なぜ「森友文書・書き換え問題」が、最優先すべきトピックスなのか
- 2018年 3月 14日
- 評論・紹介・意見
- 野上 俊明
新聞メディアによると、若い人の中には「書き換え問題」よりももっと重要な北朝鮮問題や貿易関税問題などがあるではないかと、森友問題を優先度の低いトピックスとみなすものがいるとのこと。世論の主流は公文書改ざんを国会、国民への背信行為と捉えていて怒りがひろがっているので、前者は少数意見にすぎないにせよ、若者の保守化が話題になる昨今、その動向には目配りが必要でしょう。つまりこの問題が民主主義の根幹を揺るがす重大なものであることを自明視せず、若者らにその根拠を丁寧に説明する必要があると思います。それは民主主義の、あるいは市民的諸権利のアイテムの中で、何故言論出版の自由など知る権利に関わるものがトップ・プライオリティを有するのか、という問題への答えともなります。
民主主義の理念は、国の政策決定に際し、主権者である国民がその決定過程に何らかの形で参画し,自己の意思を反映させることを想定しています。そして出来得るかぎりその過程を正確に文章化し記録化したところの公文書は、次世代にとって公的な知的共有財産となり、情報公開によって担保された「国民の知る権利」を支える情報源のひとつとなるのです。もし正しい情報を国民が利用できる条件がないとすれば、たとえば北朝鮮問題が重要なイッシュウだとしても、この問題で国民が正しい政治判断を下すことはできなくなってしまいます。公文書の作成と管理を担当する官僚機構は、その意味で民主主義の奉仕者としての一面を持つといえます。
いずれにせよ、正しい政治判断は可能な限り公正で客観的な事実認識を条件とします。そうであればこそ、事実ないし事実関係が正確に記録され保存されていることは、公文書の絶対条件となります。時々の権力者の都合のいいように事実を捻じ曲げたり、抹消したりして文書の改ざんが進めば、それはやがて歴史的事実の歪曲、歴史の偽造につながり、ひいては国民の判断の大きな誤りにいきつく危険性があります。今回公文書の削除・隠ぺいの対象となったのが、安倍夫妻や超国家主義団体である「日本会議」の関係者だったのをみると、事件のいきさつは彼らの歴史修正主義的体質と無縁ではない気がします。かなりはっきりした政治的意思が働いて歴史修正主義の波が市民社会内に広がりつつあったこと。その運動を後援すべく、法治国家の枠組みを強引にすり抜けて犯罪的な土地価格のダンピングが行われたこと。その無理さ加減を隠ぺいすべく官が公文書偽造に加担したこと。結局、歴史修正主義の流れが民から官へ及んできたという意味では、森友事件は右傾化へ新次元を拓いた重要なステップとみることができます。
そこでミャンマーで経験したことが、想い出されます。2004年に軍情報局―秘密警察―や内務省トップのキンニュン将軍が突如国軍によって逮捕され、首相の職を解かれました。我々外国人には毎日テレビや新聞に登場している氏がトップだと思っていたので、解任劇は一種の〔国軍による秘密警察への〕クーデタ―だと受け止められました。この事件の真相にはまだなぞの部分が多いのですが、今問題にするのはそのことではありません。事件後に私が目にしたある出来事です。
事件後数か月してから、自宅近所にある国軍博物館に行くと、館内にあれだけべたべた掲示されていたキンニュン将軍の写真がことごとく撤去ないし抹消されていたのです。その後あらゆる公的な場に―おそらく文書からも―あった彼の名前や写真が抹消され、彼が指導者として存在していた事実そのものが抹殺されたのです。私はこのとき既視感déjà vuに襲われました。ソ連邦史を紐解くものが誰でも目にするところの、スターリンが行なった国家権力による歴史記録の改ざん、歴史偽造とはこういうことなのかと得心がいったのでした。トロツキーもブハーリンも、カメ―ネフもジェノビエフもソ連邦史には存在していなかったように、一時は飛ぶ鳥を撃ち落す勢いであったキンニュン一派はミャンマーでは存在しないことになったのです。
安倍政権が進める右翼ナショナリズムの国づくりとは、白を黒と強弁する嘘と偽りに充ちたものであり、政治責任を回避して末端に犠牲を強いるものであることがよく分かります。あの満州国と国家総動員体制の設計者であった岸信介がA級戦争犯罪の問責から遁れたように、いまその孫が祖父のひそみに倣ってネポティズム(お仲間政治)の罪から必死で遁れようとしています。遁してはなりません、溺れかけた犬どもを容赦なく叩く秋(とき)こそ今なのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7477:180314〕
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