社会学者の見たマルクス(連載 第16回)
- 2018年 3月 31日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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マルクスは新鮮な気力を得て、1882年9月ロンドンに戻った。しかし、新たな決定的な不幸が彼の最後の力を砕いた。長女ロンゲ夫人ジェニーの突然の死である。彼女の埋葬から戻ったとき、マルクスは気管支炎を新たに起こしていた。肺の潰瘍がこれに加わった。続いて力が急速に衰えていった。死が訪れたのは1883年3月14日。穏やかな、苦しむことのない死であった。
エンゲルスはマルクスが死んだ次の日の生々しい衝撃の中で、ゾルゲに次のように書き送っている。
医学の技術をもってすれば多分、あと数年は植物的な存在としてマルクスの命を永らえさせることができたであろう。自分で自分のことをどうすることもできない……存在としての生を、である。しかし我らのマルクスには、これは我慢できなかったであろう。目の前に多くの未完の仕事を抱え、そしてそれを完成させようとしながらそれができないという[永遠の飢餓に苦しめられる]タンタロスの如き渇望のなかで生きていくことは、マルクスにとっては、彼を襲った穏やかな死よりも数千倍も苦しいものだったであろう。「死は死者にとって災いなのではない。それは、生き残ったものにとって災いなのだ」。このエピクロスの言葉を、マルクスはよく引いていた。この偉大な天才が廃人となって植物のように生き続けるのを見つめ、彼を医学の名声をさらに高めるために提供し、彼が何度も全力でもって叩きのめしてきた俗物どもの嘲笑にさらす――そんなことには我慢できない。それよりは、彼の夫人が眠る墓に、明後日彼を埋葬するほうが、何千倍もましなのだ。
マルクスの死によって孤独のうちに取り残された友人エンゲルスは、マルクスが死んだ日に、W・リープクネヒト宛にも手紙を書いた。
僕は今日の夕方、彼[マルクス]がベッドで大の字になって横たわり、死後硬直が現れているのをみたが、それでも僕には、この天才がその偉大な思想によって新旧両大陸のプロレタリア運動を前進させるのを中断しなくてはならないなどとは、どうしても考えられない。我々が今日あるのは彼のお陰なのだ。現在の運動があるのは、理論と実践の両面における彼の活動のお陰なのだ。彼がいなかったら、我々は依然として散乱した塵の中に座っていたであろう。
だが、マルクスの活動を起点とするその影響は、当時はまだ広がり始めたばかりであった。ドイツでは社会主義者排除法が重くのしかかっていた。社会主義者が目指しているものは内在的必然性を持っているという考えは、まだどこでも弱かった。とりわけ知識人の世界では、こうした考えは無視されるか、拒絶されるか、という状態であった。
今日では、書籍でも、パンフレットでも、雑誌でも、いや新聞でさえ、それが経済問題や社会問題を取り上げている限りは、それを開けば必ず、マルクスとマルクスの理論が論じられ、評価あるいは非難されている。マルクスの著作は彼の記念碑となった。政治も論文もマルクスのことで満ち溢れている。マルクスが今後さらに、いかに強くそしていかに長く影響を及ぼすかは、予測できない。そのことが民族や人類にとって救いなのか、災いなのかは、別の問題である。しかしマルクスの思想は世界を揺るがすものとなっている。
マルクスは中肉、中背の体格だったが、姿勢がよかったため、少なくとも座っているときは、幾分大きく感じられ、また肩幅は広かった。頭は丸く、髪は剛毛で、髭が顔を取り囲むように生えていた。髭は青年の頃は、黒光りしていたが、早くから白くなり始め、最後には雪のように真っ白くなった。額はきれいなアーチ型をしており、黒い眼が生き生きと輝いていた。鼻は小さかったが、小鼻は広かった。精力的で、聡明で、誠実な、顔つきをしていた。彼の容貌にはユダヤ人的な特徴は現れていなかった。少なくとも立ち居振る舞いに現れたほどではなかった。マルクスは、低い姿勢で、早足で歩きまわることで、気ぜわしい、しばしば少しばかり演技をしているような感じで身振り手振りを交えて話すユダヤ人だということが知られていた。このことがあまりにも目立ったので、彼は典型的なユダヤ人だと(誤って)思われたほどである。
マルクスは飾り気のない男であった。そして飾り気のないことを好んだ。ラッサールや彼と同じ系統の他の同志たちに対する嫌悪感は、おそらくマルクスが自分の出自のことを思い起こすことによって、より一層大きくなったのであろう。
マルクスは真の学者であった。その特徴の多くにおいて真のドイツの学者であった。マルクスは本の中で暮らし、本と共に暮らすことを好んだ。マルクスは壮大なプランを作り、大胆な構想を立て、資料を集め、研究し、書きに書き、消してはまた消した。マルクスは、自分が望んだものを完成させるためには、あまりにも多面的で、多層的な性格の持ち主であった。勿論、生計や健康といった面での、外部からの妨害は厳しいものがあった。しかし、「正しい心は決して殺されることはない」のである。 マルクスは柔軟な性格の持ち主であったが、この性格は、快活さと勇気とを常に取り戻すことを知っていた。それこそが、マルクスがその途方もない活動を行うために必要とするものであった。たとえ、過度の、時として深更に及ぶ労働によって、マルクスが「自分は死ぬことになる」という考えを、いつも繰り返し抱いたとしても、である。
マルクスは哲学者であった。彼はヘーゲルに反対して、唯物論的に――「現実的に」と言うほうがもっといいであろう――考えることを学んだが、青年ヘーゲル派を否定することは決してなかった。自分の最初の研究と結びついている法哲学、社会問題の探求、経済学説の発展史についての果てしのない研究、こうしたことが早い時期からマルクスの思考の幅や奥行きを広いものにしていった。そして、時には時事問題によって、時には新しく出た本や、他方面に亘るエンゲルスからの刺激などによって、マルクスの思考は常に新しい分野を彷徨した。時事問題は、マルクスが生活の糧を得るためにそれについての記事を書かなければならなかったことから、より一層、彼の関心を引くことになった。さらにマルクスにはまったく縁遠かった分野の著作にも彼の関心は向けられた。ダーウィンの『種の起源』である。この本はマルクスの創作力が最も旺盛だった頃に出版された。しかしマルクスはそれを、彼にはほとんど役立たなかった他の多くの文献と一括りにしてしまった。
マルクスの知的活動は多岐にわたっていた。例えば、既に触れたことであるが、ヘーゲルの論理の概略をまとめるという彼の考えは、弁証法の核心を誰にも分かるようにしようとしたことを示している。彼はまた哲学史に関する計画も持っていたし、後年には数学に熱心に取り組み、微分法について独自の理論を作ってみたほどである。したがって、マルクスは何かに集中することが十分にはできなかったことを、残念ながらときとして認めざるを得ない。
しかし、単なる思想家あるいは理論家ではなく、革命的な政治活動家でもあり、またそうなろうとしたことこそは、マルクスの本来の姿であった。資本主義に対して怒り、これを憎悪すること、確固として労働者階級の側に立つこと、これが彼の力の源泉であり、自らの運命を賭ける鍵であった。勿論彼は、思想家としての自分の使命を完遂しよう思っていた。そして、社会主義的思想に対して科学的な深い基盤を持った理論を与えることは、彼の最大の望みであった。
しかし、すぐれた業績にもかかわらず、マルクスの人生には悲劇の印象が残る。それはとりわけ次のことが原因となっている。マルクスは生前において、はやくも英雄に祭り上げられ、絶対的権威者となってしまった。それ故またしばしば無益な問いに対する神託宣下者になった。しかも、彼の答えはどうとも理解できるものであったために、相対立する彼の支持者たちの感情をかき立てることになった。
マルクスは精神と気質において極めて優れた天分を持った人間であった。生来、情熱的で血気にあふれていたが、働き盛りの年齢になると、自分の気分をコントロールするようになった。そして多くの場合、慎重に考えた上で判断を下した。ただ、フランスにおける内乱に関する報告書からは、青年時代の情熱が甦ったことが見て取れる。このことは、パリ・コミューンの恐るべき経験を考えれば容易に説明がつく。
他方で、マルクスの革命的な心情は人間のより良き未来への確信によって崇高化された。マルクスはあらゆる感情的な推論をひどく軽蔑したが、彼自身は労働者の苦しみを深く感じ取り、彼らの状態をよくすることであれば何にでも非常な関心を持った。マルクスの著作にもこの特徴が見て取れる。そしてその著作を通じて、彼は自分の思想と心情を、ドイツの、いやヨーロッパおよび他の大陸の労働者階級の精神の中に深く埋め込んでいったのである。
(連載第16回 終わり)
訳者より
テンニースの著作の第一部はここで終わっている。そして第二部(マルクスの学説の要約と批判)が続いている。当初の予定では、第二部を含めたテンニースの著作の全文を翻訳し、それを分割して掲載するつもりでいた。そのつもりで、第二部「マルクスの学説」も概ね訳し終えている。しかし、この連載を見た関係者より、第一部の連載を終えた時点で、連載を中断し、結果的に未掲載のままとなってしまう第二部(12回分の連載を予定していた)と併せて一冊の本としたらどうかという提案があり、それに従うこととした。結果的に、第二部は「ちきゅう座」には連載できないこととなったが、事情を賢察され、了解していただきたい。
なお、第二部と併せた全文は『社会学者の見たマルクス』(仮題)として、近いうちに社会評論社から出版される予定である。2018年はマルクス生誕200年にあたる年でもある。同書によって、テンニースが紹介したマルクスの人生と学説に触れて見ていただければ、幸いである。
連載開始以来、31週が経過した。決して長い期間ではなかったが、この間根気よく読み続けていただいたことに感謝して、この連載を中断(終了)することとしたい。
2018年3月末日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study956:180331〕
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