「モノ書きはすべて無頼の徒」──周回遅れの読書報告(その61)
- 2018年 6月 30日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
先日、偶然書棚で見つけた有吉佐和子『開幕ベルは華やかに』を読んだ。もっとも、この著名な作家の推理小説のあらましを語ろうとは思わないし、その内容を評価する力量も私にはない。一つだけ気になる言葉あった。それについて述べたいと思う。気になった言葉は、次のようなものだ。
「筆を持つ人間は新聞記者でも作家でも無頼の徒なのだ…」(66頁)
この言葉が妙に印象に残った。筆を持つ人間がすべて「無頼の徒」だとすれば、本を書く人間はすべて「無頼の徒」だということになる。しかし、有吉の言わんとすることは、自分のお思いを伝えたい、伝えなければならないという決意なり、覚悟なりをもって書く人間のことを言っているのであろう。こういう決意なり覚悟なりをもってモノを書こうとする人間は「無頼の徒」になるということだ。逆に言えば「無頼の徒」となる覚悟をもつことがモノを書く前提になるになる。 なんとなく腑に落ちる言葉でもある。「無頼の徒」として生きるということ、その覚悟を持つということは決して簡単なことではないが、それがモノを書く前提だということを忘れてはいけないのである。
もう一つ、忘れてはいけないことがある。「無頼の徒」となることとは、自分以外のだれにも頼らないということであり、とりわけ権力には縋らない、擦り寄らないということである。この一文を読んでいて、昔、堀田善衛が次のようなことを言っていたことを思い出した。
文士というものは……何をしても構わん[が]……権力と手をつなぐことだけはしちゃいかんと思いますね。(堀田善衛『スペインの沈黙』新潮社、1979年、11頁)
「権力と手をつなぐ」ことをしてはならないのは、文士=作家が本来、「無頼の徒」であるからに他ならない。仮に「権力と手をつなぐ」ような作家や新聞記者がいたとしたら、「権力と手をにぎった」瞬間に、彼(彼女)はもはや「無頼の徒」ではなくなり、モノ書きとしての前提を失う。そしてそういう人間の書いたものは、それだけで疑ってかかったほうがいいということになる。御用新聞と呼ばれる大新聞も、権力に擦り寄った作家や評論家も、皆そうである。
あえて具体名を挙げる必要もない。たしかに権力に擦り寄ったほうが、様々な意味で楽である。名声や、富も得られるかもしれない。しかし、そのことによって、モノ書きの大前提である、「無頼の徒」ではなくなるのだ。
有吉と堀田とではまるで共通点はないように思っていたが、考えてみれば、両者とも「無頼の徒」であったのではないかという気がする。純粋に暇つぶしのために読んだ本(『開幕ベルは華やかに』)のなかにも、忘れがたい言葉があるものである。少なくとも「無頼の徒」徒とは言い難い連中の駄文を読んでいるよりははるかにましであった。
有吉佐和子『開幕ベルは華やかに』新潮社、1982年
堀田善衛『スペインの沈黙』新潮社、1979年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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