人間の自然との交渉と科学技術・再考――宮沢賢治への一つの接近――(5)
- 2018年 4月 16日
- スタディルーム
- 千葉大学名誉教授野沢敏治
5 賢治の方向転換――田と畑のなかに入る
1)羅須地人協会――農民が科学と芸術を自分のものにする
賢治は1926年(大正15年)に花巻で羅須地人協会(別称・農民芸術学校)を立ちあげました。彼はそこで自分で農作業をしながら会員に講義をします。彼は従来の学校制度のなかで教師を専門に続けるのでなく、世のなかで農業を営む者のためになりたいと考えたのです。その講義のテーマが前にも出したように「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」でした。その内容は彼が高校で学び、農学校で教えてきたことですが、その一つとして、彼は物質を構成する元素の名や記号、無機物・有機物の化学式を暗記するように求めていました。それから化学基礎、土壌学、植物生理学、肥料学が講義されます。これらは作物を育てるのに最低限必要な知識だとしても、会員には退屈で眠いこともあったでしょうから、賢治はいろいろ工夫をしています。でもこの講義を直接知る資料はあまり残っておらず、自分で作った49枚の絵図や「土壌要務一欄」などが今日目にできるだけです。絵図はどれも親切にできていて、その一つに故郷の花巻地方の地質断面図がありました。それは地質年代的に古い下層から新しい上層に向けて書かれています。高村毅一・宮城一男共編の『宮沢賢治科学の世界――教材絵図の研究』を参考にすると、まず下層の基盤の上に水成岩の地層があり、それらの全体が隆起して陸となる。その陸の低地部が海水に浸食されて水成岩の地層ができるが、その上を火山から噴出された灰が海に沈んで覆う。そこから海水が引いていくと、それら2つの層が段丘となって残る。そこに北上川と豊沢川が作用して新たに河岸段丘ができる。その段丘が現在の北上川沿岸に見られる地形なのです。ここに至るまでなんと2500万年の時間がかかっている。この絵図を使って講義を聴く会員は(講義をする賢治も、そして花巻に住む人たちも皆)この地殻史のごくごく新しい突端にいることが分かったでしょう。
賢治はこの協会の活動をもって農民が農に誇りをもち、楽しむことを夢見たのでした。
この協会ができたのにも背景がありました。明治も末から第1次大戦前後になると、政府も資本も欧米での第2次産業革命の影響を受け、都市での重工業や化学・電気工業を重視するようになります。その分農村の農業は軽視されました。農村が都市と対立し、都市は農村の犠牲に上に立ちます。農村の経済は内部で循環するのでなく、外部との商品交換に組み入れられます。農村は一方で、都市の商人から広告と宣伝によって高い金肥を購入させられ、他方で農産物は都市から安く買われる。前述の柳田国男は農政官僚であった時にその状況を批判し、農村が産業組合を使って販売でも購買でも、そして金融でも自立することを説きました。農村の方では生産資材と生活用品を「自給」する運動や養鶏・養豚・養蚕(賢治の家もやっていました)および冬のひまな時に行なう農産加工の副業が、そして育児や生活の共同化の動きが出ます。これは都市の資本主義に対抗して下から力をつける試みです。今ならそこに第1次×2次×3次=6次産業を見つける人もいるでしょう。賢治は協会の活動をするなかで、『岩手日報』に今日の農村の行きづまりに対して「農村経済」を大学で研究してみたい、同志とともに自己労働の成果の農産物を交換し合いたいと述べました。これは貨幣経済と分業の克服の、限界はありますが、一つの方法となります。でも新聞は協会の活動は物質文明を排して原始の自然経済に戻るかのように誤解して伝えました。それは過去に戻るのでなく、協同組合的な新しい生産・生活共同体づくりであったのです。
この協会の特徴は次のことにもありました。会員が不要となったレコードや本、絵葉書、楽器、農具などを持ちこんで交換しあう。農民服や労働服・帽子を自分たちで制作する。時々幻燈会やクラシックのレコードコンサートも開く(――賢治は農学校時代にはベートーヴェン生誕100年を記念してレコードコンサートを開いていた)。ただ賢治の音楽の聴き方は音そのものでなくロマン的に文学的なイメージをもって聴くものでした。心象風景的な鑑賞なのです。時には素人ながら少人数で合奏することもありました。ここで注意すべきことがあります。賢治は「農民はどんな芸術を持ってゐなければならないか」と問いました。彼はプロの商業化されたものでなく、暮らしと仕事のなかから生まれる芸術を求めており、芸術を都会でのように消費の対象にしたり、中央の文壇や詩壇がやるように理論論争にふけることを嫌います。農民自身が芸術を自給せねばならないのです。彼が詩や童話の中に故郷の方言や言い回しをとりいれたのもその現われでした。
この種の経営・生活・芸術におよぶ自給共同体は他にもあったことは今日知られています。南城振興協働村塾、最上協働村塾、大正デモクラシーや個性重視の思潮のなかでの山本鼎の農民美術運動等(参照、宮澤賢治生誕百年記念特別企画展図録『拡がりゆく賢治宇宙』)。また当時、田中智学は国性文芸会において幻燈や演劇・替え歌を使って日蓮宗の布教をしていましたが、その方法が賢治にも影響を与えたようです。「農民芸術概論」の趣旨もインド人タゴールの「都市と田園」(『改造』1924年7月号への寄稿)や吉江喬松の『近代文明と芸術』(1923年)、室伏高信『文明の没落』(1922年)と共通のものがあったらしい(参照、『拡がりゆく賢治宇宙』)。当時は日本にヨーロッパでの芸術革命が次から次へと押し寄せ、その受容の混沌と未熟のなかで賢治もアヴァンギャルドの未来派などを知っていました。また彼は築地小劇場に何度か通い、舞台空間の構成的で立体的な実験演劇やプロレタリア演劇も見ています。
だが協会の活動は途中で挫折します。1926年4月1日の『岩手日報』に「新しい農村の建設に努力する花巻農学校を辞した宮澤先生」という記事が載りますが、協会は社会主義的なものと見られたのです。実際の内容は社会主義的でなくても、自分の考えをもって集団を作る者は一般には「主義者」や「赤」と見られ怖れられた時でした。自律する個人は権力からも世間からも杭を打たれるのです。翌年2月18日の『岩手日報』によれば、農村文化を起すこの協会が期待される一方で、周りの住民は青2歳どもに何ができるかと見ていたのです。結局、賢治は累を避けるために協会を解散してしまいました。
この種の運動でどうにもならない農村の封建的で階級的な社会構造があったのです。また農村問題は農村のなかで技術の修得や農産物の加工を個々の農民に奨励するだけでは解けません。一国の農工商の間の産業構造をどうするか、他国との分業関係をどうするかも問われねばなりません。それは賢治の課題でなく社会科学の仕事となります。
ここで佐藤隆房『新版宮澤賢治――素顔のわが友――』(1994年)を参考にしつつ、賢治の活動を妨げたものをあげておきます。
⓵ 賢治自身の問題。
彼は体力的にも器用の面でも農作業に向いておらず、とても農民になれる人でなかった。
⓶ 社会の壁。
個々の農民が科学技術をもって生産力をあげても、その成果は地主の利益に
なるという社会の仕組があった。そんななかでは、賢治がいくら善意で人のためになることをしても、農民から素直には受け入れられず、金持のお坊ちゃんがする道楽だとみなされる。彼にはそうみなされる要素は確かにあった。彼は当時では珍しいレタスやパセリなどの西洋野菜や色彩豊かな花々をリヤカーで町に運んで売るのだが、このリヤカー自体が普通の農民で持てるものでなかった。また彼は写真にあるようにゴム長靴を履いて歩くが、それだって農民からうらやまれる物であった。こんな訳で、彼は詩のなかで地主批判をしたり(参照、作品16番「五輪峠」)、自分の親族は農民を搾取している「財閥」だと批判することはあっても、彼が畑で作った白菜は農民から盗まれてしまう(参照、作品第743番「白菜畑」)。都会人は田舎の人間は純朴だというが、それは半面の事実でしかない。彼は意識ある若者と一緒に農民の中に入っていこうとしたのだが、農民から同じ仲間と見られることはなく、階級社会の壁にぶつかってしまうのである(――作品第1008番の1の詩「土も掘るだろう」ににじみ出ている苦い経験)。彼は1932年6月19日付けの母木光宛の手紙のなかで、自分は財閥という社会的被告につながっているので多くの反感といやな目に会う、「財閥に属してさっぱり財でない人くらゐたまらないことは今日ありません」と書いている。寂しいことである。
付言的になるが、賢治は都市での資本と賃労働の間に問題があることを認めている。彼は「農民芸術概論」のなかで本来創造的であるはずの労働が苦痛になるのは資本の支配のもとで人間が犠牲になって労働疎外が起きていると述べるが、それも認識までのことであった。
⓷ 農民の側の弱さ。
賢治の指導によって助かった農民には彼を肥料の神様扱いして頼ってしまい、自分の方から自立的な個体となることは少なかった。それではいつまでたっても堕農・怯農のままになってしまう。また農民のなかには賢治の指導をいい加減に聞いていたから不作を招いたのに、賢治に損害賠償を求める者がいたという(関、前掲『素描』)。賢治の方はというと、思いがけない自然災害にあって収穫が上がらなくても、それを自分の責任にして弁償して廻るのであった。わび酒2升をもって(森、前掲『宮澤賢治』)。
以上の壁を前にして無力を感じても、賢治はなお科学に基づく技術を信じて動いたのですから、脱帽です。
2)肥料設計――「それではいよいよ決めませう」
賢治は1926年には農家への肥料相談を始めていました。彼はそれを翌年1月30日の伊藤清一宛ての手紙のなかで「学校や役所へ挑戦的であります」と謙遜して述べましたが、同年の6月までに肥料設計書を2000枚以上も書いたというのですから、それも無償でとなると、もう驚くしかありません。
その設計書をみると、それは科学農業だけでなくいわゆる有機農業的なものを含んでいることに注意しておきましょう。彼は金肥の化学肥料の他に空気の流通を良くして土を団粒構造にするために有機質肥料を勧めています。彼は化学肥料だけだと土は地力をなくすことを知っていました。また賢治は窒素肥料のやり過ぎを戒めています。品種としては彼は陸羽132号を沢山の肥料を要求するが寒さに強いという理由で勧め、水温の低い田んぼでは苗を丈夫に育ててから3本ほどの株にすることを教えています(――森が安藤新太郎から聞き書きしたもの)。これは粗植であり、高度成長期に有機農業家が田植え機による稚苗密植と化学肥料・農薬漬けを批判して再評価したものです。
賢治は肥料を設計する時の資料として質問票を用意していました。尋ねる内容は田の場所や地形、乾湿の違い、上田中田下田の等級、日照時間・通風の様子から始まって、水もち・水温・紫雲英(れんげ草)の有無、籾を撒く量や苗の品種を、そして昨年度の肥料投与による収穫の程度等でしたが、それらは土地の事情に通じた者でしか聞けない質問でした。日射の様子を知るために、苗代からどの方向に垣根・小屋・林・まばらな木立があるかとか、田のどの方向の距離の所に厚い林・まばらな林・土手または山があるかと尋ねるのです。おや!と思うのは、水に鉱毒(どこのか?)が混じっているかと聞いていることです。最後にどれだけの収穫を望むかを質問していますが、それも農家の事情に寄り添った聞き方でした。安全に8分目の収穫を望むかとか、30年に1度という天災や大変な手落ちさえなければ大丈夫な収穫を望むかというように。質問票は「さあどうもお手数ですが」と断ってから質問をし、以上のようにたくさん尋ねた最後に「それではいよいよきめませう」と書いています。実に丁寧な聞き方であり、隣人に対して情愛深いのです!
3)「炭酸石灰ができました」
賢治は晩年に(――と言っても38歳の短い生涯でしたが)東北砕石工場の技師となります。そこで彼は石灰を製造する技術を指導するとともに販売の促進員になります。これは何も突飛な事でなくその伏線は以前からありました。賢治は高校で関先生から石灰の効用を学んでいました。また将来の職として工業原料となる石材の販売を考えることがありました。加えて農学校時代の修学旅行復命書にあったように、彼は安くて質の良のよい石灰の開発を望んでいました。石灰技師になる下地はあったのです。
石灰の効用については前に述べておきました。問題はどんな石灰をいつ撒いたらよいかです。当時用いられていた石灰はほとんどが消石灰か生石灰であり、それらは作物の成長に速効的でした。それらを作物の生育期の前期に施すと微生物の働きは活発になって腐植質を急激に分解するので、窒素分は過剰に供給されてしまいます。その結果、作物は成熟する前に倒れたり、虚弱な体質になっていもち病にかかりやすくなるのです。そこで石灰は粒状の岩抹にして作物の生育の時期をも考えて散布する必要があります。石灰が酸性土壌を中和させるのに有効であることは知識のある人には知られていましたが、当時の農民にはその知識はありませんでした。また石灰を製造しても不純物を含んだり石灰含量が少なかったりしてその効果が出ないこともあって、石灰に対して誤解が生じていました。賢治は技師になって正しい知識を業者や農民に伝えようとしたのです。
それに石灰は経済的にも有益でした。お金のかかる化学肥料や豆かすに頼らず、石灰を緑肥や堆肥の自給肥料と併用するだけでも、土性の改良はできたからです。
ところで賢治は名刺に「技師」と書きましたが、それには製造技術だけでなく、宣伝と販売事務も含まれていたのです。関先生は賢治からその仕事に就く前に相談を受けましたが、経済取引に暗い賢治を知っていたので、「賢治は変な方に転向して行くのではないかと当時は危ぶみの念さへ持った」と回顧しています(前掲、『素描』)。ところが彼は案外な商売能力を発揮し、ここまでやるかと思うほどにセールスにエネルギーを注いでいるのです。
賢治は工場に対してこんな提案をします―― 一般の購買者は石灰肥料の名を石灰岩抹のままにしておくのでは山に幾らでもある石であって効き目などあるまいと思うだろう。その風評を破るためには「炭酸石灰」(今日の炭カル)と変えれば薬のような感じが出て買おうという気になるだろう。また商標はこのようにしたらよい(とその見本まで提示する)。それに将来は農業も進歩し石灰の需要も増えて競争状態になるだろうから、今のうちに粒子の大きさや形を変えて等級をつけ、安価なものも作っておくとよい。競争も運賃の大小や距離の問題となるだろうから、宣伝はあまり遠い所よりも本県の南部と隣の宮城県および山形県の半分に限定するのが適切だろう。また他の競争を許さない新製品を作る方法を考え、製造権の登録を受けておいたらどうか。その他、余力があれば今後の洋風建築や趣味の進展に合わせて大理石や飾り石の研磨事業も考えておくとよいだろう。
……以上のように賢治の市場活動はそれまでに行なっていた地質調査や協会の運営に対するのと同じく、丁寧で抜かりがないのです。賢治は宣伝パンフレットの作成にも関わり、チラシで「畑作用炭酸石灰ができました」と農民に語りかけます。
しかし、賢治がどんなに石灰が有用だと説き廻っても、受けいれる側に経済的余裕があったか、疑問が生じます。それでも彼は身体に無理をしてでもセールスに打ち込むのですから、なんという人か。
以上のすべてが賢治にとっての人間と自然の物質代謝を媒介する人間労働の内容なのです。
ここまで来て『グスコーブドリの伝記』に入ることができます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study963:180416〕
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