なぜ35万人以上が死亡、120万人が難民化したのか - BBCの分析「シリア内戦7年間」(1) -
- 2018年 5月 22日
- 評論・紹介・意見
- シリア坂井定雄
七年前の2011年3月、「アラブの春」に励まされ、民主化を求めて大規模なデモが発生したシリア。アサド独裁政権が、軍と治安警察を総動員して過酷に弾圧。それが、シリア内戦の発端となり、軍の一部も反旗を翻して民主化勢力に加わり、内戦が全国に広がった。
それから7年、ロシアとイランそしてレバノンのシーア派武装勢力ヒズボラの支援を得たアサド政権に対して湾岸諸国や欧米の支援を得た反政府武装勢力・クルド人武装勢力、そしてイラク内戦の中で生まれたイスラム過激派「イスラム国(IS)」も加わり、戦闘と殺戮、国民多数の難民化が全土に拡大した。アサド政権は和平交渉による平和解決を事実上拒否し続け、なお内戦は続いているとはいえ、すべての大都市と国土の大半を支配するに至った。
この内戦を、現地取材を含め報道し続けた世界のニュース・メディアの中で、英国に本拠地を置いたシリア人権監視団とも連携した英公共放送BBCが、確かな速報だけでなく、人権を尊重する視点から最も優れていたと思う。
シリア国民の生命と生活、豊富な歴史遺産を破壊し続けた7年間のシリア内戦を、自らの報道の記録から簡潔にまとめた、いわばBBCの中間総括を、すこし日数が経ったが、BBC電子版(英文)から紹介しよう。
なぜシリアでこんな内戦があったのか
7年前にシリアで起こったアサド大統領に対する平和的決起は、全面的な内戦に転化した。内戦は35万人以上の国民を死亡させ、都市を破壊し、他の国々を引き込んだ。
内戦となる前から、シリア国民の多くは、2000年に亡くなった父ハフェズ・アサドの跡を継いだバシャール・アサド大統領の支配下での、高い失業率、腐敗、政治的自由の欠如に強い不満の声をあげていた。
2011年3月、近隣諸国の「アラブの春」によって励まされ、シリア南部の都市ダルアーで民主化要求を掲げるデモが起こった。
この決起の鎮圧に、シリア政府がシリア軍、治安警察を行使したことに対して、アサド大統領の辞職を求める反体制勢力の抗議行動が全国的に起こった。
抗議行動は広がり、アサド政権は弾圧をさらに強化した。反体制勢力は、まずは自分たちを守るため、次には自分たちの地域から治安部隊を追い出すために、武器を手にするようになった。アサド大統領は、「外国が背後にいるテロ勢力」を壊滅すると誓った。
どれほどの国民が死んだか
シリア現地に情報ネットワークを持つ、人権監視グループのシリア人権監視団 (本部英国)は、2018年3月までに35万3900人(うち10万6000人は一般市民)の死亡を記録した。この数字には行方不明で死亡と推定される5万6900人は含まれていない。このほか、記録されていない死者を約10万人いると同グループは推定している。合わせて40万人以上の人々が死亡または行方不明
の推定になる。
なんのための内戦だったか
シリア内戦は「反アサドかアサド支持か」を越えた戦いになった。
それぞれが自らの目的を持つ多くのグループや国家が内戦に介入し、戦況を非常に複雑にし、長引かせた。
それらのグループは、シリアの多数宗派であるスンニ派と大統領が属する少数宗派のアラウィ派の間の憎悪を助長していると非難されてきた。
こうした分裂が双方の残虐行為をもたらし、コミュニティを引き裂き、平和への希望を遠のかせた。
それらが、イスラム聖戦主義グループのイスラム国(IS)とアルカイダ系組織の拡大を許してしまった。
アサド政権の軍と戦わず、自治政府樹立の権利を求めていたシリアのクルド人勢力は、内戦に別な要因を加えた。(続く)
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