「学習指導要領」の暴走を止めよう! (3) 「前文」を付された、「総則」の抜本改定は何を意味するのか? ―「中学校学習指導要領」(2017年3月告示)の批判的検討② ―
- 2018年 6月 16日
- 評論・紹介・意見
- 青木茂雄
2018年3月に、前年の小中学校に続いて高等学校の新学習指導要領が改定公示された。教育基本法改悪以後、2度目の学習指導要領改定で、明らかに改悪である。詳細についての批判的検討と、対応策の提起が必要であるが、まずは昨年(2017年3月)に公示された「中学校学習指導要領」の主として総則部分に対する批判的検討を行う。「総則」部分については中学校と高等学校とでは趣旨はほぼ同一である。
今回は、その2回目である。
《1》概観
《2》学習指導要領2017、2018年改定の意味と位置付け
(1)2008年、2009年学習指導要領の到達点 (以上、前回)
《2》学習指導要領2017、2018年改定の意味と位置付け
(2)2017、2018年改定の要諦
以上述べたことは2008、9年学習指導要領改定の、安倍教育再生としての言わば「到達点」である。今回の改定は、その路線をさらに徹底化したことにある。前回に述べたように要諦は次の3つである。
第1に、「総則」を抜本改定したことである。「総則」は学習指導要領全体の言わば「要」の位置にあり、行政文書としての学習指導要領の法的位置を示すものである。それは、学校教育法33条(小学)48条(中学)52条(高校)等の及び同法施行規則の委任を受けた、学校の編成する教育課程の編成基準である。冒頭の「各学校においては、…この章以下に示すところに従い、…適切な教育課程を編成するものとし」と明記されているところである。
しかし、今回の改定では「編成するものとする」という表記こそ変わっていないが、各学校の編成権を殆ど空文化し、各学校を教育課程の実施機関として純化し、さらに教育の方法にまで立ち入っていることが決定的に大きい。
さらに「前文」を付して、この中で「教育課程の実現」と言う新たな言葉まで使っている。法的拘束性という従来の行政解釈を変えないままに、教育課程の編成基準から「目標実現達成」点検の基準へと変えられようとしている。
第2に、「達成目標」の中で大きな要素を占めているのが前にも触れた《「資質・能力」の育成・獲得》という概念である。これは、教科・総合学習・特別活動のすべてに貫かれている。例えば、特別活動では、「集団や自己の生活上の課題を解決することを通して、次の通りの資質・能力を育成することを目指す。」とある。生徒の自主的な活動を主体に行われる特別活動においてさえ、「資質・能力の育成」という評価の視点から行われることになっている。
第3に、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに云々」という〈愛国心条項〉が教科の「目標」の中に挿入された。この〈愛国心条項〉は2008年学習指導要領では、「総則」と「道徳」の「内容」に記載されていただけであったが、今改定では社会科という教科の「目標」の③に「…多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される我が国の国土や歴史に対する愛情、国民主権を担う公民として、自国を愛し、その平和と繁栄を図ることや…」との文言で入った。この文言は、教科書検定及びその採択に際してで猛威を振るうのことが憂慮される。
〈愛国心条項〉は現行の「総則」「道徳」に記載から、「前文」「総則」「社会」「道徳」へと記載箇所が倍増するだけでなく、「社会」「道徳」においては「育成し」「目標達成」される「資質・能力」の一部となった。このことの意味はきわめて大きい。
《3》2017年改定の〈要〉としての「総則」改定
(1)「前文」の付加の意味
① 以下、2017年改定の内容を具体的に検討していくが、見て驚くことは、学習指導要領全体の「前文」があるということである。「前文」を付加することによってあたかも独立した法規文書の体裁をとっていることである。このことの意味は何なのか。
② 「前文」ではまず、教育基本法1条(教育の目的)2条(教育の目標)について記し、学習指導要領が直接に教育基本法を承けるという形式をとっている。2条の「教育の目標」の5項目をそっくりそのまま「前文」に掲載することによって、教育の内容と直結させる、という意図が見てとれる。従来の、法の委任(学校教育法とその施行規則)を受けた行政文書という性格を一変させようとしているのではないかと考えられる。
③ 「前文」でもう一つ重要なのは、「教育課程の実現」という概念を提起したことである。言い方としては「社会に開かれた教育課程の実現」となっているが、重要な点は、従来の「教育課程の編成の基準」としての性格に加えて、その「実現」つまり「目標の達成」状況の評価・点検の基準を新たに付加しようとしているのがわかる。「前文」の中には次のようにある。
「それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要になる。」
つまり、「どのように学び、どのような資質・能力を身に付けられ」たのか、評価・点検することの基準となるのが学習指導要領である、と言っている。これは大きな変化である。
(2)「総則」の項目建ての変更の意味と新たな内容
「総則」の検討に移る。「総則」は、分量が現行のほぼ倍近くになっている。
① 現行の「総則」の項目建ては次のようになっている。
第1 教育課程編成の一般的方針
第2 内容の取扱いに関する共通的事項
第3 授業時数等の取扱い
第4 指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項
② 改定後の項目建ては 第1 中学校教育の基本と教育課程の役割
第2 教育課程の編成
第3 教育課程の実施と学習評価
第4 生徒の発達と支援
第5 学校運営上の留意事項
第6 道徳教育に関する配慮事項
1、3、4、6が新たな項目である。
③ 「第1 中学校教育の基本と教育課程の役割」では、項目建ての「1」で、現行の「各学校においては…編成するものとし、…目標を達成するように教育を行うものとする。」がそのままですが、項目「2」~「4」であらたな事項を付け加えている。つまり「教育課程の役割」である。
「2」では、「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」と教育の方法についてまで言及し、「生徒に生きる力を育むことを目指すものと」している。その際に実現されるべきことは、①基礎的・基本的な知識及び技能」の習得、②道徳教育等を通しての「豊かな心や創造性の涵養」、この中には〈愛国心条項〉もしっかりと入っている。③健康・スポーツなどの体育、の3点が柱になっている。教育の方法や生徒の内心に踏み込んでいることは見過ごされてはならない。
「3」では、どのような「資質・能力」の育成を目指すのかということを明確にしながら、「4」では「カリキュラム・マネジメント」として、教育課程の編成と実現を各学校で行えとしている。
まとめて言えば、学習指導要領が求めている「教育課程の役割」とは、道徳教育を中軸とした教育内容や方法の統合であり、その「実現」である。
④「第2 教育課程の編成」はどちらかというと現行の内容を踏襲していて事務的な内容であるが、ここでも①各学校の教育目標の地域との共有、②「教科横断的な視点に立った資質・能力の育成」などをあげている。
⑤ 新しく付け加えられたのは「第3 教育課程の実施と学習評価」。この中の項目「1」で、「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」を謳っている。たしかに、ここでは中教審答申の中に記載されていた「アクティブ・ラーニング」のような具体的な指導方法についての明言は避けており表現も穏当なものになっている。
しかし、「各教科等の指導に当たっては、次の事項に配慮するものとする。」とある。この「ものとする」規定は、国旗国歌法の施行以降社会問題とまでなった、学校儀式における「日の丸・君が代」強制の根拠となったものである。「特別活動」の章に記載された「国旗・国歌条項」の表記は「ものとする」規定である。「ものとする」には例外を許さないという言外の意味があり、今後、具体的な教育の方法までも必要があれば行政が監察するという解釈の余地をも残している。いずれにしても、教育の「方法」についてまで行政文書が踏み込んだことは、今回の学習指導要領改定の大きな特徴であり問題点である。
「2」の「学習評価の充実」も同様です。「学習評価」とはそもそもが教育の内的事項である。行政がいちいち指図することではない。そういう観点からこれまで、学習評価の方法に関しては、 学習指導要領等の国の行政文書は敢えて言及してこなかった。公式には「指導要録」の記載項目として地教委が指導しているにすぎない。今回、学習評価の方法を学習指導要領に記載したことの意味は極めて大きいものがある。そのきっかけになったのが「特別の教科道徳」の導入です。その意味からも道徳の教科化には大きな問題点がありまる。今回、学習評価の目的に「資質・能力の育成」とあることは、学習評価の今後の展開のキイ・ポイントになるものと考えられる。
⑥「第4 生徒の発達と支援」について。「生徒指導」については、従来は「特別活動」等の中で断片的に触れられているのみだったが、今回「生徒指導」を体系的に包含したとことは、ある意味画期的である。生徒指導については従来は『生徒指導提要』(2010年)があるのみである。今後、この項目がどうなるかが注目されるが、私は、生徒指導の方法を国の行政文書である学習指導要領に入れることには原則反対である。なぜなら生徒指導は学校の特色や教師集団や個々の教師の経験と熟練に負うところが大きく、狭義の教育課程の埒外におかれるべきものであると考えるからである。
⑦ 最後に「第6 道徳教育に関する配慮事項」についてであるが、これは現行の「道徳の時間」記載の中の留意事項の一部をそのまま取ったものである。つまり、その一部、例えば「全体計画」や「道徳教育推進教師」などの内容を「道徳の時間」から格上げして、全教科いや全教育活動へと及ぼすである。まさに、「特別の教科 道徳」である。
これは戦前の「首位教科 修身」に限りなく近い扱いと言える。
《4》まとめ、新学習指導要領の教育法学的検討
(1)新学習指導要領「前文」の「教育課程の基準を大綱的に定めるもの」云々について
新学習指導要領「前文」には3段落目に「教育課程の基準を大綱的に定めるもの」云々の文言があり、これは一見すると、従来の通説的な了解事項である“学習指導要領大綱的基準説”に依拠し、それを継承するように見える。しかし、従来の「大綱的基準」は教育課程の編成についての基準である。これに対し、新学習指導要領で述べられているのは、主として教育課程の実現についである。従って、ここでの大綱的基準は「教育課程の実現」のための大綱的基準である。すにわち、「教育課程の実現」つまり教育課程の実施の点検基準としての「大綱的基準」である。
1976年の旭川学テ最高裁判決が対象とした学習指導要領は教育課程の編成基準としての学習指導要領である。従って、この判決で言及されている「教育の内容及び方法」は教育課程の編成基準としての「内容及び方法」であって、教育課程の実施としての「内容及び方法」ではない。
また、同判決は「教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制する」ことを厳しく戒めている。しかし、新学習指導要領は、《愛国心条項》を教科の中に導入したことから推察されるように、「教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込む」ことを強制するような内容になっており、指導文書によれば、国際的・国内的な争点になっている事柄に関してさえ、政府見解を無批判に、つまり「一方的に」教え込むことを事実上強制している。このような点から見て、大変に問題のある学習指導要領改定であると言わなければならない。
(2)教育課程の編成主体としての学校の空文化
以上のことから、新学習指導要領により実現されようとしているのは、学校が編成する教育課程の基準としての学習指導要領としての性格の根本的改変であり、「教育課程の編成主体」としての学校の空文化である。そして、無内容な「カリキュラム・マネジメント」という語が一人歩きし、「教育課程」の実施と点検が教育行政の主眼となり、「主体的で深い学びのための授業改善」を名目として教育内容・方法への一層の介入が懸念される。
(3)「法的拘束力」はどこまで
「前文」が置かれたために、上位の法規との関係が不明確となる。中学校学習指導要領は直接的には学校教育法施行規則74条を承けた、施行規則の付属の行政文書である。これまでの学習指導要領は文書の構成上もそのようになっている。
例えば、行政解釈の典型例として鈴木勲編著『逐条学校教育法』では、法律としての学校教育法33条・学校教育法施行規則52条(当時)と学習指導要領の「総則」及び第2章以下の「教科等」は相互に重複するところがあってはならない、としており、また学習指導要領においても「総則」では教科等の「目標」・「内容」や「取り扱い」と重複してはならないのが原則、としている。(『逐条学校教育法』P.148)このように行政文書としての一貫した体裁が裁判における法的適合性の解釈の前提になっている。
しかるに、今回の改定では、学習指導要領全体として、同一ないし類似文言の執拗な反復が際立っている。「法規」としての性格というよりはむしろ過剰とも言える「指導手引き」となっている。
従来の「法的拘束力」の行政解釈を全面採用すれば、教育の方法、すなわち日常的な教育実践すべてに対する、点検と介入が起こり現場は混乱の極地へ達する。
むしろ、従来の「法的拘束」の行政解釈の維持が今回の改定によって困難になっている、とも言える。
参考メモ
《1》学習指導要領について
(1)学習指導要領とは何か
① 各学校が行う教育課程の編成の基準
明文規定―「総則」の冒頭
「各学校においては、教育基本法、学校教育法および同法施行規則、中学校学習指導要領、教育委員会規則等に示すところに従い、地域や学校の実態を考慮して、生徒の発達段階や経験に即応して、適切な教育課程を編成するものとする。」(中学校学習指導要領1958年3月、小学校も同様)その後、この文言はほぼ変わらず。
「各学校においては、法令及びこの章以下に示すところに従い、生徒の人間としての調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態、課程や学科の特色、生徒の心身の発達段階及び特性等を十分に考慮して、適切な教育課程を編成するものとする。」(高等学校学習指導要領1999年3月)
※ 学校の教育課程の編成権について明文規定した唯一の箇所
② 教育課程の編成権については教育法学の重要なテーマであり、兼子仁の『新版教育法』では「校長・教頭を含む職員会議に実質的に(編成権が)存するものと解される」(P.440)としている。しかし、兼子は学習指導要領の総則の冒頭については言及していない。
③「教育課程の編成の責任と権限は学校の校長にある。教育課程は学校のものであり、学校の責任者は校長であるからである。しかし、この教育課程の編成の責任と権限が校長にあるということは、最終的な責任と権限が校長にあるということであって、現実に校長が学校の教育課程の編成作業のすべてを行うということではない。教育課程は校長の指導のもとに、教頭あるいは教務主任、学年主任等を中心にして、教育課程をになう各教員が自ら研究し創意と工夫をもって当たり、全校の教員の協力によって作成されるべきであり、そして、このような過程を経て、最終的に校長が校長の名において教育課程を決定することである。」
(『逐条学校教育法』鈴木勲編著 P.156)
※ 行政側の解釈も結果的に大差のないものとなり、これまで教育課程の編成権についての大きく問題となるところはなかった。しかし、東京都での1998年の「在り方検」以降、わけても2003年の10・23通達以降である。10・23通達は、行政側にとっては教育課程の編成のみならず、教育課程の「適正実施」が課題であった。
(2)教則と学習指導要領
①小学校令施行規則「教則」(1900年)で「教則」の法制化は完成
②「教則」は国民学校令「教則」まで
(3)「教則」から「学習指導要領」へ
① 学校教育法案要綱(1946年12月24日)
・「教則・編制及び設備は命令の定めるところ」
・「教育事務は地方長官が監督する」
② 学校教育法案(1947年1月17日)
・「教則・編制及び設備は命令で定める」
・「公立又は市立の小学校は都道府県教育長の監督に服する」
③ 学校教育法案(1947年3月4日)
・「教則・編制及び設備は監督庁がこれを定める」
・「公立又は市立の小学校は都道府県教育長の監督庁の所管に属する」
④ 学校教育法案(1947年3月15日)
・「教科に関する事項は(当分の間)監督庁がこれを定める」
・「公立又は市立の小学校は都道府県教育長の監督庁の所管に属する」
※ 「教則」の語が法案から消えたのは法案成立ギリギリになってからである。その前後から「学習指導要領」なる名称が案出され、1947年4月に「学習指導要領一般編(試案)」が公表された。このあたりの事情は不明なことが多い。
(4)学習指導要領の構成1―「総則」
① 学校教育法33条・学校教育法施行規則52条と第2章以下の「教科等」の中間としての位置付け
法令 ― 総則 ― 教科等
相互に重複するところがあってはならない。(『逐条学校教育法』鈴木勲編著 P.148)
② 従って、「総則」では教科等の「目標」・「内容」や「取り扱い」と重複してはならないのが原則
(5)学習指導要領の構成2―「各教科等」
①「目標」「内容」「内容の取り扱い」の三部構成
② 教育の「方法」については「内容の取り扱い」で留意点としてあげるのみ、しかもそれは教育課程の編制と言う視点からのみである。
③ しかし、教育課程の実施という観点に立つと違ってくる。
④ 教育課程の実施という観点は、教育基本法ののちの、2007年の学校教育法改定により新たに30条として追加された
「第30条 小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」
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〔opinion7736:180616〕
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