お百姓さん、ご苦労さん
- 2018年 6月 20日
- 評論・紹介・意見
- 農業阿部治平
――八ヶ岳山麓から(260)――
私の村は5月の最後の土・日が田植の最盛期だった。
田植機がしずかに苗を植えていくのを見ながら、思いだした歌がある。
〇蓑着て笠着て鍬持って
お百姓さん、ご苦労さん
今年も豊年満作で
お米がたくさん取れるよう
朝から晩までお働き
〇そろった出そろった
植え手がそろった
植えよ植えましょ、みんなのために
米は宝だ、宝の草を
植えりゃ黄金(こがね)の花が咲く
ふたつの歌を学校で習ってから、もう70年もたつから歌詞は不正確である。これを歌うと父は「政府は子供をつかって百姓をおだてている」といった。当時はこの意味が分からなかった。
――「支那事変」から「大東亜戦争」に変ったころ、農家にはコメを政府に安価で売渡す義務供出が課された。消費者は米穀手帳なるものを渡され、配給食料を買うしくみだった。
供出割当どおりの米を出さないと村の駐在巡査が農家に督促にやってきた。巡査がサーベルを腰に下げていたので、これを「サーベル農政」といった。戦後も役人がアメリカ占領軍の兵隊とともにやってきて、コメを出せと強制した。これを「ジープ農政」とか強権発動といった――
私がこういう話をしたのは、すでにかなりの年配の人だったが、「配給ってなんですか」と聞かれて絶句した。こういう時代になったのだ。私は生きた化石だ。
私の村は高冷地で、稲の生育期間の積算温度が旭川とおなじだが、コメどころだった。だが1946年に国民学校に入学した同級生はみな痩せていて、栄養不良のためにハナを垂らしていた。私は1キロ半の道を歩くのに疲れて2回は休んだ。戦後も維持された食糧管理制度は、コメを農家から安値で供出させ、配給制度で消費者に売るという仕組みだった。強権発動された村は、飯の量が十分ではなかったのだ。
私たちは、野山の草、虫などを食えるか食えないかを基準に分類した。タンポポ(クジナともいった)やアカザなども食った。田んぼのドジョウは味噌汁の中に入ったし、蜂や蛾(クスサン)の幼虫もセミやゲンゴロウも焙烙(ほうろく)で炒って食った。蚕のさなぎはおやつだった。思えば山菜取りの知恵は小学生時代に身につけたものである。
中学生のころになると、保温折衷苗代など育苗技術が改良されて収量が安定した。コメの供出価格もかなり上がり、水田を3,4ヘクタールももつ家は、供出が多く収入が多いから「おでえさま(金持)」といわれた。
1967年以後はコメが余りだした。当然コメを高く買って安く売る食料管理会計の逆ザヤ現象=食管赤字が大問題になった。自主流通米が登場したのはこのためで、農家はヤミ米を政府が容認したものと理解した。71年から作付制限つまり減反政策が始まった。コメからの転作は、ソバ、コムギ、豆、野菜類への転作奨励金というエサで推進した。
減反政策は46年続いて、去年で終わった。今年からは行政側からのコメ作付制限はなくなるはずだった。だが、あいかわらず県は村に「生産数量目標」を示し、村は農家にこれを配分した。ところがこれにあからさまな不満が出ない。コメからの収入をそれほどあてにしなくなっているのだ。
1俵(玄米60キロ)が1万3000円程度では、コメだけではやってゆけない。借地によって20ヘクタールとか30ヘクタールといった大規模水田経営を目指した人もコメから撤退し始めている。
きれいに0.2ヘクタール(2反歩)に区画された棚田を見ていると、亡くなった親友を思い出す。
1960年代の末から、わが村でも減反政策の一方で構造改善事業という大規模な圃場整備が始まった。一方でコメを作るなといいつつ、労働生産性を上げるためとかという口実で、まがった農道と水路をいじって、棚田を0.2ヘクタールの長方形に規格化するのである。
共産党の村会議員だった私の親友は、「構造改善反対」のビラを村中にまいた。彼の論理は「大百姓には有利だが、小前のものは得るものがない」というものだった。共産党は中央自動車道にもこの理由で反対した。当時、まだ農家を富農と貧農に分ける毛沢東流の階層論が幅を利かせていたらしい。
私の従兄は区長(部落の世話役)として構造改善事業を推進する立場だったから、親友にビラをまかれて怒った。私の弟も構造改善に賛成で、「世界規模で食料不足が生れたとき役にたつ」と食料安保の考えを主張した。日米繊維交渉の際、アメリカ大豆の輸出が止められたことを意識していたようだ。
結果として構造改善事業は有効だった。広い農道、方形の田んぼは、70過ぎの高齢者でも農機を使って仕事ができるからである。親友はあの時代の運動を後悔しているようで、「思い出したくない」といった。
自民党は米価を比較的高値に置いた。長い間供出米の量が農家の収入を決定した。農地改革とこれが農村を保守化した。当時わが村農家の目標は1ヘクタール当たり玄米で6トン(100俵)だった。これを「せどり」といった。だから村人は技術改良には敏感だった。肥料と農薬をたくさん使った。
石灰窒素ついで尿素が登場した。ニカメイチュウ退治のホリドールや、イモチ病対策のセレサン石灰(水銀剤)が使われるようになった。有機水銀の恐ろしさがわかった1970年代になっても、役場が音頭取りで水銀剤をヘリコプターで空中散布していた。さすがにいまは、イモチ病は苗段階で予防の消毒をやってしまう。
野良仕事はまったく変わった。
稲苗は田植機用の苗箱の中で育てる。苗床はなくなった。田植機の操作は1人でできる。そこで田植に大勢の植え手が出そろうこともなくなった。除草剤のおかげで、あの辛い夏の田の草取りはなくなった。同時にホタルもドジョウもなくなった。コンバイン収穫機でいきなりモミにするから、稲刈りだの、はぜ(稲架)掛けだの、稲扱きだのもなくなった。
畑のうねたても地ならしも小型のトラクターで簡単にできるから、「蓑着て傘着て鍬持って」ということもない。セロリーやブロッコリーの露地植えも機械化した。こうなると機械化というより機械の農業化である。ウィークデーは町へ勤めて土曜と日曜だけ農業をやる土日百姓は、これによって促進されたとおもう。
問題は、肥料や農薬、農機が高くつくことだ。とりわけ農機は農繁期の数日稼働するだけで、あとは小屋で寝ているのだから。私が土日百姓の友人に「たかだか3,4ヘクタールの水田経営で、高価な大型トラクターやコンバインの減価償却ができるかね」と聞いたら、彼は即座に「だれもコメや野菜でトラクターのもとが取れるとは思っていない」と答えた。定年退職したら退職金で完済するつもりだという。
冒頭の歌のように、「朝から晩までお働き」で「豊年満作で、お米がたくさん取れた」としても、だれもが「黄金の花が咲いた」わけではない。たいていは流通業者や、農機、肥料、農薬メーカーに貢いでしまったのだ。
いま村では、農業収入より兼業収入の方が多い第2種兼業が多い。私の出身部落160戸のうち、専業農業は10戸に満たない。問題は、兼業にせよ専業にせよ、農家の「跡取り」の多くが村から出て、大都会や町で別な仕事に就いていることだ。いま60,70歳代の働き手がいなくなったら、農家そのものがなくなる。村では無人の幽霊屋敷がどんどん増える。そして日本はとめどなく食料自給率を低下させる。
「お百姓さん、ご苦労さん。もう用済みだよ」という声が聞こえる。
(2018・06・09記)
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