあって、それを保護するという理由で国家が生まれるのではない。その逆である。国家(権力)が先にあって、国家(権力)のによって剰余労働が強制され、そして私有財産が生まれるのである。
しかし、ではどうして国家(権力)が生まれるのかと言う問いに対しては、クラストルは「それは謎である」とするだけである。剰余労働=私有財産の発生にはあんなに明確に答えたクラストルが、今度は国家(権力)の発生の理由は謎であると、あっさりと放り投げる。この清々しいまでの落差の大きさに唖然として、クラストルの名前は忘れられないものとなった。
その後、山口健二の「国家は階級対立からではなく共同体同士の対立から生じる」(『アナルコ・コミュニズムの歴史的検証』北冬書房、2003年、77頁)という主張や、それに先行する、オルテガ・イ・ガセットの次のような文章を知って、「国家の起源」は必ずしも「謎」としておく必要もないと思うに至った。
ところがこうした孤立状態の次に事実上の共同体外的共存、特に経済的な意味での共同体外的共存の時代が訪れる。各共同体の成員は、もはや自分が属する共同体のみに依存して生きるのではなく、彼の生の一部は、物的、知的交流を持つ他の共同体の成員と関係づけられてくる。つまり、共同体内的並びに共同体外的という二つの共存形式の間に不均衡が生ずるのである。……こうした状況下においては国家の原理は、内的共存の社会形式を廃止し、新しい外的共存に適した社会形式にとって代えようとする運動となって現われるのである。(『大衆の反乱』角川文庫、1967、171-3頁)
今では山口やオルテガの主張の方が説得力があるように思えてならない。いずれにしろ、エンゲルス流の国家の起源はやはり再検討されるべきであろう。国家と私有財産の論理敵前後関係を逆転させたクラストルは、その意味でももう一度思い出されていい人物ではないか。
ピエール・クラストル『国家に抗する社会』(風の薔薇、1987)
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