「金子勝のセーフティネット論」──周回遅れの読書報告(その59)
- 2018年 6月 10日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
古い抜粋ノート(ファイル)の話を続ける。この抜粋ノートを見ると、自分も若い頃はまじめに抜粋を作っていたものだと思ってしまう。金子勝が書いた『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書)という薄い本の抜粋を、実にB5版のリーズ・リーフを9枚も使って書いている。細かい内容を紹介することは意味がない。なかにはなんでこんなコメントを書いたのだろうかと首を捻るものもある。
例えば、セーフティーネットは「張る」ものか、「埋め込まれている」ものか、を検討したコメントがある。この両者には違いがあるといえば、たしかにある。前者ならばあとからでも張ることができる。後者ならば、それは最初から本体(市場経済)に付属しているものだ。しかし、それが長々とコメントをするほどの違いなのか、と今になっては思わざるをえない。
抜粋ノートは作ったときには、意味があったのだろうが、それが長い間読まれることなく、放っておかれると(死蔵されると)、無意味なものとなるということであろう。当の金子本人ももう「セーフティーネット」などは考えてもいないかもしれないのである。そういえば、最近は金子の著作にほとんど接していない。しかし金子はまだ現役の大学の教員のはずである(『セーフティーネットの政治経済学』を書いたころは法政の、そして今は慶応の)。だから、金子が何もやっていないというわけではなく、単に私の関心が金子の「セーフティネット」論から遠ざかっただけのことであろう。 そう考えると、「周回遅れ」と称して、大昔の本(金子のこの本もそうだ)を紹介することは、自分の興味が薄れている場合は、なにも意味がないように思えてならない。もちろんこの問題(「セーフティーネット」論)に興味を失っていいのかということは別の問題である。
ともかく、せっかく紐解いた古い抜粋ノートである。一つだけでも再検討しておきたい。金子が市場経済とセーフティネットは相互補完的なものだと言っているのに対して、当時の私は、当時並行して読んでいた、E. Helleiner, ”State and reemergence of global finance”をも引き合いに出して、「市場経済とセーフティネットを相互補完的なものだとすることは、性悪女を女房にしたうえで、その女房が悪さをするのを何とか抑え込もうとするようなものだ」とコメントしている。このコメントは、「セーフティーネットは『張る』ものか、『埋め込まれている』ものか」といういささか衒学的なコメントとは違って、それなりの意味があるような気がする。
「性悪女」とするだけでは、今の状況では問題があるであろうから、これに「性悪男」も付加すべきであろう。ただ、市場経済にセーフティネットを張るのは、そいつらと一緒になっておきながら「悪さをするのを何とか抑え込もうとするようなものだ」と今でも思う。こんな「性悪女」「性悪男」とはサッサと離婚すべきなのだ。離婚とはこの場合は、市場経済を離脱することである。それを資本主義のほうはそのままにしておいて、資本主義の穴ふさぎをすればいいというのは、理解し難い。その限りでは、セーフティネットには、本来限界がある(「限界が埋め込まれている」というべきか)。
あるいは、セーフティネット論にこのような限界を感じて、私はその後この手の議論に関心をなくしたのかも知れない。そうだとしたら、なんでこんな大量の抜粋を作ったのであろうか。いよいよもって理解に苦しむ。長い間開くことのなかった「抜粋ノート」を自分が苦労して作ったという理由だけで後生大事に抱え込むのは無意味だということだけは確かなようだ。
金子勝『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書、1999年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7713:1806010〕
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