貧困な日本―「無責任の体系」とは、政権と社会の「脆弱さ」を意味する
- 2018年 6月 5日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員山川哲無責任の体系
先日、ちきゅう座の仲間のNさんに加藤周一が「日本人の世界観は、今とここの刹那的なものでしかない」と述べていたということを教えられた。その時私の頭に浮かんだのは、かつて丸山真男が指摘した、日本社会の「無責任の体系」ということだった。
最近の国会内でのやり取りを聴き、メディアや市民のそれに対する反応(報道や街中でのインタビュー)をみるにつけ、加藤や丸山の言葉が「なるほど」とわが身に突き刺さってくる。
アベ政権と高級官僚、司法界の無責任体質、公共放送の卑屈さこそ最大の国難である
周知のように、最近、国会で元首相秘書官だった柳瀬唯夫(現経済産業審議官)が「加計学園」問題で参考人招致され、追求された。
これまでは「記憶の限りでは会っていない」と言い張っていたその当人が、今回は一転して2015年4月2日に官邸で学園関係者と面会したことを認め、なおかつこの時を含めて過去3回、首相官邸で面会していることも明らかにした。しかもかなり克明な記憶に基づいてである。但し、愛媛県関係者、今治市職員との面会はあやふやなままでの受け答えに終始。中村現愛媛県知事が国会での対決・証言を希望しているにもかかわらず、何故かアベ政権は彼を国会に招致することすら拒んでいる。
官僚は「宮仕え」といわれる。特に高級官僚などは、自分の所属する官庁に仕え、忠勤を励み、無難に受け答えして自分の身を守りとおすことが出世の道である、と少なくとも彼らは固く肝に銘じているに違いない。そのためには政府関係筋(与党の関係官庁の政治家たち)には絶対に逆らえないし、黒を白と言い通す覚悟が求められる。あるいは見て見ぬふりをしてあくまで口を閉ざす忠義が求められる。
彼らが忠誠心を示すのは「殿様」(安倍内閣)に対してであって、決して国民(庶民=納税者)に対してではない。いわば、国民(庶民=納税者)はどうでもよい、彼らの目はそちらへは向いていないのである。
しかも追求された結果、うっかり「ボロ」を出したとしても、責任は自分より下級職の人間になすりつければ、自分は無傷でいくらでも逃れられる。万一にも、うっかりドジを踏んだとしても、権力の走狗になり下がった司法やメディアなどは恐れるに足りず、一時の苦痛(居心地の悪さ)を耐え忍べば、後は万事元通りに丸く収まる仕組みになっているし、そうでもなければ、政治家の推薦で、どこかへ高給で転職すればよい。
卑近な例としては、森友学園問題で「虚偽公文書作成」や「公文書変造」等で取り調べを受けていた佐川宣寿前国税庁長官が大阪地検特捜部で不起訴処分になったこと(司法とのすり合わせ?)、また、財務省の福田淳一事務次官がセクハラ問題で解雇ではなく退職したこと(アソーに言わせれば「犯罪」ではないそうだ)などを思い起こすと良い。
しかも、こういう政治家や官僚の腐敗を暴き、告発すべき役目のはずのメディア(特にテレビ放送)が、一向に報道しようとせず(アリバイ作りの3分間報道のみ)、どこまでも自粛という形のままで曖昧にしている。
モリ・カケ関連文書が次々に出現して来ていること。また、自衛隊海外駐留時の出来事に関連した、憲法9条に抵触すると思われる記録文書(日誌)も次々に発見されていること。それにもかかわらず、日頃「みなさまのNHK」を謳っている公共放送がこれらの重大事件をほとんど通り一遍程度にしか伝えようとしないという事実。何れの眼差しも国民(庶民)の方には全く向いていない。また、誰もその責任を取ろうともしない。「上からの指令だ、いや下が勝手にやったことだ」といった、その場だけの言い訳をすれば済むと思っている。
マックス・ヴェーバーも、どこかで「官僚制の弊害」について深刻な問題提起をしていたように記憶しているが、今問題にすべきなのは「官僚制一般」の弊害ではなく、特殊「日本的」な領域での問題であろう。
日本的な忠誠心ということでよく指摘されるのは、日本の「宮仕え」人は依然として前近代的な「殿様への忠義心」にとりつかれているのではないか、ということである。
だが、正直なところ私にはなかなかそうは思えない。彼らエリート官僚たちが、退庁後の自由時間(飲み会などの場)で、アベやアソーといった「三流の無教養な上司」をやり玉に挙げて、「われわれがいなければ何もできない奴らだ」と散々こきおろしているらしいという噂は何処からともなく伝わってくるし、時に週刊誌などに話題も提供しているからだ。
しかし、そういう連中も、われわれ庶民も、居酒屋で好き勝手に放談はするが、ただそれだけの「から鉄砲」で、反対集会はおろか、国会前のデモにすら参加しようとはしない。ましてや、しかるべき場で自分たちの意見をはっきり主張することなど真っ平というわけである。その結果、責任はいつも他人にある。
こうしてみると、上はアベシンゾーや、かくいう高級官僚から、下はそういう輩を選挙で選ぶわれわれ庶民に至るまで、確かに刹那的な無責任体系が貫徹しているとしか思えない。
官ばかりでなく、民間企業も無責任な不良品製造(検査の手抜き、データの改竄等)を繰り返していた事実が、このところ頻々と暴露されてきていることも付け加えたい。
「無責任の体系」は日本のお家芸か?
1936年(昭和11年)に起こった2.26事件について書かれたものを読むと、このような「無責任体系」は当時の軍隊にも、いや軍隊をも含む日本社会の構造としても、厳然として存在していたように思える。
「皇道派」の重鎮として自分らの利益追求のために、青年将校を焚きつけ、武装蜂起とテロまでさせた上、いざとなるとその責任を回避し、自己保身に汲々とした荒木貞夫、真崎甚三郎らの将軍(陸軍大将)、その部下として双方のメッセンジャーを務めながら、鵺的にたち振る舞う山下奉文(少将)や多くの佐官クラスの幹部達、彼らと分派闘争を繰り返しながら、政権争いに汲々とする反対派の将官たち、ここには、決起将校の安藤輝三大尉(自殺未遂)がいみじくもつぶやいたように「腐りきった軍閥ども」の典型例がある。
「皇道派」も、これに対抗する「統制派」も何れも「同じ穴のむじな」なのである。これら「むじな」連中に体よく踊らされた決起将校は「あわれ」という以外にない。彼ら青年将校には、真の改革の姿(青写真)-従って、何が問題なのかということが全く見えていない。
そしてこれらの人々、また全国民の頂点に君臨する天皇はきちんとした責任の取り方をしてきたのか、と問うならば、決してそうではない。彼は戦前、戦中には、一方で上杉愼吉らの「天皇主権説」(君権学派=神権学派)に乗っかって己の「統帥権」を強固に主張し、自ら軍部や国民への君臨を誇示したかと思うと、敗戦間近から戦後にかけては、あたかも「天皇機関説論者」のごとくに、自己の責任をあっさり投げ捨て、見事に「命乞い」をしてみせる。そのための国民の犠牲(原爆投下被害や沖縄人の犠牲など)は全く眼中にない。一例だが、731部隊を正規の軍隊として承認したのは昭和天皇であったこと(これは国際法違反で、この事だけでも、当然天皇は戦犯として裁かれなければならなかったはずである)。
戦後に至っても、何処も責任の所在は問われないし、誰も責任を取ろうとはしない。
「潔さ」とか「武士道」とかいう一見耳障りの良い言葉は、上のものが目下のものを騙して使うときに用いる常用語でしかない。「葉隠」という言葉に乗せられて、どれほど多くの若者が死地に送られたことか。
元禄の時期に佐賀鍋島藩の山本常朝が書いた「葉隠」が、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と唱えたのは、裏を返せば、当時の武士社会が既に、脆弱な表面的な華美に走り過ぎた結果、無責任な社会構造(いわゆる「元禄文化」)が出現していたことへの自己批判と読むことができる。これを字義どおりに受け取れば悲劇(今では喜劇か?)につながる。
かつて「一億総評論家時代」と言われたことがあった。それと重ね合わさるように「無責任時代」が言われ始めた。今や、「無責任」はこの国の体質と化している。
「無責任」な体質には、1848年のヨーロッパの革命後にロシアで発表された『オブローモフ』という小説の主人公の生き方がだぶる。大貴族の息子で、すべてが人任せ、無為で怠惰な生涯を送り続ける。改革の構想は、ベッドの中での夢うつつの妄想であり、いざ何かをやろうとすれば、気力もわかず、体のあちこちに故障も出るという始末。当時の退廃した貴族社会の現状を描いたゴンチャロフの傑作といわれる。
振り返って、わが日本の現況を眺めてみる。政・官・財・司法そして庶民の無責任・無気力ぶりは「人ごとではない」のではないだろうか。
結論に代えて
否応なしに「日本」に生きるわれわれとしては、こんないい加減な社会を何とかしなければ将来に禍根を残すのでは、と考えざるを得ない。
しかし、自分たちの足元の生活を無視して、いきなり「天下国家」を論じてみても、それでは「書生の論法」で、所詮は「青二才の理想論」と嗤われるのが落ちである。
だが、少し反省してみる。われわれは徹頭徹尾「社会的存在」にすぎず、いくら自分だけは社会から超然(「隔然」)していると息張り、思いこんでみても、無駄だということが判る。
戦争という例が一番判りやすいかと思うが、個人でいくら「関係無い」と叫んでも、思いこんでも、何の意味も持ちえない。その時になって嘆き悲しんでも遅い。
実際には戦争ばかりではなく、ありとあらゆる事態(つい先ごろ原発事故を経験したように)がわれわれに実際に絡みついている(関係している)のである。
だからこそ、われわれとしては、どんな事態が起きているのか、われわれは何を為さねばならないのか、何をなしうるのか、などに気を配り、絶えず一定の緊張感をもって生活する必要があるのではないだろうか。
「一人の自由は全ての人の自由なしには実現され得ない」とはヘーゲルの言葉であるが、このためには、自分たちが世界的な関係の中で生きているということにもっと注意を払うべきだろうと思う。
そしてそのために今特に願うのは、できる限り正確な情報を得ることの大切さである。異なった意見や報道内容への「検閲」(「検閲」が憲法違反であることは言うまでもない)は決して許してはならない。
報道機関への権力の介入に反対し、出来るだけ公平な報道を求めて行くこと、そしてそれらを素材にして自分の頭で考えること、そうすればいくつもの異なった考え方や、異なった「事実」、矛盾が見えて来るだろう。そこから推論を出発させることで、自分たちの置かれている社会の茫漠とした関係の筋道が、よりはっきりしてくるのではないだろうか。
このような理論理性が、実践(理性)の契機となる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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