南北は標準時で「統一」を実現した
- 2018年 5月 30日
- 評論・紹介・意見
- 北朝鮮小原 紘韓国
韓国通信NO557
5月5日の午前0時、北朝鮮は標準時間を30分早め、韓国に合わせた。これは先月27日、板門店で行われた南北首脳会談を踏まえたもの。分断国家が標準時を共有するまでには苦難の歴史があった。
ソウルの日没は東京などに比べ1時間ほど遅い。したがって夏は夜の8時でも明るく、小さな子どもたちが外で遊んでいるのを見かけた。韓国に留学した時、部屋から外を眺めていて気づいた。
ソウルは東経約127度。東京からは13度ほど西側にあるので、日の出、日の入りとも1時間ほど遅いことになる。
<日本の標準時>
日本は1896年(明治29年)、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線から「中央標準時」を定めた。標準時は、協定世界時(UTC)より9時間前(UTC+9)である。15度=1時間の整数倍の経度を標準時として使う国が大多数だが、15度の2分の1である7.5度、つまり30分を標準時に採用している国もある。しかし端数の煩わしさのためか極少数にとどまる。
朝鮮半島には127度30分の子午線が通っているので、これを標準時とすれば日本の30分遅れのUTC+8.5になる。今回、北朝鮮が時計を30分進めたのは、UTC+8.5からUTC+9を採用している日本と韓国と同じになったということだ。
<日本と韓国・朝鮮の「標準時」ものがたり>
日本人にとっては当たり前の標準時だが、韓国・朝鮮人にとっては当たり前の話ではない。韓国語の発音で「東経」も「東京」もトンギョンである(正確には少し違う発音だが)。そのため日本と同じ135度には心理的な抵抗があるようで、日本に翻弄されてきた民族と標準時の歴史を知ればさらに素直に受け入れられないのはわかる。今でも韓国では標準時をめぐる論議が静かに続いている。
朝鮮時代、「日時計」で首都ソウルの南中を正午としていた。
大韓帝国時代1908年、近代国家として初めて127度30分が標準時に採用された。この標準時は4年後の1912年に日本の標準時に変更。もちろん日本による韓国併合によるものだ。
日本の敗戦によって33年続いた標準時は李承晩政権によって大韓帝国時代の標準時に戻され、1954年3月21日に時間を30分遅らせた。理由は日本植民地統治の残滓の「清算」だった。
この決定に対してアメリカは強く反対した。作戦指揮権が東京のアメリカ極東司令部にあるため、日韓の標準時が異なると作戦運用に支障をきたすという理由だった。アメリカの反対にもかかわらず、李承晩は決定を変えなかった。国民は「太陽の運行に従う合理的な時間に復帰した」「時間の日本からの光復(独立)」を歓迎し、鐘路の普信閣(ポシンカク)の鐘をはじめ、全国の学校、教会、寺で一斉に喜びの鐘を鳴らしたと伝えられている。
朴正煕による軍事クーデター直後の1961年8月10日に7年間使われてきた標準時はまたもや変更され、時間は30分進められた。
変更の表向きの理由として「30分刻みの標準時はありえず、時差換算の便利性」があげられた。しかし、2004年8月に放送されたKBSによって内実が明らかになった。朴正煕一派「国家再建最高会議」がアメリカからクーデターの承認を得るために米軍の要請に応えたものだった。当時のアメリカは極東戦略上、駐日米軍、駐韓米軍、韓国軍が同じ標準時を使うことを重視していた。
その後、今日に至るまで標準時問題、127度30分問題はたびたび議論され、2008年、2013年には国会に法案が提出された。内容は127度30分への「復帰」である。
それに対する政府側の見解は、「韓国独自の時間」を取り戻す意義は認めながらも、30分刻みは国際換算がわずらわしく、また既に述べた国家安保上からも変更できないというものだった。
北朝鮮は建国(1948年)以来、日本と同じUTC+9標準時だったが、2015年8月15日、祖国解放70周年を迎え、「日本帝国主義の残滓」を清算するために時間を30分遅く(UTC+8.5)に変更した。ところが今回の変更でわずか3年足らずで元へ戻した。韓国内の議論をよそに北朝鮮は「タテマエ」を忘れたかのように、あっさり韓国側に譲歩し、30分時計を進めたのは興味深い。
1987年8月に韓国を初めて旅行した時のこと。韓国の銭湯は早朝からやっていると聞き、鐘路YMCA近くの「モギョクタン」(沐浴湯)に仲間と手ぬぐい片手に出かけた。異文化銭湯体験は強烈だったが、夏の朝6時前にもかかわらず外が真っ暗だったのが印象深い。日が暮れるのが遅い分夜明けも遅い。地球の自転によって世界各国が標準時間を決めるのは当然として、自国の標準時が日本やアメリカの都合で変更を余儀なくされてきた韓国の歴史を思わないではいられない。分断も統一もそのことと深く関わっている。韓国の標準時「物語」である。
<5.18光州事件が38年を迎えた>
私たちを忘れないでください!光州を忘れないでください!
絶対に私たちを忘れないでください!
우리를 잊지 말아 주세요. 광주를 잊지 말아 주세요.
우리를 꼭 기억해주세요.
朴正熙が射殺され軍事政権が終わりを告げるかと思っていた矢先、民主化を求める学生・労働者に警察・軍隊が襲いかかった。
中でも1980年に光州で起きた軍と学生市民の攻防は市街戦を思わせる凄惨なものだった。軍側は「金大中内乱陰謀事件」をデッチあげ、反政府勢力の壊滅をはかった。その模様は韓国内では放送されなかったようだが、日本を始め世界各国に伝わり衝撃が走った。次々と送られてくる映像に釘付けになったのを今でも忘れられない。
市民の死者168名、負傷者は4千人を超えた。現在でも行方不明者は400人を超えることからもわかるように、市街戦の模様、軍の責任者、米軍の関与など不明なことが多い。
1997年の民主化宣言以降、1948年の済州島人民4.3抗争とならび真相解明と名誉回復がはかられてきたが全貌は明らかではない。李明博、朴槿恵と続いた大統領が真相解明に消極的だったため国民の怒りを買った。光州を韓国民主主義の「聖地」と考える人たちが毎年5.18の当日、墓地の前で犠牲者を偲び、韓国社会の民主化発展を誓う。今年の5.18でも「君のための行進曲」が高らかに歌われ、「光州を忘れないで」のアピールが採択された。
<韓国映画『タクシー運転手』が全国上映中>
光州事件を世界に伝えたドイツ人記者と、彼を事件の現場まで送り届けたタクシー運転手の実話をベースに描き、韓国で1200万人を動員する大ヒットを記録した。主人公のタクシー運転手を名優ソン・ガンホ、ドイツ人記者ピーター役を「戦場のピアニスト」のトーマス・クレッチマンが演じている。
ドイツの記者が世界で最初に光州の現場に出向き、いち早く撮影し、それが大阪の毎日放送(MBS)に伝えられたことは余り知られていないが有名な話で、それが映画化された。
韓国ではローソクデモがあった2017年に上映され、空前の数の観客が「見た」ということにも興味がそそられる。
俳優ソン・ガンホはハンサムではないが社会派俳優として今や韓国の国民的俳優として押しも 押されぬ存在となった。韓国国民が光州事件をどう見ているか、光州事件を違った視点から知ることのできる必見の映画といえる。
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〔opinion7686:180530〕
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