周回遅れの読書報告(その49) 日本の建設業は政治産業か
- 2018年 3月 4日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
森嶋通夫のことは以前に触れた。彼は日本人にしては類を見ないほど辛辣な人であり、滅多に日本人経済学者を褒めなかった。私の知る限り、森嶋が褒めた日本人経済学者は2人しかいない。株式会社論を日本経済新聞だけを使って論じた奥村弘と、統計データ以外の何物も信じなかった実証経済学者篠原三代平である。
殆ど知られていないことだが、篠原は日本道路公団経営改善委員会の初代委員長でもあった。誰が篠原を同委員会の委員長に引っ張ったかは知らない。しかし、ああいう委員会(声の大きな意見がまかり通る委員会)には篠原は実に不向きであった。実際、最初の意見書をまとめる頃に、「僕はもう委員会を辞めたい」と漏らしていた、と聞く。篠原はもう少し論理が通じる世界で生きるべき人だった。
当時、篠原から手書きのメモを見せてもらったことがある。公開された様々なデータから日本の公共投資が先進国としては異常な状態にあるということが実証的に示されたメモであった。表もグラフも手書きであった。多分、計算もせいぜい電卓程度しか使わなかったのではないか。そうした、いわば「原始的な」作業によって国際比較を行い、日本の異常さが誰が見ても分かるようにまとめられていた。残念なことに篠原は骨の髄まで「実証経済学者」であり、奇をてらったりハッタリをかましたりすることが全くできなかった。地道にコツコツと作業を続けるだけであり、その成果をダンビラをかざすように発表するということもなかった。もっともそのことが、森嶋が篠原を高く評価した一因かもしれない。
あの手書きのメモはその後どうなったのか、暫くは気になったが、いつの間にか忘れてしまった。2006年の10月に日経の書評で篠原が新刊『成長と循環で読み解く日本とアジア』(日本経済新聞社)を出したことを知った。篠原は1919年生まれである。このとき、もう80歳はとうに超えていた。「この歳で新刊を出すとは信じがたい」と驚いて、年末にその本を入手した。新年(2007年)になって読んだ。10年前に見たあのメモがベースになったと思われる論文が収められていた(「18章 建設活動の国際比較」)。初出は「Eco-Forum」(2005)とある。この雑誌は篠原が会長をしていた(財)統計研究会の機関誌である。読者などほとんどいない。中身のある論文をこんな雑誌に掲載してどうする気だといってやりたい。しかし、幸運にも本にまとめられたから、少しは読者を得られるかもしれない。
篠原はこの論文で「日本の建設業は政治産業ではないのか」という仮説を提起している。そう考える以外にはないのだそうだ。その仮説のもとになった話を幾つか紹介している。次のものもそうである。(同書289頁)
⑤建設会社に就職した学生から聞くまでもなく、建設業は一種の「政治産業」であった。これに「地域の活性化」という美しい言葉がつけられて47都道府県全体が集まると、巨大な政治圧力となる。高速道路だけではない。新幹線工事の拡大も、この政治的圧力のもとに次々に建設業比率を高めた背景となってきたようだ。
⑥計画段階から、四国には瀬戸内海を渡って「神戸・鳴門ルート」「児島・坂出ルート」「尾道・今治ルート」という三つの架橋が行われることになっていた。こんな計画事例はまさに他国に類例を見出すことができない。
しかし、篠原は実証経済学者の矩を越えようとしない。なぜそんなことが可能になったのか、なぜ借金が増え続ける中でそれが維持されてきたのかということを明らかにする研究が必要である。篠原は「仮説の証明は私の仕事ではない」とするのかもしれない。だが、その仮説は余りにも魅力的である。「政治産業としての日本建設業論」というのは大テーマになるのではないかと、この時思った記憶がある。
一度篠原に会いに行って、このテーマでの研究の更なる展開を依頼してみようかとさえ思った。しかし、篠原はその後間もなくして(2012年)世を去った。篠原に会って、「日本の建設業は政治産業ではないのか」という仮説の証明を依頼することは遂にできなくなった。篠原の死後、案内が来たので、「偲ぶ会」にも出かけた。篠原が「日本の建設業は政治産業ではないのか」という仮説を主張したということは、誰も話題にしなかった。篠原は草葉の陰から「それはお前さんたちの仕事だよ」と笑っているのかしれない。
篠原三代平『成長と循環で読み解く日本とアジア』日本経済新聞社、2006年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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