晩期帝国主義における負債経済の分析のために――アデア・ターナー『債務さもなくば悪魔』を読む――
- 2018年 5月 13日
- スタディルーム
- ちきゅう座会員ルネサンス研究所関西運営委員榎原均
はじめに
晩期帝国主義という用語をタイトルに使っている。その概念を簡単に与えておこう。それは金融資本を土台とした古典的帝国主義と対比して、負債経済と負債資本を土台とした現代の資本主義の政治的表現として用いることとした。資本主義の終わり論は沢山書かれているが、それらを一括りにして政治的表現を与えるとすれば、晩期帝国主義として特徴づけられよう。そうすることで、負債経済の特徴づけと過渡期経済論に接近することができる。ターナーのこの書を読んでいて、そのような特徴づけの必要性を感じ、まだ熟してはいないがタイトルに採用した。
さて、ターナーは、2008年のリーマン・ショック直前に、英金融サービス機構(SFA)長官に就任し、就任後の最初の月曜日にリーマン・ブラザーズが破綻し、以降その対策に追われて、各金融当局者たちとの協議を重ねたという得難い経験を持っている。この経験を否定的に総括することから、量的金融緩和ではなくてヘリコプターマネーを提案している。この著作で一番優れている部分は、第2部 危険な債務、で開陳されている債務と銀行に対する分析である。ターナーが「危険な債務」と呼ぶのは、貸し付けた貨幣が、借り手の手で資本としては機能していない債務のことであり、事実上負債経済および負債資本と本来の近代的利子生み資本との区別、及びその批判に成功している。しかも日本の金融当局者とも交流があり、日本の事情にも詳しい。
アデア・ターナー『債務さもなくば悪魔』(日経BP社、2016年)の邦訳には、日本語版への序文(2016年9月)がつけられており、次のように述べている。
「本書の英語版を書き終えた2015年の時点で、世界経済が過剰債務に起因する低インフレと低成長の罠にはまっていて、かつタブーとされた大胆な政策を実施しなければ脱却できないことは既にはっきりしていた。この1年でそうした現実はさらに明白になったが、どこよりも明白なのが日本である。
実際、この20年間の日本経済の経験は、常にその後に諸外国で起きる現象の先駆けだったわけだが、正統派の経済学は日本の動向に十分な注意を払わず、明確な政策インプリケーションを引き出そうとして来なかった。」(アデア・ターナー『債務さもなくば悪魔』(日経BP社、2016年、1頁)
私も昨年、日本の90年代の不動産バブルの崩壊が、リーマン・ショック以降の先進国の状態の先駆けであることに気づいたが、ターナーはすでにこのように指摘していた。続けてターナーは述べている。
「1980年代、日本は大規模な民間信用と不動産ブームを経験した。1990年代初めにブームが破裂し、不動産価格が下落に転じると、過剰な債務を抱えた日本企業は債務を減らすべく、設備投資を削った。日銀が金利をほぼゼロに引き下げた後も、この動きは続いた。こうした投資の減少で日本経済は不況に陥った。税収が減少する一方、政府支出は増加し、巨額の財政赤字が膨らんでいった。」(同書、2頁)
日本の1980年代の不動産への投資が「危険な債務」の創造であり、それが資本主義の存続を危うくしている、という見解がここで述べられており、ターナーは「危険な債務」つまり負債経済から資本主義を防衛する途を探求しているのだ。そしてこの日本の「危険な債務」による資本主義の危機が、リーマン・ショック以降、世界に波及したとみている。
「こうした日本のパターンが、2008年以降、先進諸国全般で繰り返されている。全体としてデレバレッジは進んでいない。債務は単に民間部門から公的部門にシフトしただけであり、世界全体の債務残高のGDP比は過去最高の水準にある。金融政策頼みの景気刺激は効果が低下しており、副作用も見られる。」(同書、3頁)
このような問題意識から、「危険な債務」をどのように処理し資本主義をよみがえらせることができるか、というターナーの分析は、金融当局者にしかわからない具体的分析にみちている。資本主義体制の擁護という観点からではあるが、負債経済と負債資本について解明するために挙げられるべき第一級の文献である。
第1章 金融の不安定性の観点からの主流経済学の批判
1.アウトライン
序章および「第一部肥大化した金融」は金融の不安定性の指摘と、それにもとづく主流経済学への批判が展開されている。それを簡単に紹介しよう。
「重要すぎてバンカーに任せておけない」というタイトルをつけた序章では、金融経済の肥大化についての根本的な問題点を次のように指摘している。
「根本的な問題は、現代の金融システムをあるがままに任せておくと、必然的に過剰な債務を発生させることになり、とりわけ新規の設備投資にあてるのではなく、不動産などの既存資産の購入にあてる債務が膨らむ点にある。こうした債務創造こそ、ブームを煽り、金融破綻を招くものである。」(同書、29~30頁)
このように述べた後、ターナーは「危険な債務」に頼らざるを得ない原因、つまり信用依存度を強める三つの根本的要因を摘出している。
「第一の要因は、現代経済において不動産の重要性が増したことである。すべての先進国で、不動産は富の半分以上を占め、富の増分の大半を占めている。・・・第二の要因は、格差の拡大である。・・・格差が拡大していく社会では、経済成長を維持するために信用を拡大し、レバレッジを高めることが必要になるが、いずれ危機に発展する。・・・第三の要因は、長期投資に伴う資本移動や生産的な設備投資とは無関係な経常収支の不均衡である。こうした不均衡の裏側には、持続不可能な債務の蓄積が必ずあるものだ。」(同書、37頁)
この指摘は全く正しい。そしてこのような負債経済のヘゲモニーから脱却するために、ヘリコプターマネーを資本主義を防衛するひとつの解決策として提案しているのだ。
「債務過剰から脱却するには、乱用されることのないよう留意しながらも、財政赤字ファイナンスに対するタブーを打ち破ることも必要である。」(同書、47頁)
私の観点からすれば、日本の不動産バブル崩壊は、負債経済の崩壊であるが、支配階級とその政府は、負債経済を防衛するために、資本主義を弱体化させ、社会を荒廃させてきて、いわば資本主義の破局状態を生みだしてきた。ターナーもこの認識では一致しているが、ただ観点が逆で、弱体化した資本主義をよみがえらせるための方策を考えている。私としては、資本主義の破局の下での階級闘争の展望を解明することが目的であるが、そのためには金融システムや、負債経済および負債資本の正確な把握が必要であり、その限りでターナーに学ぶ必要性がある。
2.主流経済学への批判
新自由主義が1980年前後に英米で政権を掌握して以来、グローバルな金融緩和によって、一国的にも世界的にも、負債経済と負債資本を蓄積させてきた。この事態を推進したのが主流経済学であり、主流経済学は資本主義にとってのトロイの木馬であった。ターナーは主流経済学が「万人のための金融という理想郷」を描いていたとみなし、しかし現実はそうではないことを、「複雑化する金融システム」の解明から反論している。
「家計や企業といった実体経済が金融サービスの活用を増やしただけではない。同じくらい顕著な点として実体経済が消費する金融サービスの各部門で、金融システム自体が活動をどんどん増やし、どんどん複雑化していったことが挙げられる。」(同書、63頁)
いわゆる「金融化」と言われている事態は、実体経済が金融サービスを増やしただけではなく金融機関同士が利鞘を求めて複雑な取引をしており、「金融機関同士の債務などの契約の伸び」が家計債務の伸びを大幅に上回っているのだ。
「世界の大手銀行の多くでは、貸出/預金やデリバティブ(金融派生商品)の形で、大手銀行同士、またはマネー・マーケット・ファンド(MMF)や機関投資家、あるいはヘッジファンドなどの銀行以外の金融機関との取引がバランスシートの過半を占めるようになった。この背景には、トレーディング活動の大幅な増加がある。40年前に比べて、金融機関は、同業者間での金融商品の売買を大幅に増やし、金融トレーディングは、基礎となる実体経済の売買に比べて大幅に増加した。」(同書、64頁)
1900年代に、銀行は控えめな仲介者から大企業と融合した金融資本へと成長し、帝国主義の経済的土台となったが、負債経済が支配する晩期帝国主義において、銀行は金融機関同士の取引で利鞘を稼ぐ寄生的存在となってしまったというわけである。しかし、その寄生性が、技術革新によってなされることで資本主義の発展として幻想郷が描かれていたのだ。
「新たなシステムが、証券化、ストラクチャード・ファイナンス、信用デリバティブのイノベーションの上に構築された。証券化によって、住宅保有者、自動車購入者、学生、企業向けのローンをまとめて合成証券とし、償還期限まで銀行のバランスシートで抱えるのではなく、末端の投資家に販売することが可能になった。これにより、債券主体のファイナンスが政府や大企業から、幅広い借り手に広がった。」(同書、65頁)
「こうしたイノベーションが相俟って、ある国の銀行がオリジネートした信用エクスポージャーを、世界中の末端の投資家に販売できるようになった。」(同書、66頁)
晩期帝国主義を特徴づける負債資本の寄生性が、イノベーションという事態に幻惑されて、資本主義の理想郷として描き出す主流経済学に対してターナーは、二つの知的間違いを対置している。
「第一に、金融市場は他の市場とは違い、レストランや自動車の市場とは違うと認識できなかった。また、市場の自由化を支持する論拠は、経済の他のセクターでは強いが金融の多くの分野でははるかに弱いと認識できていなかった。
第二に、さらに重要な点として、通常の銀行や影の銀行による信用創造、通貨創造、そして債務契約全般、とりわけ特定の種類の債務がマクロ経済に及ぼす重大な影響を認識できなかった。」(同書、77頁)
このような知的間違いによって、本体不安定で非効率的な金融市場が、自由市場になれば完全な資本の社会的配分が可能となるという主流経済学の幻想を支えていたとターナーは見ている。しかし現実は「非効率的な金融市場」が実在しているとしてターナーは次のように述べている。
「じつは、金融には、自由市場での相互作用に委ねた場合、個々の企業はもうかるが、社会にとって有益とはいえない活動を生みだす恐れがある。過剰なファイナンスが行われ、過剰なトレーディンが行われ、市場の完全性が行き過ぎる可能性があるのだ。」(同書、82頁)
主流経済学に対して、このような現実的な批判を加えたターナーは、次に「第二部危険な債務」で問題の本質に迫っている。
第2章 「危険な債務」、負債経済及び負債資本の実態分析
1.負債経済、負債資本の鳥瞰
ターナーは、「第3章 債務、銀行、銀行が創造する通貨」で危険な債務の経済に占める位置を鳥瞰している。まず、債務比率の高まりについて次のように述べている。
「2007年~2008年の金融危機に至るまでの10年間、ほぼすべての先進国で民間信用は速いペースで拡大した。年率では米国が9%、英国が10%、スペインが16%であった。」(同書107頁)
ターナーによれば、民間のレバレッジ(民間信用のGDP比)は大幅に増大した。英国では、1964年の53%から、2007年には180%に。米国でも、1950年の52%から、2007年には170%に。
ではこの債務がこのように増大した理由について、ターナーは、債務契約のメリットとデメリットという二面の考察によって回答を与えている。
メリットは、株式や社債は、企業が発行した債券を投資家が保有するという単純な形態からもたらされる。投資家は短期で回収できる資産を長期に保有できる。
他方、デメリットは、リスクを無視しかねない。新規の信用供給の突然の停止。持続不可能になった時の調整の困難さ。信用の崩壊のスパイラル。資産価値の下落はデフレを招く。
そして、2007~8年の金融恐慌からの教訓として次のように述べている。
「インフレ率が低位に抑えられていたにもかかわらず、過剰な信用創造によって危機が生み出された。その理由は、二つの事実で説明できる。第一に、すべての信用供与は債務契約を生み、それは本章で述べてきた弊害を伴った。第二に、先進国の信用のほとんどは、新たな設備投資にあてられたわけではない。」(同書、120頁)
ここでターナーは、増大した債務のほとんどが、設備投資にあてられたわけではないことに注意を払っている。そしてその具体的な分析は次章でなされている。
2.利子生み資本における負債経済及び負債資本の分別
ターナーは「第4章 不適切な債務が多すぎる」で、まず銀行の役割が変化したことに注目している。
「現代の銀行システムでは、信用のほとんどは、新規設備投資の資金にはあてられない。すでに存在する資産、とりわけ既存の不動産の購入にあてられている。」(同書、122頁)
現在の銀行は、設備投資資金の貸付よりは既存の不動産の購入にあてられているという指摘は重要である。銀行が金融機関同士のトレーディングを主たる業務とするようになってきていることと関連している。ターナーによれば、英国の銀行の信用のカテゴリー分類は、2012年で、住宅抵当貸付:65%、無担保消費者ローン:7%、商業用不動産の開発と投資:14%、企業への非不動産投資:14%、(同書、123頁)だそうだ。
もはやマルクス主義の教科書にある産業資本に貸し付ける銀行とは別の存在へと変貌しているのだ。私はヒルファーディングが定義した、銀行と産業との癒着としての金融資本範疇は今や存在していないと主張してきたが、ターナーも銀行の変貌を認めている。金融資本は存在しないとしても、金融資本という言葉はなかなか捨てきれないようだ。しかし、論文冒頭で述べたように、帝国主義と金融資本、晩期帝国主義と負債資本という対応関係を認めたほうが現状認識に妥当するのではなかろうか。ターナーの場合は資本主義を弱体化させる「危険な債務」という認識ではあるが、負債資本が資本主義にとって有害であることを認めている。
「異なるカテゴリーの信用は、異なる経済的機能を果たし、異なる結果をもたらす。信用は、有益な新規設備投資に活用された場合にのみ、債務を持続可能にする追加的な収益を生む。金融危機以前の主流派の考え方とは違って、信用創造の量と、その使途配分を自由市場の機能に任せておくと、銀行はみずから不適切な類の債務を過剰に生み出すことになる。」(同書、122頁)
債務の分類にあたり、ターナーは、借りた貨幣が借り手の手で資本として機能するかどうかを基準とすべきことについて、気づいている。つまり本来の近代的利子生み資本とは異なる、高利資本の系列に属するものとして「危険な負債」をとらえているのだ。いうまでもなく、高利資本は社会を疲弊させる。ターナーは現在の「危険な債務」に関して、その有害性を指摘している。
「債務比率の上昇は、格差拡大の結果であると同時に原因である。・・・全体のポイントはシンプルだ。有意義な投資ではなく消費を信用で賄うと、そこで生じた債務は後々、持続不可能になる可能性が高い。この事実は、公的債務との関連で、常に意識されてきたことである。成長を促進する投資ではなく消費に回された財政赤字は、持続不可能な公的債務負担を生む可能性が高い。同じことが、民間部門の信用創造にもあてはまるのだ。」(同書、125頁)
資本主義の発展に貢献した本来の近代的利子生み資本に対して、古代から存在する高利資本は、持続可能ではなく、古代バビロニアでは国王が交代するたびに債務帳消をやらざるをえなかったという史実がある。ターナーは現代社会では民間の「危険な債務」が帳消しにされる代わりに、公的債務に付け替えられるという事実を指摘している。これは租税国家の危機に通じる。
ターナーは、2007~8年の恐慌(ヨーロッパから見れば、リーマン・ショックは、2007年のヨーロッパの銀行破綻から始まっている)の特徴を次のように捉えている。
「ハイマン・ミンスキーの定義を使うなら、債務が投資収益で返済される『ヘッジ』システムから、新たな信用供給がなければ既存債務が返済できない『投機的』システムに移行した。」(同書、127頁)
不動産投資の比重の増大は、金融機関相互の取引の増大と結びついているが、その取引は投機である。古代の高利資本とは違って、現在の高利資本は、証券化によって世界中で取引される金融商品に厚化粧され、最先端の金融技術の産物として、経済成長に貢献できるという幻想をばらまいてきたのだ。
しかも情報インフラストラクチャーの発達は、ICT(情報通信技術)関連企業を成長させたが、ICTの特徴としてハードウエアは、ムーアの法則に従って下がり続けるが、ソフトは開発されれば限界費用ゼロで複製できるとターナーは分析している。
「こうした特徴からICT企業は、ごくわずかな設備投資で巨額の富を創出できる。」(同書、133頁)
物的生産をすべて外注しているアップルがその典型である。ここで疑問になるのは、平均利潤の法則はどうなるのかということだ。金融機関や情報産業は資本主義のインフラで平均利潤の法則の外にあり、鉄道や道路、電話、電力、等々もそうだが、ICT企業もインフラストラクチャーの担い手として、平均利潤の法則の外にあることと、後はこの法則は国民国家内部では作用するが自由な資本移動ができない国際的な関係では作用しないということがある。グローバルな展開が、その作用をうけない原因かもしれない。これは今後調べてみなければならないが。
「先進国経済は、情報通信技術への依存を強めると共に、平均的に豊かになっているからこそ、不動産への依存を強めているのである。」(同書、135頁)
ターナーは、豊かになった結果、設備投資は飽和し、余ったマネーが不動産に集中するとみているが、住宅も資産投資が中心で実際に住むわけではないものが15%に上っていると述べている。しかも不動産は次の特長がある。
「供給が簡単に増やせない既存の不動産に対する貸出は、信用供給、信用需要、資産価格の自己増殖サイクルを増幅させる。」(同書、137頁)
不動産の土台である土地は増やせない。従って買いが殺到すれば簡単に値上がりする。ブームは簡単に起こり、そして何かのはずみで地価が下落すれば、バブルとしてはじけてしまう。
「現代経済において、信用および資産価格のサイクルは、金融不安定性の一部ではなく、核心そのものなのである。」(同書、139頁)
不動産を中心に取引されていることに現在の金融の不安定性の核心があるととらえるターナーは、この「危険な債務」についてさらに詳しく分析している。
3.「危険な債務」、負債経済及び負債資本の罠
ターナーは「第5章 過剰債務の罠にはまって」で、負債経済と負債資本の果たす役割について解明している。
「最大の問題は、金融システムの機能不全ではなく、実体経済の深刻な足かせとなっている債務過剰だったからである。」(同書、141頁)
ターナーの視点は、負債経済と負債資本が単に金融システムを不安定にしていることへの批判に止まらない。むしろ過剰な債務が実体経済の足かせになっている点に注目している。1990年代の日本のケースが典型的だとして、それを引き継いだ形での現在の先進国経済について、ターナーは次のように述べている。
「不動産貸出に起因する債務過剰が経済の足かせになることの重要性が先進国全般で高まったことを示している。巨額の住宅抵当貸付の債務が積み上がると、その後の景気の谷は深く、不況は長期化する。」(同書、143頁)
日本のケースでは、銀行を再生するだけでは経済は立て直せないし、債務は消えず、ただ付け替えられたのみだというのだ。
「(日本の場合)債務は消えたわけではない。単に民間部門から公的部門に付け替えられたにすぎない。」(同書、150頁)
ターナーは、リーマン・ショック以降、多くの先進国が同じことになっていることを指摘し、債務残高とGDPとの比(レバレッジ)の次のような表を提示している。(同書、172頁)(表をスキャンできないので、数字で示す。ウインドウズ10は、アップデートの際に周辺機器の接続の異常が発生する)
1960年~1980年までは、銀行の資産の対GDP比は60%―→75%の緩やかな上昇。他の金融部門はトータルで、10%―→50%の上昇。
1980年~2008年のあいだに、銀行以外の金融部門の対GDP比が急速に上昇している。
銀行は、75%―→若干減らしながら80%に戻すカーブ。
他の金融機関は、50%―→175%に異常に上昇し、トータルで銀行の比率を越えている。
銀行以外の金融機関:GSE、ABS発行体、MMMFs、証券ブローカー、政府系機関、金融会社、ファンディング・コーポレーション。これらの機関の内訳は、ピーク時で、それぞれが、50%~60%を占めている。(以上で表の説明おわり)
このように、債務削減は成功していない。なぜかというと、それは量的緩和が次のような問題を抱えているからだ、とターナーは見ている。まず、量的緩和策の副作用について。
「だが、この成功は副作用を伴った。量的緩和策は資産価格の上昇によって景気を刺激するため、必然的に資産格差の拡大を助長するのだ。」(同書、158頁)
この策は、富裕層だけを潤していて格差を拡大した。しかも、「超低金利政策は設備投資よりも既存資産の投機を刺激する可能性が高い。」(同書、159頁)わけだから、結局債務削減にはつながらないというわけである。
「第6章 金融自由化、金融イノベーション、増幅された信用サイクル」ではターナーは、過去30年から40年の金融の肥大化、イノベーションについて分析している。
「外国為替取引が実物取引を大幅に上回り、グロスの資本移動が対外直接投資を大幅に上回った。デリバティブ取引が大幅に増加し、主要銀行のバランスシートは、家計・企業からの預金と家計・企業向け貸出ではなく、他の金融機関からの、あるいは他の金融機関に対する請求権が占めるようになった。」(同書、163頁)
ターナーは、IMFは、こうした金融の変化を金融システムの安定性と考えていたが、しかし、これは間違いだったと切り捨てている。
「先進国が1970年以降、金融依存を強めた結果、全体として効率的になったことを示す証拠は存在せず、成長率も上昇していない。むしろ、金融システムの肥大化とイノベーションが進んだことで、2007年~2008年の危機に発展し、危機後の深刻な不況をもたらした。」(同書、163頁)
つまり金融依存とは、負債経済の拡大と負債資本の過剰な蓄積だったわけであり、技術革新の結果さまざまな取引が生み出されたが、それはみな負債経済における負債資本の蓄積過程だったというわけである。そしてそれがリーマン・ショックで破綻した。この後ターナーはグローバリゼーションと規制緩和の問題点に移っている。
4.金融のグローバリゼーションの問題点
2007~2008年の破綻には、グローバリゼーションと規制の緩和も作用していた。ターナーは、その実情について、まず国際銀行(多国籍銀行)の活動の変化から解明していく。
「金融のバランスシートが国民所得に比べて肥大化した理由の一つは――そして現在、金融システム部門の資産・負債のバランスのさらなる拡大を伴っているのは――主要な国際銀行がグローバルは資本移動とトレーディング活動に広く関与し、国境を越えて他の銀行との結びつきを強めていることにある。
こうした金融拡大は、国内の金融市場の自由化によっていっそう拍車がかかった。」(同書、167頁)
サブプライムローンの証券化によって、その証券がニューヨークの公社債市場で世界中に売りに出されたこと、そして、地価の下落に直面して、それを買い込んでいた、ヨーロッパの金融機関の2007年に始まる破綻となった。そして、最終的にリーマン・ブラザーズの破綻に始まる「100年に一度の恐慌」につながった。他方、国内の金融自由化はどうか。
「変動相場制で国内の信用管理は無用の長物になった。資本が自由に移動できると、信用管理の実効性がなくなるからだ。企業や家計が海外で資金を保有したり、借り入れたりできるのであれば、国内の制約は効かなくなる。だが、国内の自由化は、単に現実に即しているだけでなく、きわめて有益であるとみなされた。」(同書、168頁)
では、この自由化の特徴はどういうものか。ターナーは次の三点をあげている。
「第一に、総量またはセクター別の貸出量に関する規制を撤廃する。貸出の総量もセクター間の配分も、自由な市場の需給要因によって決められるべきだと考えられた。結果として、貸出に占める不動産貸付の割合が一貫して上昇した。
第二に、異なるタイプの金融機関の垣根がなくなっていった。銀行は次第にリテール・バンキング、コーポレート・バンキング、投資銀行業務を一体化し、銀行とノンバンクを一体化できるようになった。
第三に、景気循環をコントロールする唯一の政策手段として、短期金利への依存が強まり、中央銀行の唯一かつ主要な政策目標として、低水準で安定したインフレ率への注目が高まった。自由な市場は経済における債務の最適水準を決定できるという信頼を得ていたので、インフレ率が低水準にとどまっている限り、自由市場の選択によって民間部門のレバレッジが一貫して上昇しても懸念されることはなかった。
実際、金融市場は他の市場と同様に、そして信用は他の商品と同様に扱われるようになり、自由な競争市場において最小のコストで最適量が供給されると考えられるようになった。」(同書、169~170頁)
このように述べた後、ターナーは、自由化がもたらした変化について多面的に分析しているのでその概要を要約しておこう。
自由化による各国の金融危機を考察し、アメリカの住宅専門金融機関のS&Lの危機、北欧の不動産貸付の増大と危機、日本の不動産バブルとその崩壊ついて述べ、さらには、証券化について、仕組み債の開発にふれ、CLO(ローン担保証券)、CDOの問題点について指摘している。
2006年には米国の住宅抵当貸付の60%が売買可能な証券化商品に組み入れられた。(同書、171頁)MMF(マネー・マーケット・ミューチュアル・ファンド)による銀行を仲介しない取引や、デリバティブ取引が増え、デリバティブ取引は2007年には、想定元本の残高が400兆ドルに達している。(同書、173頁)
自由化の結果、銀行業務が変化し、預金を受け入れ貸付をおこない、口座で資金管理をするが、資金の過不足はインターバンク市場でまかうという、この1970年代の機能はやせ細り、トレード業務が拡大した。
「こうした活動の大半は、他の銀行やノンバンク、ヘッジファンド、資産運用会社、保険会社など、他の金融機関との取引が絡んでいた。この結果、銀行のバランスシートは、金融システム内の資産と負債が大半を占めるようになった。」(同書、175頁)
最後に、「第6章 金融自由化、金融イノベーション、増幅された信用サイクル」のまとめとして、証券化による信用供与システムの問題点について次の4点を挙げている。
「第一に、表面的には銀行のバランスシートから落とされた信用リスクの多くは、最終投資家に移転されたわけではなく、当の銀行か他の銀行のトレーディング勘定に残されていた。・・・証券化商品で最も大きな損失を出したのは、長期の機関投資家ではなく、大手商業銀行やブローカー・ディラーの投資銀行だった。
第二に、信用リスクがバランスシートから除去された場合でも、満期変換リスクは取り除かれていたわけではなかった。」(同書、176~7頁)
「第三に、このシステムは、優れた信用分析を行うインセンティブが決定的に欠けていた。・・・債務証券は複数の段階を経て売りさばかれたため、各プレーヤーは自分が証券の売却する際の地合いや価格だけを考えればよかった。」(同書、177頁)
「第四に、デリバティブはリスクをヘッジするだけでなく、大規模にリスクを生むためにも使われた。・・・CDSの場合、賭け金は、『保険をかける対象』に想定される実体経済の信用の何倍にものぼった。」(同書、178頁)
以上のようにまとめたうえで、ターナーは「第7章 投機、格差、不要な信用」で「危険な債務」に対する基本的な構えを次のように設定している。
「より安定的で持続的な成長を達成することは確かに可能だ。だが、そのためには、不要な信用拡大を牽引する三つの根本要因――不動産への投資、格差の拡大、グローバルな経常収支の不均衡――に取り組まなければならない。」(同書、194頁)
このような取り組みとはどのようなものか、を解明していく前提として、ターナーは「第三部 債務、経済発展、資本移動」で次の二つの章を充てている。
「第8章 債務と経済発展――金融抑圧のメリットとデメリット」
「第9章 不適切な資本移動が多すぎる――グローバル、ユーロ圏という幻想」
この二つの章の紹介は省略し、先の基本的な課題を解決するために具体的なプランを提案している「第四部 金融システムを修正する」に移ろう。
第3章 資本主義をどのようにして防衛するか ターナーのプラン
1.ターナーの防衛プランの概要
ターナーの資本主義防衛のプランに移る前に、第7章で述べられていた取り組みの基本的な構えについて、再度示しておこう。
「より安定的で持続的な成長を達成することは確かに可能だ。だが、そのためには、不要な信用拡大を牽引する三つの根本要因――不動産への投資、格差の拡大、グローバルな経常収支の不均衡――に取り組まなければならない。」(同書、194頁)
この取り組みについてターナーは後続する二つの部でプランを提案しているので、まず目次を示しておこう。
第4部 金融システムを修正する
第10章 不安定な金融システムの主犯はバンカーではない
第11章 ファンダメンタルズを修正する。
第12章 銀行廃止、債務汚染に対する課税、株式契約の奨励
第13章 債務の量と構成を管理する
第5部 過剰債務の足かせからの脱却
第14章 マネタリーファイナンスのタブーを破る
第15章 債務さもなくば悪魔――リスクの選択
エピローグ 女王陛下の質問と致命的な思い上がり
これらの章でのプランの提起のうち、第11章、第12章、第14章でそれぞれ述べられているプランが検討に値するので、それらについて批判的に紹介しておこう。
2.ファンダメンタルズに対する二つの修正プラン
ターナーは、「第11章 ファンダメンタルズを修正する」で、対策を金融システムに限定せずに、金融システムの不安定性をもたらす土台そのものの問題点を考察し、対策を論じている。
「金融規制改革や金融政策だけでは、金融および経済の安定性をもたらすことはできない。」(同書、295頁)
このように述べた後、ターナーは金融不安定性の原因を次のようにその土台に求めている。
「先進国における金融不安定性の核心には、無制限に供給できる銀行信用と、供給がきわめて非弾力的な特定の不動産との相互作用がある。意図的に限度を設けなければ、民間銀行や影の銀行は、無限に信用を創造し、購買力を創出できる。だが、人々が所有したい好立地の住宅や建物の供給は限られている。」(同書、296頁)
ここでターナーが土台とみなしているものは、不動産である。不動産は有限であるのに、金融システムにおける信用は無限に拡大するというわけだ。
「つまり、現代経済は否応なく不動産への依存を深めているからこそ、その影響を管理しなくてはならない。」(同書、297頁)
このようにターナーは金融規制だけでなく、不動産の管理を提案している。
「じつは、地価ないし値上がり益に対して課税することには、原理的にもしっかりした根拠がある。地価の値上がり益によって資産が蓄積されるが、経済成長を牽引するイノベーションや設備投資のプロセスとは関係がない。そして都市の地価の上昇は、トマ・ピケティが指摘した資産格差拡大の大きな要因となっている。」(同書、299頁)
このように、不動産の管理について、ターナーは地価の値上がりへの課税を提案している。そしてそれをもとに、金融不安定性のもう一つの土台である格差の拡大に対しては、その是正のための一般的な所得再配分にまで言及している。
「したがって、格差の拡大を相殺し、さらなる拡大を抑止するには、所得と資産の再配分を強める政策が求められるとみられる。具体的な方法としては、税制や財政支出、労働市場への介入などが考えられる。」(同書、303頁)
この後グローバルな不均衡についての叙述が続くが省略する。
3.「銀行の廃止」等の金融システムの改革プラン
ターナーは、「第12章 銀行廃止、債務汚染に対する課税、株式契約の奨励」では金融システムそのものの改革プランを検討している。その概要は次のようなことだ。
「債務契約と銀行は、必然的に金融システムを不安定化する。あるがままに任せておくと、自由な金融システムは過剰な民間信用を創造する。・・・
だが、本質的に不安定なシステムの管理を中央銀行や規制当局に期待するのではなく、構造改革によって問題を解決すべきではないか。この章では、可能性のある三つのアプローチを検討する。第一に銀行の廃止。第二に債務汚染に対する課税。第三に、有用な金融イノベーションを通じた株式契約の奨励である。どれも一挙に問題を解決万能策になるわけではないが、こうした急進的な提案に共通する原理は、現実の政策の指針になるはずである。」(同書、313頁)
「銀行の廃止」というのは、驚くべき表現であるが、内実は、現在銀行に認められている信用創造の廃止のことである。1929年の世界恐慌の時に提案された、100%準備銀行という「シカゴ・プラン」が紹介されている。
ターナーの、第一に銀行の廃止、第二に債務汚染に対する課税、第三に、有用な金融イノベーションを通じた株式契約の奨励、という三つの提案は、いずれも中央銀行任せの現状に対する批判である。これら改革ついてターナー自身もその現実性についてあまり自信を持ってはいない。
4.ヘリコプターマネー
金融システム改革はある意味絵に描いた餅であるが、不動産の管理や、格差是正策はまだ実現可能性があるように思われる。とはいえ、ターナー自身が一番実現可能な政策として考えているのは、「第14章 マネタリーファイナンスのタブーを破る」で提案されているヘリコプターマネーであろう。この提案について、少し長くなるがターナーの述べているところを引用しよう。
「日本は2003年のバーナンキの助言に従わなかった。代わりに、国債発行による財政赤字で民間のデレバレッジを穴埋めした。公的債務のGDP比が一貫して上昇したのは当然の結果である。だが、積み上がった債務の一部を現時点で償却して、バーナンキの助言を受けいれていた場合の状態に達することができるのではないか。
デフレ脱却を目指し、日銀は大規模な量的緩和を実施しており、国債の買い入れ額は2014年末時点でGDPの44%に達する。現在は年間80兆円のペースで買い入れており、財政赤字額、年間50兆円前後の国債発行額を大きく上回る。この結果、日銀以外が保有する国債は減少しており、2017年時点で日銀も(社会保障基金など)政府関連機関も保有しない政府債務のGDP比は65%に低下する見通しだ。
これは、ある種のマネタリーファイネンスにみえる。だが、こうした量的緩和策の目的として謳われているのは、財政赤字の穴埋めではなく、超金融緩和の伝統的な波及メカニズムを通じた景気刺激である。つまり、長期金利がきわめて低い水準に低下し、資産価値が上昇し、円安になる、という経路が想定されている。そして公式見解では、日銀はどこかの時点で保有する国債を市場で売却し、政府は将来の財政黒字からこれらの国債の金利を支払っていくことになっている。したがって、日本の公的債務の公式統計には、日本政府が日銀に対して負う債務が含まれている。日銀は政府が出資する機関なのだが。
この債務は償却することができる。日銀のバランスシートの資産サイドで、この債務を、政府が日銀に永久無利子の債務を負う、という会計記録と置き換えるのである。日銀収入にも政府収入にも直接的な影響はほとんどない。日銀が現在、政府から受け取っている利子は、その後、日銀の株主である政府に配当として戻されるからだ。つまり、ある意味では債務の償却は、公のコミュニケーションを基礎的な経済実態に合わせるに過ぎない、とも言える。そして、こうした現実を明確に伝えていくことによって、現実の公的債務負担が現在公表されている数値よりかなり小さいことが、日本の国民や企業、金融市場にあきらかになり、マインドや名目需要にプラス効果をもたらすと考えられる。」(同書、379~381頁)
もともとヘリコプターマネーの提案者は、アメリカFRBの議長であったバーナンキ―であり、彼は日本の不動産バブル崩壊後の長期デフレへの対策として、日本政府と日銀にヘリコプターマネーを提案していた。ターナーによれば、日本政府は彼の助言に従わず、代わりに量的金融緩和を行ったとみている。そして量的金融緩和は、一見、ヘリコプターマネーを意味するマネタリーファイナンスに見えるが本質はそうではないというのだ。バーナンキの量的緩和批判を紹介しておこう。
「貨幣は、ほかの政府債務とちがい、利子の支払いも満期もない。通貨当局は貨幣をすきなだけ発行することができる。だから、もし本当に物価水準が貨幣の発行と関係なければ、通貨当局は、財や資産を無制限に得るために貨幣をつくってつかえることになる。これはあきらかに均衡しない。そういうわけで、たとい名目利子率の下限がゼロであっても、結局のところ、貨幣の発行は物価水準をひきあげるはずである。」(出典ウィキペディア)
つまり国債は政府の債務であるが、貨幣はそうではないというのだ。
ターナーによればヘリコプターマネーは公的債務を増やさないが、量的緩和をつづけた日本のケースではそれが増大しているという。ここに違いを見るターナーは、しかし日本の現状でも国債政策によって公的債務は減らせると述べている。それが現在松尾匡らのリフレ派によっても主張されている、国債償却方法である。松尾匡らの政策提⾔ 4 「50 兆円硬貨で債務帳消し」は次のように述べている。
「ターナーさんやスティグリッツさんの提案のように、⽇銀保有国債の1 割にあたる40 兆円を、無利⼦ 永久債に転換するというのもいいのですが、硬貨は政府が発⾏することになっていますから、特別法を作って政府が 50 兆円硬貨を1 枚つくり、それを使って50 兆円分の国債を⽇銀から買い取って消滅させてしまうというアイデアも成り⽴ちます。インフレを抑制するための国債売りオぺで、膨⼤な⽇銀保有国債の9 割近くを費やして残りに⼿をつけなければならない事態など100%ありえないことですから、無利⼦永久債であろうが、50 兆円⽟であろうが、現実問題としては何だっていいのですけど、50兆円⽟の場合は、⽇銀の帳簿上、資産価値が下がることが絶対ありませんので、形式的にはきれいです。
これで消滅する分の国債は、本当はもともと延々と借り換えして返済する必要がないものでしたから、こうした措置をとったからといって現実に何も変わるわけではありません。ただ、国の借⾦が50 兆円でも消えたとなれば、福祉充実などのための10 兆円や20 兆円の⽀出増への⼀般公衆の抵抗感は、薄らぐことが期待できます。
そして、インフレの動向を注視しながら、経済成⻑に合わせて同様の措置を漸次進めればいいと思います。」
要するに財政ファイナンス、つまり国債の日銀による直接引き受けは、銀行券を国家紙幣に変質させるので禁止されているのだが、このタブーを破る場合にはハイパーインフレーションが起こらないように注意すればいいという考えなのだ。
5.ヘリコプターマネー論の問題点
まず、ターナーや松尾による、日銀がこの間の量的緩和政策によって市中銀行から買い取った国債の償却策についてだが、何人かの識者がすでに指摘しているように、日銀が買い取った国債は日銀の資産であるが、しかし日銀のバランスシートにはこれに相当する負債が市中銀行の当座預金として積み上がっている。だから日銀と政府との間で、国債償却の取引をした場合に、この日銀に預金されている市中銀行の資産の消失が同時に発生する。つまりこの策は市中銀行資産の消失によって、銀行だけでなく、その他の金融機関の経営危機をもたらすのだ。
また、ターナーはヘリコプターマネーの具体例として、「政府がすべての国民に電信振込の形で商業銀行の預金口座に1000ドル入金する方法」(同書、365頁)をあげている。しかし、たかが10万円とはいえ現在の格差におびえている人々が、この給付金を支出するとは思えない。国債代金を日銀に眠らせている市中銀行同様、振り込んだ貨幣は引き出されないだろう。だからターナーのプランは空振りに終わるであろう。
第4章 負債経済は資本主義の手に負えない
1.ターナーの議論から見えてくること
新自由主義者たちは資本主義の延命をめざしていたが金融市場の自由化というボタンの掛け違いで、負債経済という資本主義の墓堀人を呼び出し、拡大してしまった。フリードマン自身、1960年代には、外国為替市場の自由化による変動相場制への移行は、為替相場を安定させると考えていた。しかしそうはならず、負債経済の拡大の契機を提供し、さらにグローバルな金融の自由化によって、負債経済は根を下ろすことになったのだ。
ターナーはそれを消滅させる方法を考えたが、どれも不十分なものだ。
結論的には資本主義は負債経済を制御できない。長期の破局的な事態が続くことは避けられない。
2.資本主義の破局の意味
以下は覚書である。
1)いったん落ちた後、また回復する金融危機と違って、破局は体制の構造的な欠陥の露呈であり、長く続く。破局は人類の文明の滅亡の可能性をはらみつつも、次世代の体制への移行期でもある。
2)新自由主義は、金融市場の自由化を促進することで、意図しない結果をもたらした。それは負債経済の拡大及び負債資本の蓄積である。これは今や資本主義の政治委員会(各国政府だけでなく、IMF、BIS、世界銀行、ダボス会議、等)によっては制御できず、手に負えないものとなっている。端的に言えば社会を疲弊させる高利資本の台頭である。高利資本は封建社会の解体と資本主義の成長に寄与した。現代の高利資本(負債経済)は、資本主義社会を疲弊させ、次世代のシステムへの移行を準備する歴史的役割を負っている。それは「経済成長」のためには混合経済を作り、拡大させざるを得ない衝動を持つ。
3)資本主義が作り出す混合経済は過渡期経済としての意味をもつ。過去の過渡期経済はロシア革命後に実現されたが、しかしそれは当事者の主観とは裏腹に、結果として資本主義に向けての開発独裁となった。とはいうものの、この過渡期経済が欧米に与えた影響は計り知れず、いわゆる福祉国家体制を出現させた。しかし、ロシア革命70年でソ連が崩壊し、ロシアで過渡期経済から資本主義への移行がなされ、中国は共産党が支配しているとはいえ、経済は資本主義的発展を続けている。
4)欧米の資本主義が負債経済のヘゲモニーによって、混合経済の重みを増していく、このいわば資本主義が作り出す過渡期経済化が起きていることは中国資本主義に作用し、従来の共産党独裁批判の主要内容であった、西側からの政治的民主化の要求の切れ味の摩滅が起きてくるだろう。民主主義的体制は、過渡期経済のシステム足りうるのか、これが検討されるべきである。民主主義と協同との関係について議論が始められるべきである。
5)民主主義は個の自由と独立を基本思想としているが、それは資本主義社会における個々人が、物象的依存関係にもとづく個々人の独立という経済的関係に依拠したものであることによる。これに対して協同思想は他者の足りないところを補う相互扶助だと考えられている。この具体的事例は資本主義以前の社会では、共同体の中に存在していた。しかし、現在の問題は、市場を超えることであり、自己利益だけを考え、社会全体のことは考えなくともうまくいくという、市場の便利さを超えるような形での、協同思想の復活でなければならないだろう。
6)私は1980年代末に、政治権力でもって社会革命を行うというソ連の試みの背理を明らかにし、迂回路線を提起した。迂回路線というと、まわり道を想像させるが、最初に「迂回」といったのは、権力奪取を迂回するという意味だった。資本主義の破局は、この迂回路が正道となれるような混合経済体制を形成していくであろう。商品から貨幣を生成する無意識のうちでの本能的共同行為を不必要とするような交易関係は、賃労働に依存しないもう一つの働き方、市場外流通による脱商品化、新たな形での持続可能な農業生産等、社会のいたるところから生み出されている。新自由主義が作り出す混合経済に社会変革の可能性を持ち込むのは、この迂回路の担い手たちであろう。
とりあえず、妄想はこれくらいにして、これらについて裏付ける議論を開始したい。
なお負債経済については、次を参照されたい。
ちきゅう座掲載拙論「負債経済とは何か」
2018年5月10日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study975:180513〕
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