戦後平和運動のスター吉田嘉清さん逝く - 運動の発展と統一に尽力 -
- 2018年 4月 4日
- 評論・紹介・意見
- 反核吉田嘉清岩垂 弘平和
戦後平和運動のスターが逝った。平和運動家の吉田嘉清(よしだ・よしきよ)さん。3月21日、東京都杉並区の自宅で心不全で死去、92歳だった。ひたすら原水爆禁止運動の発展とその統一のために力を注いだ一生だった。
1926年に熊本県で生まれた。戦時下の44年、早稲田大学高等師範部に入学、そこから法学部へ進んだ。。
敗戦とともに日本に進駐してきたGHQ(連合国軍総司令部)が矢継ぎ早に日本政府に民主化政策の履行を指令したことから、各分野で民主化が進む。早大でも、学園復興、学生の自主権確立、授業料値上げ反対などを掲げた運動が学生たちによって繰り広げられ、学生自治会の結成も進んだ。そんな中で、吉田さんは早大自治会委員長に選任される。全日本学生自治会総連合(全学連)の創立にもかかわった。
ところが、50年6月に朝鮮戦争が勃発、GHQからの指令で政府がレッドパージ(共産主義者とその同調者の公職または民間企業からの追放)を始めると、早大でもレッドパージ反対闘争が起こる。10月17日、反対闘争を理由とした学生の処分に反対する学生たちが、大学本部で開会中だった学部長会議に乱入、これを阻止しようとした警官隊との衝突で吉田さんら143人が建造物侵入容疑で逮捕された。吉田さんはそのリーダーとされ、退学処分となった。日本学生運動史上、「第1次早大事件」と呼ばれる事件である。
後年、吉田さんは当時のことを振り返り、こう語ったことがある。「あの戦争中、厳しい弾圧にもめげず戦争に反対した学生がいたことを知った。各分野でレッドパージが進行するのを見て、学園だけはそれを許してはならない、日本を再び戦前に回帰させてはいけない、と思った」
私が早大に入学したのは1954年だから、大学構内で吉田さんの姿を見かけることはなかった。が、学生運動指導者としての吉田さんの令名は学内に鳴り響いていた。とりわけ、第1次早大事件で学生たちが大学本部に突入した際、吉田委員長が本部のバルコニーから学生たちに向けて行った演説が名演説であったと学生間で語り継がれていて、「吉田カセイ」は伝説上の人物となっていた。
その時は、そんな伝説上の人物に会う機会があるとは思ってもみなかったが、私は仕事を通じてこの伝説上の人物に出会うことになる。
早大を出た私は全国紙の記者となり、1966年から、社会部記者として「民主団体」担当になった。取材の対象は平和団体、労働組合、学生団体、青年団体、婦人団体、国際友好団体などだった。 当時、平和団体の代表的なものといえば、原水爆禁止関係の3団体であった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、自民・民社・同盟系)であった。取材で原水協を訪ねると、事務局長が吉田さんだった。
原水爆禁止を目指すこれらの団体が出現したきっかけは、1954年に起きたビキニ被災事件である。太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で静岡県のまぐろ漁船・第五福竜丸が放射性降下物の「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死亡した事件だ。
この事件は全世界に衝撃を与え、日本では東京都杉並区で自然発生的に主婦たちによる原水爆禁止署名が始まり、またたく間に全国に波及、署名は3200万筆を超える。こうした国民的な盛り上がりを背景に1955年夏、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、これを機に広範な団体が参加する原水協が結成される。
が、61年、原水協に対抗して自民・民社・同盟系の人たちが核禁会議を結成。さらに、63年には、運動論をめぐる意見の対立から、社会党・総評系が原水協を脱退して原水禁を結成し、原水禁運動は3つの潮流に分かれてしまう。
原水協に残留した吉田さんは事務局長に就任。大会などにおける、その巧みな演説ぶりから「原水協の顔」と言われるようになり、その気さくな人柄から「カセイさん」と呼ばれた。
63年以降の運動では、原水協と原水禁の間で対立抗争が続くが、評論家・吉野源三郎、英文学者・中野好夫らの呼びかけにより77年に協、禁に青年団、婦人団体、生協などの市民団体を加えた運動の統一が実現、世界大会も統一して開くようになる。吉田さんは協、禁、市民の3組織共闘の推進に力を注ぐ。
運動の統一は国民に歓迎され、運動は空前の高揚を迎える。82年にニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会に向けて3組織が共同して展開した「核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名」は8000万筆を超す。そして、3組織は合わせて1200人を超すNGO代表団を軍縮特別総会へ派遣した。
吉田さんは3組織の共闘のために尽力するかたわら、第五福竜丸の保存にも奔走する。
しかし、事態は突如、思わぬ方向に急展開する。原水協に影響力をもつ共産党が、吉田さんを「独断専行があり、そのうえ原水禁・総評に屈服、追随した」と批判、原水協が吉田さんを代表理事から解任したからだ。「組織的統一に応じない原水禁や、安保、自衛隊を容認する社会党、総評と統一行動を行うことは反核運動を変質させるからまかりならん」というわけである。84年のことだ。吉田さんは統一世界大会準備委員会の委員でもあったが、原水協は吉田さんがその準備委員会へ出席することにも反対した。これに対し、吉田さんは共産党の批判にも、原水協による処分にも従わず、「違った立場、考え方があっても、反核平和のためには手を結ぶべきだ」「何よりも大衆が運動の分裂を望まず、統一を求めている」と主張し続けた。共産党は吉田さんを除名する。吉田さんを支持した哲学者の古在由重も共産党から除籍処分となったが、このことは文化人の間に波紋をもたらした。
原水禁と市民団体は共産党と原水協のやり方に反発し、ついに86年に3組織共闘が瓦解し、原水禁運動は再び分裂してしまう。以来、その状態がずっと続いている。
数年前から、脱原発運動や安保法制廃止運動では、原水禁を支える旧総評系労組と原水協を支える全労連系労組の共闘が行われるようになったが、原水禁と原水協には共闘の気配は全くない。
吉田さんは原水協を追われた後、志を同じくする人たちと「草の根平和運動のセンターになりたい」と「平和事務所」を設立し、チェルノブイリ原発事故で被ばくしたエストニア共和国の人たちの救援運動などを続けた。その功績により、2010年、同国政府から赤十字勲章を授与された。
葬儀・告別式は3月26日、近親者とごく少数の運動関係者、友人が参列して行われた。参列者の1人は「彼は奇人だった」ともらした。確かに、定職につくことなく、一生を大衆運動一筋で生きた吉田さんは、普通の市民の目には“奇人”に映ったかもしれない。が、定職につくことがなかった吉田さんが運動一筋に過ごせたのは、陰で吉田さんを支えた人がいたからだろう。妻のヒサ子さんである。
出棺の直前、ヒサ子さんは「桜の開花を見ずに逝きました。しかし、モクレンやスミレの花を見ることができ、静かな臨終でした」とあいさつした。
世界はまた核軍拡に向かいつつある。新たな原水禁運動の高揚が切に望まれるというものだ。「反核平和のためには広範な人々が手を結ばなくては」という吉田さんの訴えに今こそ耳を傾ける時ではないか。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7537:180404〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。