周回遅れの読書報告(その46) 消された文章
- 2018年 2月 10日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
丸谷才一『笹まくら』は、一度国家に逆らった人間は、最後まで国家に逆らい続けなければならないということを語った秀作である。丸谷は小説の最後近くで次のように書く(362頁)。
……国家に対し、社会に対し、体制に対し、いちど反抗した者はさいごまでその反抗をつづけるしかない。引返すことは許されぬ。いつまでも、いつまでも、危険な旅の旅人であるしかない。そう危険な旅、不安な旅、笹まくら。……そして浜田[主人公]はそのとき、不思議に悲しい心の高揚を感じていた。
しかしそのことよりも、私には、「消された(らしい)文章」のほうが記憶に残っている。同書の第5章の冒頭は以下のようになっている。
暮らしたのだが、庶務課の窓から見える石榴の樹に朱色のような色の花が咲き、今年の夏はぜひどこかに連れて行ってほしいと陽子がせがむころになっても、依然として何の音沙汰もない。浜田は……
段落の最初の行は、段落の変更を示すために、一次分下げるのが原則だが(実際、丸谷は他の場所では必ずそうしている)、「暮らしたのだが、」という言葉には「一次下げ」の処理は行われていない。第一、「暮らしたのだが、」では文章にならない。この文には、1行かあるいはそれ以上の行が欠落している。問題はなぜ欠落しているかだ。
私が読んだ本は1974年7月30日発行の新潮文庫「初版」(文庫版の初版初刷り)であった。だから、版を組むときのミスではないかと、まず思った。脱字や字の顛倒はままあるが、行が欠落するというのはあまり例はない。しかし、人間のやることだから間違いはある。そう思った。
この欠落部分が何となく気になり、近くの公立図書書館で他の本を借りるときに、調べてみた。第2刷以降は修正されているだろうと思っていた。この本は最初、1966(昭和41)年に河出書房新社から出された。図書館で見た新潮文庫の最近版(平成13年の第12刷)にはそう書いてあった(私の文庫版初版初刷には書いてない)。図書館にはこの文庫版第12刷のほかに、河出書房新社が1975(昭和50)年に出版したハードカヴァーもあったが、1966年の初版は残念ながらなかった。しかし、2冊とも、私が古本で入手したものと同様に、奇妙な書き出しで第5章は始まっている。
さらに奇怪なのは、この奇妙な文章に関しては、丸谷も一切触れず、解説(私の版では、篠田一士、第12刷では川本三郎)もまたこのことには何も触れていないということだ。こんな奇妙な文章に気づかないはずがない。何かの事情で本の文章の何行かが欠落しているのに、誰もそのことを指摘しない。その一方で、この欠落を隠蔽するような工作(修正)が施された様子もない。
そこで国会図書館まで行って、『笹まくら』の1966年初版(河出書房版)を見た。気になっていた第5章の冒頭部分は、なんと新潮文庫と全く同じであった。つまり、この奇妙な文章は初版(初刷)刊行後に何らかの批判を受けたり、不都合が生じたりして、手直しないし一部削除をした結果ではなく、最初からこういう文章だったのである。単純な組み版のミスでも、不本意な修正(削除)によるわけでもないということだ。
それは分かったが、だが謎はますます深まった。「暮らしたのだが」という文章の前には、一体どういう文章があり、それはどういう理由で消されたのであろうか、なぜ丸谷はこんな不思議な形の文章を残したのか、という謎である。「駄目もと」で、河出書房か新潮社気付けで丸谷に聞いてみようかさえ思った。
丸谷才一にこのことを尋ねる前に丸谷は死んでしまったから、本人に尋ねることはもうできないが、誰かこの謎を解き明かそうとする者はいないものか。それにしても、この5章冒頭の文章をどうして誰も問題にしないのであろうか、不思議でしょうがない。
丸谷才一『笹まくら』新潮文庫、1974年。ほかに各種の版あり
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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