杉浦克己に見る書評の方法……周回遅れの読書報告(その58)
- 2018年 6月 2日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
先週に続き、古い抜粋ノート(ファイル)の話である。杉浦克己が週刊誌『エコノミスト』(1999年9月21日号)で松尾秀雄の『市場と共同体』の書評をしている。その切り抜きが貼ってあり、次のようなコメントが付されていた。
松尾秀雄『市場と共同体』に対する杉浦の書評は、「既存理論の批判を通じて大胆な未来構想を提起」という見出しがついていたが、この見出しとは裏腹にかなり厳しい内容の評価であった。それでも、杉浦はかなり自制してこの書評を書いたような印象を受ける。かつて私がこの本を読んだ際に受けた苦い思い出がそうさせるのかもしれない。
書評は、評価の対象となる本を、まだ読んだことのない者へ一読を薦めるものであるならば、その本の積極的評価が不可欠であるが、杉浦はそのことを自覚していたのかもしれない。そうであれば、私はこの本の書評を書くことはできない。
だいたい、こんなことが書かれていた。それで「かつて私がこの本を読んだ際に受けた苦い思い出」を書き記したメモ読み返すことにした。「かつて」と言っても、杉浦の書評が掲載される数カ月前のことである。大学の生協の店頭で偶然目にして、タイトルに惹かれて読みだした。「読み始めたから」という理由だけで、最後まで読んでしまったが、読んだ充足感は全くなかった。途中で、何度も、「もう読むのを止めよう」と思ったほどである。
「もう読むのを止めよう」と思った理由はいくつもあるが、今でもすぐに思い出すのは、「母親の授乳は最初の贈与である」という趣旨の松尾の主張である。この本はもう手許にないから、正確な表現や頁を再現することはできないが、この松尾の主張を読んだ時は本当に驚いた。授乳はどう考えても贈与とはいえない。贈与とは、本来なければないで済まされるものだ。誰も贈り物を当てにして、それが貰えることを前提にして、生きているわけではない。しかし乳はそうではない。赤子(乳児)はそれがなければ命が危うくなる。母親は自分の子を守るというある種の本能から、乳を赤子に含ませる。女性に聞くのは憚られるから確認はしてないが、授乳を贈与だと考えている母親がいるとはとても思えない。しかし、松尾はこれを贈与としたうえで、これを人間の共同体の中に贈与が組み込まれていることの根拠だとする。
こういう主張は、どう考えても承服しがたい。男としては、授乳には全く関与することのない父親の存在はどうなるのか、とまず尋ねたいし、様々な事情から母乳を与えることのできない母親は、どうなるのかという疑問が出てくる。私は、赤子は母親が自分で母乳で育てたほうがいいと思うし、子育て中の母親は共同体がその生活を支援すべきだと思うが、それは授乳が贈与だからではない。種の保存のために、共同体の維持のために、そうすべきだと思うからだ。松尾のような「授乳=贈与」という主張をベースにした共同体論に、いったいどういう意味があるのか。ここで松尾の共同体論に立ち入る余裕はないが、「授乳=贈与」論だけで、読む意欲をそがれる。
このあと、「かつて私がこの本を読んだ際に受けた苦い思い出」を巡るメモにはいくつもの松尾の主張に対する疑問が書かれている。それをここで繰り返そうとは思わない。それを見るにつけ、松尾の主張を「既存理論の批判を通じて大胆な未来構想を提起」したものと評価した杉浦の姿勢が思い出される。しかし、その杉浦ももうだいぶ前に世を去った。古い抜粋だけが残っている。
松尾秀雄『市場と共同体』ナカニシヤ出版、1999年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7697:180602〕
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