周回遅れの読書報告(その44) 森嶋道夫の「贅沢な人生」
- 2018年 1月 27日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
古い話になるが、奥村宏が、朝日新聞社のPR誌『一冊の本』2001年3月号に、「夏目漱石と森嶋通夫」という短文を書いている。森嶋の学説ではなく、森嶋の生き方を奥村は語っている。奥村の結論を言えば、「夏目漱石がついに貫徹しえなかった『個人主義』の境地を切り拓いたのが森嶋通夫ではないのか、と私は思っている」ということになる。森嶋は個人主義を貫き、臆することなく、多くの論者と論争を展開し、政府を批判したというのが、奥村の森嶋評である。森嶋の自伝を読んでいると、うなずける気がする。
森嶋と比較した上で、奥村は、日本の学者(とりわけ経済学者)は、自分の理論を主張せず、論争をすることもなく、ましてや政府批判をすることもない、と批判する。奥村は明言していないが、森嶋が貫いた「個人主義」が、彼ら(日本の経済学者)にはなかったからであろう。その結果どういうことになるかというと、仲間うちは凭(もた)れ合い、権力者(政府)に対しては擦り寄る(「御用学者」になる)ということになる。
奥村は、森嶋も出席していたある会合で、サムエルソンが「日本の経済学は駄目になった」と言ったことを紹介し、それは「日本の経済学者が『御用学者』になったことの結果ではないか」と結んでいる。批判のないところから学問の堕落と崩壊が始まるということであろう。 奥村は「個人主義を貫くということは、自分の主張を誰に対しても妥協しないで貫くということである」とし、その意味で森嶋は個人主義を貫徹したと評価するが、それはまた、それ故に森嶋の経済学は駄目にはならなかったということである。自分の考えを確立し、それを基準として、誰に対しても、臆することなく、批判を行うこと。森嶋の個人主義と批判的精神はそれを後に続くものに教えている。森嶋の理論を理解したわけでも、ましてやその理論に賛同するわけでもないが、森嶋の生き方には「うらやましさ」を覚える。
奥村の記事は、森嶋の近著『終わりよければすべてよし』を紹介したものである。これを第3部とし、『血にコクリコの花咲けば』、『智にはたらけば角が立つ』をそれぞれ第1部、第2部とした3部構成の森嶋の自叙伝が完結したことになる(この自叙伝はのちに彼の著作集におさめられた)。
思い立って第2部を読みなおした。森嶋は、日本人には珍しい、自己主張の強い研究者である。第2部は、京大から阪大への移籍や、阪大の内部紛争といった、森嶋自身の性格が強く影響した事件を取り扱っている部分であるから、このことがとりわけはっきりでている。森嶋はこの間絶えず辛辣である。しかし、日本の学界(研究者「業界」というべきか)、その学界の非近代性が、森嶋をそうならしめたというべきであろう。
それよりも気になったのは、森嶋が、自分の研究の苦労や苦心をごくサラッと書き流していることだ。一部の例外を除けば、研究にはまるで苦労がなかったかの印象を受ける。森嶋の独創的な研究とその業績を考えれば、そんなわけがないのだ。おそらくは何ヶ月、あるいは何ヵ年も、苦しんだことがあったはずだ。しかし、森嶋の叙述からは、それは全く窺えない。研究者同士の人間関係の痛みや苦しみは書いてあっても、研究自体に関しては、その苦しみをことさら強調するような箇所は全くない。森嶋は、その研究を楽しんだのではないか。経済動態を解き明かすという課題に立ち向かい、その課題を一歩一歩乗り越えることを楽しんだのではないか。だから、途中で断念した僅かなものを除いて、研究過程についてはほとんど触れられていないではないか。そんな気がしてならない。
今朝、何気なく橘曙覧の『独楽吟』を眺めていて、次のような歌を見つけた。
たのしみは 世に解きがたく する書(ふみ)の 心をひとり さとり得し時
たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中に 我とひとしき 人をみし時
難問をひとりで解明していくときも、これと同じような「たのしみ」を味わうのであろう。ある意味では森嶋の人生は「贅沢」な人生だったのかもしれない。
森嶋道夫『智にはたらけば角が立つ』(朝日新聞社、1999年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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