周回遅れの読書報告(その54)剽窃と乱丁
- 2018年 5月 5日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
約一カ月、この駄文の掲載を休止した。身辺の雑事が重なったことが表向きの理由であるが、もう一つには、加齢のせいで、書くための材料の整理がだんだんと困難になっていたことがある。一カ月間、断片的に整理を試みた。本当の「駄文」が随分と見つかった。それを整理し、何とか読むに堪えるものをまとめてみたい。
見失ったと思っていた古い本『ブダペスト物語』が書棚から出て来た。この本の中にあったはずの恐ろしく古い歌を少し前に探していたのだが、本が見つからないのであきらめていた。それがひょっこり出て来た。
五木ひろしが歌っていた(今でも、たまに歌っている)「よこはま・たそがれ」という曲がある。その歌詞と酷似しているアディ・エンドレ(彼はハンガリー人である。したがって、アディが姓でエンドレが名前ということになる)の詩「ひとり海辺で」の一部がこの本に収められている。アディ・エンドレは20世紀初頭のハンガリーの国民的詩人であった。その詩を読むと、著者(栗本)が言うように、やはり「よこはま・たそがれ」は「ひとり海辺で」の剽窃にしか思えない。著者の訳した「ひとり海辺で」は、こう始まっている(104頁)。
海辺、たそがれ、ホテルの小部屋
あの人は行ってしまった。もう会うことはない
あの人は行ってしまった。もう会うことはない
「海辺」を「よこはま」に替えれば、もう「よこはま・たそがれ」にそっくりである。私自身は、若い頃横浜で暮らしたこともあることから、「よこはま・たそがれ」という歌が好きである。しかしその歌詞が、古いハンガリーの抒情詩「ひとり海辺で」にそっくりだということは、この本を読むまで知らなかった。そして、こういう事実を知ると、何となくガッカリする。「原詩:アディ・エンドレ」と一言断っておけば、何の問題もなかったはずだ。なにしろ、彼は1919年には死んでおり、「よこはま・たそがれ」が発表になった1971年には50年以上が既に経過していたのだから。どうしてそんな簡単なことをしなかったのであろうか。
もっとも本書の節回し的人物はアディ・エンドレではなく、ポランニー一家である。著者(栗本)の専門は経済人類学であり、カール・ポランニーを中心においたのはある意味で当然のことであった。カールとマイケルのポランニー兄弟、カールの妻、ドォチンスカ・イローナ、ポランニー家の長姉・ラウラ、こういった人物を中心に著者はブダペストの「物語」を綴っていく。なぜあの時代に、中部ヨーロッパの小さな町であるブダペストにかくも多くの天才(ポランニー兄弟、ルカーチ、ノイマン、バルトーク等)が生まれたのか。だが、それには著者は成功しているとは言い難い。「まだ現存する人々については、あるいは当事者は他界していてもそのことがその次の生存する世代を当事者として関係させてくるとき、たとえ日本語とはいえ活字で報告することはできない」(131頁)という自己規制のせいであろうか。知ってはいても自分で公開することはできない、自分の死後に「遺稿」として残すしかない、ということは確かにある。その頃には事件は「歴史」になってしまっているであろうが、それはそれでやむを得ないような気がする。
今回、この本を「発見」して気になったことがある。「乱丁」、それも奇妙な「乱丁」である。267頁から272頁までは頁番号はキチンと揃っているし、頁番号順に並べられている。しかし、内容がつながらない。268頁と269頁に書かれていることは、270頁と271頁に書かれていることの次に来なければつながらないのである。つまり、内容からは267→270→271→268→269→272という順にならなければならない。その意味での「乱丁」である。私の手許にあるのは、「1982年7月10日」発行の初刷りであるが、2刷り以降は訂正されたのであろうか。また発行から35年が経過した今でも、この奇妙な「乱丁」の本を出版社に送れば、「乱丁」のないものと替えてくれるのだろうか。
栗本慎一郎『ブダペスト物語』(晶文社、1982年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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