所有権者の人権こそ人権か――ワルシャワの住宅所有権問題
- 2018年 3月 30日
- 評論・紹介・意見
- 千葉大学名誉教授岩田昌征
イヴォナ・シパラ/マウゴジャタ・ズビク著『神聖な権利 再私有化における住民と賃貸アパートの歴史』(Iwona Szpala、Małgorzata Zubik、Święte Prawo Historie Ludzi i Kamienic z Reprywatyzacją w Tle、Agora、Warszawa、2017)の46-48ページにワルシャワ、そしてポーランド全土において土地・建物等不動産の再私有化が始動された具体的契機が描写されている。再私有化とは、第二次大戦終了直後に共産党主導政権によって実行された土地・建物等の国有化・公有化を半世紀後の今日になって否定して、元の私的所有者、あるいはその相続権者達に返還する事である。現物の返還、代替物件の提供、そして金銭的補償。
『神聖な権利』の46-48ページを要約紹介しよう。
1990年末、自由選挙によってポーランド共和国大統領に選出されたグダンスク・レーニン造船所電気工で自主管理労組「連帯」指導者レフ・ワレサは、ワルシャワの中心にある大統領公邸(クラノヴァ通り6)に移り住む。そこへ3人の女性が自分達こそその公邸の戦前からの正当な私的所有者の正統な相続人であると名乗りを挙げた。戦後、共産党体制によって没収され、公邸として使用され、自分達はそこに住むことは勿論、自分の家の中がどうなっているかさえ見ることが出来ない。
大統領ワレサは、大統領官邸、ベルヴェデル宮殿に彼女等を招待して、彼女等の訴えを聞き、彼女等の私有財産が共産党支配下で不当に侵害された事実を認めた。
大統領ワレサは、すべての村々の村長達、すべての町や市の町長達と市長達、そしてすべての県知事達に、出来る限りすみやかに、可能な物件を所有者達に引き渡すようにアッピールする。しかしながら、不正・不当を正す事が現在そこに住んでいる人々を追い出す事になってはならない。一言で言えば、何人も不当にあつかわれないように、妥協だ。このように大統領ワレサは、ポーランド民衆に訴えた。
彼女達がベルヴェデル宮殿の大統領官邸を訪問してワレサと会ってから4ヶ月後の1991年5月にクラノヴァ通り6の大邸宅が再私有化され、更にそれから数ヶ月後に彼女達のもう一つの返還要求物件であったクラノヴァ通り8の大邸宅も亦再私有化された。ちなみに、クラノヴァ通り6の邸宅は、長い交渉の末に大統領府があらためて購入する事になった。
ここで、たしかに、労働者出身大統領ワレサは、有産者階級の所有権が侵害された事実だけを不当・不正としているのではなく、公有公営住宅に、賃貸居住者として生活するポーランド常民が再私有化プロセスで追い出されるかも知れないもう一つの不当・不正をも心配していた。しかしながら、私=岩田の見る所、その心配は、ワレサ個人にとっては、もはや常民労働者階級の一員として同じく切実な具体的心配事ではなくなっていた。彼が大統領になって公邸に住んでいるから心配ないと言うのではない。
ポーランドがまだ党社会主義体制の時代1988年に、ワレサ夫妻は、グダンスクに6200平米の庭を有する300平米の邸宅を購入していた。立派な屋敷の所有者になっていたわけで、住宅団地の私有化も再私有化も個人的心配の種になるはずがなかった。
ポーランドにおける不動産(土地・建物)の国有化と再私有化のドラマを観る時に、諸宗教団体、特にカトリック教会の存在を見失ってはならない。
党社会主義体制は、1950年3月20日の法律によって、諸宗教団体の所有地、その大部分を占めるカトリック教会の所有地を国有化した。全く補償なしにだ。とは言え、教会基金を設立して、国有化された不動産からの収入を集めて、教会の建物維持、儀式費用、社会保障掛金等をまかなうようにした。
1989年6月4日の準自由選挙による「連帯」労組の勝利の半年前、5月17日に党社会主義体制の下で国会・教会関係法が制定され、その一条項として教会財産返還が定められた。その為に政府代表と教会代表から成る財産委員会が創設され、諸教会への財産返還=再私有化の是非の決定等を実行した。それ以来20余年間、6万6500ヘクタール(約50億ズオチ)の土地が返還され、1憶4350万ズオチの補償がなされた(岩田:2010年までの数値)。
ポーランド社会に財産委員会に関して若干の批判がある。すなわち、公的な国家行政組織でないにもかかわらず、巨額な公的資金を裁量している。その決定に異議申し立ての可能性がない。活動が不透明である。不動産評価が操作されている。代替不動産が過少評価されている。要するに、市民社会的法手続きの外にあると批判するわけだ。
カトリック教会の側は語る。国有化で教会から奪われた財産の31%はいまだ国家の手中にある、と。以上の教会財産再私有化に関する情報は、マチェイ・バルトフスキ/ピョトル・コザジェフスキ著『ポーランド経済の所有返還 1989-2013』(Maciej Bałtowski/Piotr Kozarzewski、Zmiana Własnościowa Polskiej Gospodarki 1989-2013、PWE、Warszawa、2014)の265ページから267ページ。
上記のような社会主義崩壊以後のポーランドにおける第二次大戦前の財産家・有産者による積極的な私的所有回復活動をポーランドの諸文献で読んでいると、我が祖国日本の戦後史をかなり肯定的に思い起こす心情になる。
昭和20年8月、国民学校1年生の私は、埼玉県幸手町(今は幸手市)に疎開していた。
小学校3年生か4年生に現在も住んでいる家、要するに私が生まれた家に戻った。本当にびっくりした。私の家、右隣の一軒、左隣の二軒を除いて、それらの背後はすべて焼け野原であった。前の道路の向こう側は全く焼けていなかった。空襲の火焔は我が家の裏で止まったわけだ。戦前・戦中、右隣に髙月大佐、戦死して二階級特進で中将になった軍人が住んでいた。髙月家が引っ越して行き、N子爵家が入って来た。我が家から小学校へ通う道沿いに一区画をまるごと占める大邸宅があった。N子爵の屋敷であった。そんな子爵家が我が家よりは大きいけれども、二倍弱の小さな家に引っ越して来たのだ。子爵夫妻、兄弟2人と姉妹3人、そして長男の妻の計8人である。我々庶民との違いは、子供達がすべて学習院に通学していたことだ。どうしてそうなったかは、やがて「斜陽」と言う言葉と一緒に分かって来た。
ここに日経文庫版の有沢宏巳監修『昭和経済史 中』(平成6年・1994年、昭和51年・1976年初版)がある。「斜陽」の由来に関する所を引用しよう。64ページ。
――貧富の差縮めた財産税 財産税を考案したのは渋沢敬三蔵相の時代であった。渋沢栄一の孫に当たる渋沢蔵相は、どうしてもこの政策を実行しなくては財政がもたないと考えてこれを推進したのだが、さて御本人も納税の段になると自分の邸宅まで物納するハメにおちいったのである。
最近こわして改築されるといわれている麻布の大蔵省第一公邸は、実はこの時の物納財産であった。明治の末の和洋折衷の邸宅には渋沢栄一以来の伝統がしみついていたのだが、御本人は使用人の住居に引っ越しててんたんたるものであったそうである。
皇室財産も例外としないのがGHQの方針であった。このため全国にあった多くの皇室御料地や御用邸はわずかの例外を残して処分された。その多くは現在では国民のために開放されている。皇室所有の株式や債券も物納、処分された。
財産税は明治以来の貧富の差をちぢめた点で画期的な政策であったといえよう。――
N子爵がもとの大邸宅の返還や補償を求めたという話は全くない。
中央ヨーロッパのポーランドの首都ワルシャワでは「市民プラットホーム」PL政権(親ワレサ)の下で再私有化(不動産の旧所有者子孫達への返還)が急速に実行され、大型公営アパートから賃借居住者が追い出され、中心地にあったギムナジウムも郊外へ移転をせまられ、市内の開放緑地もつぶされた。
旧所有者とその相続人達は、不動産返還ペースがあまりに遅いとし、それによる機会喪失損害をワルシャワ市とポーランド国家は補償せよと要求し、ストラスブールの欧州人権裁判所に提訴した。Case of Koss v. Poland、Application no.5249/99。
「タデウシ・コス対ポーランド」の係争は、欧州人権裁判所によって機会喪失実損の計算の妥当性は認められなかったが、心理的損害は認められて、ワルシャワ市は7千ユーロを再私有化請求者に支払うべしとの命令が出された。2006年6月28日のことであった。原告タデウシ・コスは1936年生まれであった。こうして、再私有化プロセスは、市民ヨーロッパによって公認され、その法的圧力によって加速された。
このような状況において、多くのポーランド中下層常民達は、西欧や日本の市民社会のメディアによって、排外主義的、民族主義的であると性格づけられることの多い(NHKBS1、激動の世界をゆく 終わらないEUクライシス「ヨーロッパ 終わらない危機 ポーランド・カタルーニャ」(再)3月28日放映)「法と正義」PiS政権に頼って行く。
再私有化請求者達の中に伯爵夫人や公爵の肩書を持っている人々が目に止まる。また、「ポーランド貴族(シラフタ)協会」も請求運動団体の一つだ。日本では平成になって、21世紀になって、近衛公爵家や副島伯爵家がそんな運動をするとは全く考えられない。
平成30年3月29日(木)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7521:180330〕
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