社会学者の見たマルクス(連載 第12回)
- 2018年 2月 3日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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当時、フランス、イタリア、ポーランド、ハンガリー、ドイツなどの敗退した革命派によって、大げさな宣言文が世界中に送られたが、マルクスはこれについて嫌悪感を持って語っている。マルクスは、ゴットフリート・キンケルが行った弁護のための陳述(1849年8月7日)を、『新ライン評論』の最終号で厳しく批判した。このために、多くの友人がマルクスと疎遠になった。マルクスはロンドンでは事実上孤立状態にあったが、誠実な友人の一人にフェルデナント・フライリッヒラートがいた。彼は政治家と言うよりは詩人であったが、銀行代理店の管理者という都合のいい職を見つけていた。
ロンドンでの最初の年に、さらに手間のかかる政治的騒動が起こった。ケルン共産党事件の裁判である。この裁判は1851年10月に始まり、プロイセン警察の惨めな敗北で終わった。政府の手先のシュティーバーが集めた重要証拠は、マルクスの党の会議議事録の原本と称するもので、マルクスのかっての同志であったヴィリッヒとシャパーの児戯のような陰謀や革命騒ぎを暴露し、併せてこれを批判するという、手間暇と根気の要るものであった。マルクスは、これが杜撰きわまる偽造物であると証明することに成功した。
共産主義者同盟との関係はこの時、突然終わってしまった。マルクスは、このことによって再び研究活動に戻れることを喜んだ。既に1853年にマルクスは、殴り書きのような新聞記事を絶え間なく書くのは退屈だと嘆いている。「それは大量の時間を僕から奪い去り、僕の力を分散させ、しかも何も生まない」。
革命家達との付き合いから解放されることもマルクスにとって好都合だったにちがいない。エンゲルス宛の手紙が書かれるようになった最初の年に、マルクスは手紙の中で、既に貨幣理論の詳細な研究を始めたことに言及している。マルクスは貨幣と資本を巡る学説の発展に関する膨大な手稿をドイツのある出版社から公刊しようとしたが、これはうまくいかなかった。
注目すべきは、プルードンの著作『19世紀の革命の一般理念』にマルクスが高い関心を寄せたことである。マルクスはこの著作から膨大な抜粋を作り、それをエンゲルスに送った。そしてさらに、この著作についての考えをエンゲルスと論じあっている。マルクスはこのプルードン批判もドイツで出版させようとした。しかし、これもまたうまくいかなかった。この間、マルクスは大英図書館で「猛勉」を続けた。対象は主として、技術とその歴史、そして農学であった。目的は「少なくとも、道具に関する観察方法を獲得すること」であった。
これに加えて、1851年にロンドンで開かれた万国博覧会がマルクスにさまざまな刺激を与えた。当時のエンゲルスの考えによれば、マルクスの主たる関心事は、分厚い本、それもできれば最も無難なテーマである歴史の本を書いて、再び大衆の前に登場することであった。マルクスが長いこと出版界から遠ざかっていたこと、出版業者が時代遅れの小心者のような不安に駆られていること、この二つからから生じる呪縛を解くことがどうしても必要であった。この間に、ルイ・ナポレオンのクーデターが起き、それに続いて経済・政治上の諸事件が起きた。これらは関心を寄せざるを得ない事件であり、これが再びマルクスを興奮させることになった。
マルクスのライフ・ワークの概要を初めて示したのは『経済学批判』であるが、これがようやくベルリンのフランツ・ドゥンカー書店から出版された。それを仲介したのはラッサールであった。この頃マルクス夫人は、アメリカにいた彼女の古い友人に次のように書いている。「モール(これは、彼女の夫の家長としての愛称であったが、友人たちも使うことが許されていた)は上機嫌です。かつての作業をやりとげる能力、作業の手際の良さ、これを完全に取り戻しました」。彼女はさらに続ける。「私たちの愛し子を失うという──私の心は永遠にそれを嘆くでしょうが──大きな苦しみから、ここ数年来ぼろぼろになってしまっていた、彼の精神の生気と熱情についてもまた同じことが言えます」。これは、マルクスの家庭生活を苦しめ追いたこの上ないひどい苦悩、すなわち彼の家族の太陽であった幼子の死のことをいっている。
『経済学批判』が出版されたすぐ後、マルクスはもう一度「亡命という堆肥」(マルクスはしばしばこういう表現を用いた)から育てられた植物の一つと取り組まねばならなかった。パオロ教会の民主主義者で、いまやジュネーブの著名な唯物主義的自然科学者となったカール・フォークトによる攻撃からの防御である。
これに先立つ1854年から1859年にかけて、マルクスとエンゲルスは政治上の事件のために、ほとんどひっきりなしに手紙のやりとりをしなければならなかった。これは、新聞社の通信員としてマルクスの負う義務とは別のことであった。マルクスとエンゲルスの間で交わされた討議は多方面にわたったが、とりわけ歴史に関する話が多く、日々の暮らしの心配などは遠くに追いやられていた。手紙では、クリミア戦争を巡って、そして当然のことながら、とりわけ、イギリス政府の態度やイギリスの世論を巡って、長いやりとりが交わされた。『ニューヨーク・トリビューン』に対する憤りが交信には見え隠れする。同紙はマルクスを厚遇することはなかったのである。1855年4月に幼児を失ったことは大きな悲しみとなってマルクスを襲った。幼児の死後6日目にマルクスはエンゲルスに次のような手紙を書いている。
この数日間味わい尽くしたあらゆる苦しみのなかで、いつも、君や君の友情へ思いが、そして、君と一緒にこの世の中で何かきちんとしたことをまだやらなければならないという希望が、どうにか自分を支えてきた。
1857年にはしばらくの間、マルクスとエンゲルスはアメリカの百科事典の計画に取り組んだ。二人はこの事典に共同で寄稿することになっていた。軍事問題に関するエンゲルスの論文は、とりわけ首を長くして待たれていた。だが、1857年に厳しい金融恐慌が起こり、これがマルクスとエンゲルスにとっては最も強い関心事になってしまった。彼らはまたしても、恐慌の後には偉大なプロレタリア革命が続くという幻想にとらえられてしまった。たとえエンゲルスが、「長く続いた好況がひどい頽廃をもたらした」と嘆いたとしてもである(1857年12月27日付けの手紙)。インドの暴動についても興奮して話が交わされている。この二人の革命家が際だっているのは、学術研究や文芸へのひたむきな取り組みであるが、その痕跡が手紙の随所に散見される。あるときマルクスは、自分は今ヘーゲルの『論理学』をもう一度通読しているのだが、ヘーゲルが発見し、同時に神秘化してしまった方法の合理性を、2ないし3ボーゲンの分量(1ボーゲンは16頁に相当)で、普通の理解力を持った人たちに易しく説くという「仕事のための時間をいつかまた持てるならば」たまらなく嬉しいのだが、と語っている。思い起こすに、この考えは15年後に『資本論』の第2版の前書きでくり返されている。
ドゥンケル出版社から出たラッサールの著作『ヘラクレイトス』への対応もまた、哲学上の問題に帰着する。マルクスは、この作品をかなり軽蔑して、次のように評価している。
ラッサールは大言壮語して、ヘラクレイトスはこれまで誰にも解けぬ謎であったという。しかしながら彼は、実質的には、ヘーゲルが『哲学史』において論じたことに何一つとして新しいことを付け加えてはいない。
エンゲルスは事業経営上の実務的知識を持っていたから、経済にかかる問題を論じるときには、マルクスを助けたに違いない。『経済学批判』が出版される一年前、マルクスはエンゲルスに、自分の中心的課題に関する計画を詳細に伝えている。これに対してエンゲルスはためらいつつもこう応えている。「君は、少々骨を折ることになるが、弁証法的移行を試みる必要がある。なぜなら、あらゆる点において抽象的に考えるという君の方法は、君の言わんとすることをひどく分かりにくいものにしているからだ」。
エンゲルスは当時、生理学と比較解剖学に取り組んでおり、マルクスに次のように言っている。「有機的細胞は、ヘーゲル的な即自的存在(An-sich-sein)であり、その展開にあっては正確にヘーゲル的過程をたどり、最後は、その都度完全な組織体にまで発展する」。
こうした哲学に関する交信の中に、生活上の困窮を訴えるマルクスの悲しい手紙が混じっている。マルクスは、ひどいルンペン暮らしによって自分の知性がだめになってしまい、作業をやり遂げる能力が破壊されてしまう、という激しい怒りの言葉でその手紙を結んでいる。そして、支出に関する詳細な計算が添えられている。エンゲルスは、いつものように、できる限りの援助を行った。まもなくまた政治上の大事件が起こった。1859年のイタリア戦争である。この事件は再びマルクスの関心を経済学研究からそらせることになった。
いつも驚かされるのは、マルクスが、手紙に書かれたような苦境にあったにもかかわらず、様々な研究や活動のための時間を作り出したことだ。マルクスはこの時代に多くの人達と個人的に議論を行っている。例えば、ブルーノ・バウアーが訪ねてきて、彼のイタリアに関する計画を巡って話を交わしたり(かつての論争は、それ以前からの古い交友関係に長く尾を引くような傷を与えることはなかった)、ヨハネス・ミッケルやフェルディナント・ラッサールと手紙をやり取りしたりしている。フェルディナント・フライリッヒラートやウィリヘルム・リープクネヒトとの交流に関する報告も手紙の中に入っている。
1860年1月にマルクスは次のように言っている。
夏が来る前には新しい戦争が始まるだろう。国際情勢はひどく複雑になり、俗物的な民主主義や自由主義にとっては、それが最も重要な問題となるほどだ。しかし、我々には、ドイツの一般社会人(民衆)の耳も、彼らへの接近も断たれている。
これはフォークト事件と関係している。この事件は、必要に迫られての防御であり、自称「ロンドン愚連隊」を巡って展開されたものであった。フォークトはマルクスの取り巻きと自称する連中から多くのうわさ話を集め、つなぎ合わせた。マルクスはそれを誹謗だとして論駁するために多くの労力と時間をとられることになった。それでもマルクスは、1860年には『資本論』にも取りかかっており、一度は「それは6週間以内には終えることができる」と言っている。ここで「それ」とあるのは、明らかに『資本論』第一巻のことである。しかし、常に新しい邪魔が入る。世界情勢は彼を休ませてくれなかった。イタリア戦争は、エンゲルスの二つの冊子、『ポー川とライン川』『サヴォア、ニース、ライン川』を生むことになったが、この戦争のすぐ後で、アメリカの南北戦争というもっと重要な事件が起こった。そしてさらに、シュレスビッヒ・ホルシュタインの解放戦争と1866年の普墺戦争が続いた。これはドイツにおける神聖同盟の終焉であった。これらの出来事が二人の好戦的な革命家を興奮させたことは間違いない。
アメリカの南北戦争に関しては、マルクスはエンゲルスよりも確固たる姿勢で、北軍側を支持し、イギリス・ブルジョアジーの首領・パーマストンとフランス・ブルジョアジーの頭目・ルイ・ナポレオンとに支援された奴隷所有者[南軍]を批判した。マルクスはすぐに次のように確信した。18世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中産階級にとっての警鐘であったように、19世紀の南北戦争はヨーロッパの労働者階級にとっての警鐘である、と。
当然ではあるが、マルクスとエンゲルスは、ドイツ問題とビスマルクによるその暴力的解決を、固唾をのんで追跡しなければならなかった。エンゲルスの軍事的な専門知識は、多くの場合正しかったが、彼のオーストリアに対する評価は間違っていた。アメリカの南軍に対する評価もそうであった。エンゲルスは、プロイセンは何の成果も上げられないと予測して、戦争の結果に驚かされることになった。決着が付いたときには、マルクスとエンゲルスは、すっかり現実的な政治家になっていた。勝者を好むということではなく、事件の展開を進歩のために必要な局面として彼らなりの意味で理解するほどになっていたのである。
マルクスの生活と仕事にとってこうした体験以上にさらに重要な意味を持っていたのは、ヨーロッパの労働運動の新しい動きであった。これがこの時期、マルクスをその輪の中に引きずり込んだ。マルクスは共産主義者同盟の消滅以来、「計画的に」――彼は1864年に手紙でそう表現している――あらゆる組織への参加を拒否してきた。1861年に特赦が出され、マルクスがドイツへの旅行を許可されたとき、ラッサールは何度かマルクスを自分の計画に引き入れようした。プロシャの首都ベルリンで、ラッサールは、新聞を発刊するという彼の計画をマルクスに説明した。しかし、何の成果も得られなかった。ラッサールはマルクスを師として尊敬していたが、マルクスはラッサールに対してはかなりの嫌悪感を持っていた。エンゲルスもマルクスと同じであった。マルクスとエンゲルスはラッサールの気性をほとんど評価しなかった。哲学に関するラッサールの業績を高く評価することもなかった。また、1863年の春にラッサールがドイツの労働者階級に向けて行った迫力あるアジテーションも、単に不信感を持って受けとめただけだった可能性がある。ラッサールの思考方法はことごこく、マルクスとエンゲルスのそれとは違っていた。この二人の間で交わされた私的な手紙の中には、ラッサールの理論的欠陥と共に、彼の際限のない自尊心に対するこの上なく手厳しい表現が見られる。これは、マルクスが1861年にベルリンでラッサールの家に滞在したこと、そして翌年ラッサールがロンドンを訪れた際に数週間マルクスの家で暮らしたことと関係している。ラッサールの滞在はイェニー夫人の家計にとっては厳しい負担を意味した。マルクスの経済状態はこの年、以前にもまして悪化していたからである。エンゲルスは倦むことなくマルクスを援助した。
(連載第12回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study937:180203〕
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