「3.21さよなら原発全国集会」の報告と『詩集 わが涙滂々 原発にふるさとを追われて』の紹介
- 2018年 3月 30日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員村尾知恵子
3月21日のさよなら原発全国集会、雪が降ってきた。ボテボテッボテ、風に飛ばされて顔にもあたる。水分を含んでいて泣き顔の様になる。泣いてなんかいられないよ、泣くもんか。東京電力福島第一原発事故から7年、あれだけの途方もない重大事故を起こして国、東電、他の電力会社も原発容認は変わらない。再稼働を認め、原発輸出を推進する。形だけの「復興」をうたい、福島県民には年間20ミリシーベルトまでは安全ということにして、避難を続けるなら支援はしないと無理やり帰還させるようなことをする。小児甲状腺がんはすでに200人近く発症しているが、被爆との 因果関係を認めず検査を縮小しようとさえしている。使用済み核燃料はどこに保管するのか全く計画もない。未来への膨大な負担を押しつけているだけだ。考えるほどに怒りで体は熱くなる。
集会では、原発事故の後、北九州から作業員として派遣されて働いていたところ、白血病を発症してしまった方の話があった。原発がある限り被爆しながらの労働は存在し続けてきた。事故によってもたらされた環境は、さらに過酷な、死と隣り合わせの大量の被爆労働を生んでいるのかと思うと愕然としてしまう。
一方、郡山から宇都宮に自主避難を続けている方の発言もあった。なぜ政府は避難指示を30キロ圏内に限ったのか、線量計で周囲の放射線量を測り、自分で調べ考えれば考えるほど、将来的な危険性が子供たちにふりかかってくるのではないかという不安が募った。周りの人々からは、なぜ逃げるのかといわれ、後ろ指を指されるような思いもしたが、子供は自分たちで守るしかない、もう国や県を信じてはいけないと決断した。被爆などなかった、原発事故はコントロールされていると政府や県は言いたいかのようだが、とんでもない。真実に目をそむけずに、最善の処置を施していくことが子供たちの未来に対する責任だと訴えていた。
実は、私のご近所にも、自主避難してきた小島さんという方がいて、最近お話をうかがう機会があった。第一原発から25キロの葛尾村に住み、反対運動に夫と共にずっと参加してきたので、放射能の危険性も熟知し、そのため隣の町にあった避難先の仮設住宅を出て東京へ避難したのである。しかし、仮設住宅にとどまった弟さんや姪ごさんは、避難区域の村の山中でキノコやタケノコが採れるたびに、おいしいのでたくさん食べてしまい、二人共がんになりすでにあの世の人になってしまったとのこと。もちろん因果関係は証明できないのだが、きっと放射能のためだろうと思っている。もう村はもと通りにならないし、福島県の雰囲気は、なにより復興が大事ともう危険がないようなことばかりで、言いたいこともいえないと嘆いていた。しかし、美しいふるさとを奪われた無念の思いは私たちには計り知れないものがあるだろう。
夫の小島力さんは、反対運動の事務局長として先頭に起ちながら、当時から詩作を続け、運動の中で発表してきた。そして、2013年に「詩集 わが涙滂々 原発にふるさとを追われて」(西田書店)を出版された。ここで、この本から詩をふたつ紹介したい。
最初は、一節が表題となった作品で事故後の悔しさと怒りがあふれ出る。二つ目は30年以上前、一人の被爆労働者の死をテーマに詠まれたものである。
『草茫々』
草茫々
田畑茫々
村一つ荒れ果てて茫々
二年前
玉蜀黍畑を風が渡り
大根の葉先に朝露が鈴生りの
その畑に
ささやかな豊かさに満ちた
その山畑に
草茫々
野道茫々
蔦かずら絡み合って茫々
幾歳月
牛を牽き 耕運機往き来し
何千回何万回の足跡を印した
その道に
暮らしの汗したたり 地にしみた
その畦道に
草茫々
我が家茫々
軒先を埋め尽くして茫々
かつての昔
子たち孫たちの歓声はね返り
バーベキューの焚き火燃え盛った
その庭に
生きて暮らした思い出消えやらぬ
その庭先に
草茫々
ふるさと亡々
わが涙滂々
草茫々
何もかも亡々
悔し涙滂々
『聞き書きの墓碑銘』
根本定男 五十九歳
福島県双葉郡大熊町在住
54年2月26日未明
いわき市 協立病院で死亡
病名「脳髄膜炎」
21年11月 外地から復員した男は
実家から6・5キロ山奥の開拓地に
山林を切り払って単身入植し
翌年 遠縁の娘をめとって住みついた
数年かけて田畑を拓き 家畜を飼った
作物はわずかながら年々収穫を増し
やがて男女二人の子をもうけた
だが追い打ちをかけるように
百姓だけでは食えない時代がきた
出稼ぎの長い年月が続いた
46年6月 田植えが一段落した直後から
地元の土建業・竹谷工務店に雇われ
取り付け道路側溝の
コンクリ仮ワク作りをやった
三ヶ月程で富岡町の坂中工業に移り
以降原発建設の下請け・孫請けを
転々と渡り歩いた
転職のきっかけは賃金不払いだったり
解雇だったり 倒産だったりした
職場が変わるたびに 仕事が変わり
仕事が変わるたびに 賃金が上下した
不安定な日雇い稼業だったが
原発周辺を蟻のように徘徊していれば
どこかで仕事にありつけた
建設の仕事が先細ると定険に回り
管理区域にも絶えず出入りした
B服の時も C服の時もあった
従事者パスNO174866号
根本定男
ランドリー以外の仕事はほとんどやった
だが原発の構造はばかでかく複雑で
作業箇所の名称すら満足に覚えられなかった
52年3月から山脇工事に雇われた
定険毎にハウスボイラーの掃除をやった
空中に濃い粉塵が充満する原子炉で
サンダーをかけ カラーチックを塗った
C服は蒸し暑く全身を脂汗が伝い
無性にイライラした
息苦しい防護マスクに腹を立て
むしり取って床に叩きつけると
浮遊する微細な鉄粉がのどに突き刺さり
駆けつけた放管に頭をこずかれた
その日 午前中吐き気止まらず
後頭部が痛んだ
ポケット線量計は
一一〇ミリレムを示し
入域カードに乱暴な数字で記録された
この頃から次第に咳がひどくなり
真っ黒な痰がでた
翌年9月 山脇工事は倒産し
社長が失踪した
そして三ヶ月毎の定期検診の記録も
会社から会社へタライ廻しされ
本人がついぞ目にすることのなかった
被爆手帳も
同時にこの世から消えてしまった
倒産後四ヶ月 家でブラブラした
咳はますますひどく異常にけだるかった
寝たままふっ切った痰は
サッシの窓に吐きつけられ
黒く点々とこびりついた
ある夜 尿意はあっても放尿できず
夜通し五分置きに便所に立った
翌朝 県立双葉病院で診察を受けた
病名も告げられぬまま大熊精神病院に移され
銚子一本が関の山だった男が
アルコール中毒症で入院させられた
三日後 危篤の知らせで駆けつけた家族は
腹部が異様にふくれ上がり
口からチョコレート色の吐瀉物を
絶え間なく流し続ける男と対面した
即座に救急車で
いわき市 協立病院に運ばれた男は
通常小児以外ほとんどかかることのない
「脳髄膜炎」と診断された
二ヶ月後
男は死亡した
家族や知人たちのおぼろげな記憶の他には
生きてきた痕跡のすべてを
抹消されてしまった男
根本定男 五九歳
今 この男の職歴と放射能被爆を証明し
死に至る疾病との因果関係を証拠だてる
一切の資料はない
註:年号は昭和
(一九八二年作・十月社刊「82原水禁」所載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7524:180330〕
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