「韓国の広島」陜川(ハプチョン)で在韓の被爆者と
- 2018年 4月 10日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士澤藤統一郎
人類の歴史は、1945年8月6日午前8時15分で、2分される。人類の絶滅という危機を自覚せずに過ごすことができた「前史」と、核によって人類の絶滅という危機の実感とともに過ごさねばならなくなった「後史」とにである。
人類絶滅の危険は瞬間的な核爆発によるものだけではない。核爆発のあとに、長く継続する放射線被害によってももたらされる。地球史の長い長い黎明期は、高放射線環境で生物が生息できる環境ではなかった。ようやく、生物の住める状態にまで自然放射線量が減少したのに、人類は自らの手で、人類の存続を危うくしているのだ。
繰りかえし言われているとおり、核兵器は絶対悪である。核兵器と人類は、共存し得ない。まずは核兵器をなくさなければならない。これが喫緊の課題。そして、核兵器を生み出す戦争をなくさなければならない。さらに、次元の異なる高度放射線被害をもたらす原子力発電も廃絶しなければ、人類の未来はない。
核廃絶運動の最前線に立つ人々が、被爆者である。あの悲劇の瞬間から70余年を経て、悲惨な被爆の実体験者はその数を減らしつつある。実体験を語る活動に参加も難しくなりつつある。我々は、その体験を継承し、その声を伝承しなければならない。
広島・長崎の被爆者は、日本国内だけでなく、韓国にも多くいる。当時、朝鮮は日本領とされていたのだから不思議はないが、朝鮮から渡って広島・長崎に居住していた人の数は、驚くほど多い。そして、戦後帰国した被爆者数も。このことが、あまり認識されていないのではないか。
3月下旬のピース・ツアー参加者の事前学習会で、以下のことを知った。
☆ 1945年8月の被爆直前、日本本土に居住していた朝鮮人数は230万人。うち、広島・長崎の居住者が約10万人だった。
☆ そのうち、約7万人が被爆している。約4万人が死亡、3万人が傷害を負いながらも生存した被爆者となった。被爆者の内2.7万人が韓国に帰国し、約3千人が日本に残った。
☆ 1954年ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆し、その後に原水禁運動が興隆した。1956年には、「 被爆者団体協議会(被団協)」が結成され、今日まで約40回に渡る法改正が行われ、運動はさまざまな被害補償制度をつくってきた。
☆ 被爆者運動は、当然のこととして在日の被爆者も加わり、その成果の適用において、在日朝鮮人被爆者は日本人と同等であった(健康管理手当、被爆者手帳、生活保障手当等)。しかし、韓国に帰国した被害者には、何の補償もなかった。彼らは、働くこともできず、疎外され続けてきた。
☆ 1956年以後、日本人の平和団体、被爆者団体から被爆者への支援カンパや自立的な運動のよびかけがなされ、徐々に韓国でも被爆者団体の運動が始まった。
☆ 韓国の被爆者は、日本政府に対し、日本人被爆者と同等の補償や支援を要求したが、日本政府はほとんど何もしなかった。
☆ 繰り返しの運動の「成果」として、”日本政府は、在韓被爆者のうち、日本に来て治療を受ける人への若干の支援をはじめた。しかし、日本に行く費用もない人が多く、実質的に支援を受けることができないまま亡くなっていく人が多かった。
☆90年代に入って、日本政府は韓国政府に対し、40億円の支援を一括して行った。韓国政府は、そのうち20億円で陜川(ハプチョン)に被爆者支援施設を作り、生活困難な被爆者が入居(約70人)できる施設を作り、残金で韓国全土の生活支援基金にした。なお、陜川(ハプチョン)には広島に住んでいた帰国被爆者が多く、『韓国の広島』と呼ばれていた。古い統計ではあるが、1974年に原爆被害者援護協会の陜川(ハプチョン)支部が行った被爆者実態調査によると、同地域の当時の被爆生存者は3867人であった。
☆2015年、日本政府は世界中の被爆者に日本人被爆者と同等の補償をすることになり、日本政府から直接本人に送金する制度になった。厚労省によると、2015年3月現在、日本外に住んでいる被爆者手帳の所持者は約4300人で、このうち韓国居住者は約2500人(北朝鮮居住者1人)だという。被爆者の9割が亡くなってから、ようやく日本政府は腰をあげたことになる。
3月28日(水)、ピース・ツアーは慶尚南道の陜川(ハプチョン)を訪れた。「韓国の広島」の異名をもつ町。
昨年(2017年)完成した原爆資料館の生々しい展示の見学を終えて、前庭で休んでいたら、体格のよい老人に声をかけられた。「どちらからいらっしゃいましたか」。訛のない、正確な日本語だった。14、5分の話しが弾んだ。というよりは、「私の話を聞いてくれ」という熱意がほとばしる対話だった。
私自身が被爆者ですよ。広島で被爆したときは10歳だった。市内の国民学校に通っていました。
代々ハプチョンで暮らしていましたが、幼いころ父と兄に連れられて広島に渡りました。ハプチョンの近くからは、たくさんの人が広島に行きました。兵役で行った人も、徴用で行った人もいましたが、自分の意思で家族と一緒に広島に渡った人が多かったはずです。
自分の意思と言っても、本当の意思ではないと思いますよ。その頃、この辺の農家はみんな貧しかったんです。兵役や徴兵で若い者が少なくなって、なかなか農業が思うようにはできなくなった。日本に行けば何とか仕事があって食っていけると言われて、出かけた者が多かったんです。
で、日本のどこへ行くか。村の人で、広島に行った人が多かった。知っている人が先に行っているから、その人をたよりにして、なんとなくみんな広島に行きましたね。
広島で日本語も覚えましてね、国民学校に上がったけど、勉強どころではなかった。もう少し、きちんと勉強させてもらえたらよかった、あとあとそう思いましたね。
私は学校で被爆しました。爆心地から2キロと少しのところです。あの体験は忘れられません。でも、私自身は大きな怪我をしなかった。幸い、父と兄がすぐ来てくれて、私を連れて火災を避け西の方向に逃げました。6日の晩は野宿して、7日に己斐(こい)中学校の校庭で炊き出しを受け、手当もしてもらうことができました。そのときは、もう裸足でした。
行き道、道路に死体がごろごろと転がっていたんです。死体を踏まないように、除けて歩くという感じでした。そして、死んでいる人だけでなく、死にそうな人が大勢。幽霊みたいに歩いていました。本当に地獄の風景でしたね。
終戦後、間もなく親に連れられて韓国に帰りました。でも、やっぱり生活は苦しかった。そのあと、また日本に行きました。最初は宮崎、そしてそのあとはやっぱり広島。で、またハプチョンに戻りました。そうこうしているうちに、齢を取った。
いまは、陜川原爆被害者福祉会館に住んでいます。この会館は、日本の被爆者の運動で、日本政府が金を出してつくったものです。情けないのは、韓国の政府が十分な動きをしてくれないこと。
それから、もう一つ。どうしても言っておきたいのは、原発のことですよ。福島の事故には震えあがりました。あんな危険なものは絶対に作ってはいけない。私は被爆者一世ですが、子や孫の将来のために、核兵器も原発も絶対になくして欲しいと思います。
この方のお名前を伺ったところ、キム・ドシギと名乗られた。ゆったりと咲く白いモクレンの花の下でのキムさんのお話しを忘れることはないだろう。
(2018年4月9日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.4.9より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=10180
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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