福島原発事故から再生文化社会へ 「負の世界」からの再生 ―その第一歩、福島から世界へ
- 2011年 3月 31日
- 時代をみる
- 川元祥一福島原発事故
二〇一一年三月十一日、日本列島宮城県沖で起こった地震と、つづく津波(合わせて東日本大震災又は東北関東大震災)は、日本で記録された地震・津波としては最大のものといわれ、一〇〇〇年に一回の規模だったともいわれる。そして、その被害もさまざまな予想、予防を超えるもので岩手県、宮城県、福島県などのそれは甚大なものだ。そのうえ震災地にあって、現代人類の知恵、技術を集約したといえる原子力発電所・福島第一原発(福島県双葉町、大熊町)の六機の原子炉にそれぞれ何らかの事故、故障が起き、原子炉の格納容器の破損、使用済み燃料棒貯蔵プールの故障、それらにつづく水素爆発などで放射性物質、放射線が放出されるという、人類史に記録されるべき大事故が併行している。原発から二十キロ範囲の住民への避難指示、三十キロ範囲の屋内退避指示(二週間後に自主避難指示)が出されるとともに、放射性物質の拡散によって周辺地域の土壌汚染、野菜の出荷停止。原発から二百キロ以上離れた東京をはじめ首都圏、関東地方に飲料水被害が広がりはじめている。
東北地方、関東地方の太平洋沿岸で直接被害を受けた人々には一日も早い復興のため、最大級の支援と協力が必要であり、かつ急を要することが誰の目にも明らかだ。
一方、この震災が原発の事故を誘発している事態から、日本人に限らず人類史にとってある特徴を示しており、象徴的事件として考察する必要があると考える。その特徴はこの原発事故が、地震・津波という自然現象で起こったこと。つまり人的制御を超えたところで起こっていることだ。もちろん原発建設の当初からそれは想定されており原子炉を収容する格納庫は外部力の破損や内部からの放射性物質の放出を防ぐ五つの壁が設置されている。しかし東日本大震災はそれを超えた。つまり、当事者や当局のいかなる言い訳をも超えて、その事故はやはり人的制御を超えていた。これがこの事故の特徴だ。
原発事故は列車事故や自動車事故、あるいはこれまでの戦争に使われた火薬の爆発とは違う。日本人は広島、長崎の被爆体験で、世界中の誰よりもその意味と恐ろしさを知っているが、その破壊力は、二度と起こってはならい脅威だ。そしてその原理としての核分裂は熱量だけでなく、核放射物質による目に見えない被害が大半であり、平凡な日常生活に長時間、しかも一定の量を越すと回帰・再生不能な形で浸透する。つまり・再生不能な破壊力を持つものだ。
人類はその破壊力(核分裂)を作り、武器として使用、保有しながら、さらにエネルギーとして使っている。最近では、地球温暖化対策の「切り札」「クリーンエネルギー」ともいわれ、幻想を振りまいているが、しかし核兵器においても原発においても、核分裂がともなう放射性物質、放射線は、人類がそれを完全に制御するにいたっておらず、その拡散が始まると人体への被害は確実で、しかも常に死を予見し、確かな対策もなく死を迎える負の世界、負の文明装置といえるものなのだ。
福島原発の事故で、誰の目にもあきらかになった原子炉の核燃料棒、あるいは使用済み核燃料棒は、その内部では「壊変」といわれる燃焼をつづけており、これを止める手段を人類はもっていない。そのため使用済み核燃料棒をガラス固化して地下三百メートル以下に埋める計画と、使用済み燃料棒を再利用するプルサーマル計画があるが、再利用されるのはプルトニュウムだけで、他の使用済み核物質は地下埋蔵される。しかしそうした計画が、今度の地震によって無意味であり、期待する効果はないであろうことが実証されたといえる。特に「地震大国」日本では、地下埋蔵が、危険きわまりないのがわかったのだ。地震が地殻変動によって起こる以上、地下三百メートル以下が安全とは決していえないからだ。プルサーマル計画もまた、技術的、科学的制御が不完全であるとともに、それが福島原発と同種である以上、同じ運命にあるだろう。しかも仮に地震がなくても、地中に埋めた核燃料棒が自然の中のウラン状態に戻るのは百万年かかるともいわれる。その間人類は、いつ起こるかわからない地震に怯え、ひとたび大きな地震が起こると、回帰・再生不能な「負の世界」を予見しつづけなくてはならない。
原子力・核分裂を利用しながら、その最終的、あるいは想定できる最悪のケースに対して制御手段を持たないまま事業化した原子力発電所を「トイレのないマンション」と呼ぶことがある。私は、このような比喩は生易しいと思う。核爆弾はいうまでもなく、原発事故による放射性物質、放射線の拡散は、人が可能な制御を超えると確実に人あるいは生物や植物の死を意味する。そうした性質からして、それは「負の世界」あるいは「死滅への文明装置」とでもいうべきと考える。そして、こうした再生不可能な装置は、事業化するのではなく、専門的研究者の研究室に閉じ込めておき、完全な制御、再生の論理が成立するまで利用・活用しない。そのような価値観、社会観が必要と痛感する。私はそのような価値、文化を「再生の文化」と言ってきた。
以上の意味において、ここ数日私たちが経験している震災、原発事故は、私たち日本人、あるいは日本列島に住む者だけでなく、地球上の人類にとって重要な意味があり、すでに各地の人々が気づいているとおり大きな警鐘、その象徴と考える。原発の事故だけなら、チエルノブイリ事故(1986年)やスリーマイル島事故(1979年)で体験している。チエルノブイリは福島を超える被害だった。しかしそれら事故の原因は、原子炉の構造上の特徴やそのための操作、作業のミスによるものといわれている。そうであるなら、それらは人の知識、努力、訓練などで回帰・再生可能と考えられる。もちろんいうまでもなく、この両者にあっても、核分裂による発電という意味で、人の手による最終的制御は見出されていない。それは世界中同じであり、福島第一原発も例外ではない。しかし福島原発の事故がもつ特徴は、その原因も人為でなく自然現象だ。そのため、その事故の原因もまた人のコントロールの外にあること。つまり、福島第一原発の事故は、原因も結果も人のコントロールや制御を外れ、限りなく再生不能な、「負の世界」に進むものといえる。福島原発の事故現場では、最悪の事態を避けるため、多くの人が日夜苦闘している。そのような人々に感謝するとともに、早く事故が収まり、これまでのように安定することを願うが、たとえそれが安定したとしても、事故の原因が自然現象である以上、使用済み核燃料棒も含め、事故は繰り返されることを予想せざるお得ない。原発を推進してきた人は地震が千年に一回のものだったのを言い訳とし、この後原発の危機管理を強化するだろうが、地震の発生が人のコントロールの外にある以上、そしてこの事故をひとたび経験した以上、地震のたびに「負の世界」は繰り返し予感されるだろう。そしてそれは、「トイレのないマンション」といった甘いイメージとは比べようのない不安に繋がると考える。そしてそれは、原発のあるどこかの地域の問題にとどまらず、人類的課題なのも、すでによく認識できるはずだ。
人類はここでいう「負の世界」、その文明的装置の負の性格を早くから認識、予知し、核兵器の使用と生産、核分裂の事業化への批判があり、抗議もつづいている。そしてそれは核兵器や原発だけでなく、人類が開発してきたその文明の行き過ぎを反省し、自然との共生という課題を訴え、実行しようとしている。また実行されつつもある。そうした現代、文明の行き過ぎを反省する流れの中で、福島第一原発のこの事故は、先にいった特徴からして、おそらく人類史上最初の、そして最大の警鐘と考えてよいだろう。そして、そこで予見される最悪の事態を避けるため、可能な限りの制御と安定を計るのは当然としながら、一方で私がここでいう「再生の文化」の定着、その人類史的第一歩を踏み出す必要があると考える。直面する事故の制御と安定は、本来専門的研究者の研究室で行われるべき課題だった。しかし不幸にして、我々は「負の世界」の進行、その予見と不安を目の当たりにしている。その最大限の対策、防御とともに、こうした不幸を二度と体験しないように、新しい世界観、新しい価値観、その文化の構築を目指す必要があるのも痛感する。そしてそのための言葉は、すでに多方面から発信され、人々の共感を勝ち取り始めていると思う。私がここで発信する「再生文化」も、その一つだ。このメッセイジに共感する人は、それぞれの個人の新しい第一歩として、可能ならそれぞれ個人の名前やメッセイジをここに加え、そして必要ならその人の日常語、母国語に転換して、この文を友人知人に送ってもらいたい。私は、そして多くの私たちは、核分裂や核利用について専門家ではない。それぞれの個人は、それぞれが自負する専門性を持ちながらも、生活のうえではすべての人が平凡な生活者だ。しかし考えてみると、人類史にみられる多くの歴史や変革は、その平凡な生活者の発言と行動から始まったといえるのではないか。そうした意味で、平凡な生活者の平凡な感性と意思が表示されるべき時だと考える。同じ意味をもつ他の言葉も含め、その共感が広がれば広がるほど、我々は、そして人類は、「負の世界」から回帰・再生する能力と力を蓄えることができる。そして、再生可能な世界に、一歩一歩と近づくことが出来ると考える。
三月二十九日朝日新聞朝刊一面は「汚染水、建屋外に」として「2号機のタービン建屋から外へつながる坑道とたて坑道にたまった水から、毎時一千㍉シーベルト以上の放射線が測定された」「原子力安全委員会は28日夜の記者会見で、この水が海に漏れている可能性もあるとして」と記述しながら、その二面でこの水について「ごく近くにいれば、15分もたたずに、緊急時の作業員の被曝線量上限(250㍉シーベルト)に達してしまう」とする。三月三十日読売新聞朝刊一面「2・3号機汚染水回収急ぐ。1号機水位下がらず」とし「2、3号機では、汚染水の回収(排出して回収する。筆者)先確保に時間がかかる見通し。一方で電源復旧は進み、外部電源で原子炉を冷却するという当面の目標は達成したが、タービン建屋の排水が進まなければ、原子炉本来の効果的な冷却システムの回復が困難」とする。
冷却水を多量に注入したのはいいが、それが汚染されて溜まり、引きつづき実行する予定の効果的な冷水注入が難しくなっている。これを先の朝日新聞は二面において「冷却のジレンマ」とする。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1295:110331〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。