「時代閉塞の現状」への「批評」とは?
- 2018年 7月 3日
- 時代をみる
- ファシズム加藤哲郎
2018.7.2 「カレッジ日誌」によると、本サイトが、この国の政治を 「ファシズム前夜」と規定し、安倍晋三を「ファシスト」と呼んで、1年以上になります。先進資本主義国で日本国憲法を持つ国を、「ファシズム」という20世紀の歴史的概念でなぞらえ、まがりなりにも国会もメディアも機能しているもとで、選挙で選ばれた首相をヒトラー、ムッソリーニと同等に扱うのは大げさだという批判も、いただきました。確かに安倍晋三は、嘘つきで強権的ではあるが小心者で、ヒトラーほどのカリスマ性はない、オトモダチに囲まれてゴルフやワインを好み、野党からでもメディアからでもちょっと批判されるとやたらに吠える情緒不安定、外交では米国大統領トランプのいうままの番犬なのに、朝鮮半島問題でも貿易問題でもコストのツケだけ回される片想い、等々。それらはもちろん、まちがいではありません。しかし、森友・加計問題でも、過労死・高プロ問題でも、個々の論点・政策での賛否を問えば圧倒的に世論の批判・反対が多いのに、安倍内閣自体の支持率は3割以上を確保し、時に支持が不支持を上回るまでに回復し、長期政権の様相を呈しています。制度的には、小選挙区制のもとでの自公絶対多数の所産であることは明らかですが、世論は、野党に政権交代の希望を託していません。社会全体を見ると、本サイトが長く参照を求めている「ファシズムの初期兆候」が蔓延しています。 時代の、閉塞です。
この閉塞状況を産み出しているものを、グローバル世界市場のもとでの相対的地位の低下、経済成長鈍化と格差拡大、権力を私物化する長期政権と野党の無力といった政治経済的要因に求めるのは容易ですが、私が気になるのは、それを受け入れる国民意識のあり方、特に安倍政権を支持する若者の内面です。20世紀「ファシズム」研究が、「ビヒモス」のようなナチス第三帝国体制ばかりでなく、ヒトラー独裁に従う「自由からの逃走」の心理、時々の「空気」に同調する「凡庸な悪」に注目してきたのは、時代の閉塞の内面化が、ファシズムと戦争の遂行には不可欠であったからです。その伝でいくと、「ファシスト」安倍晋三の強固な支持層が3分の1に及び、特に若年層の現状維持気分が強いのは、平和を求める日本国憲法擁護勢力にとっての脅威です。
晩年、といっても24歳の石川啄木が「時代閉塞の現状」(1910年)を書いて、もう100年以上たちました。「大逆事件」の直後でした。ーー「かの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう[という]問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。」
見逃せないのは、啄木が、そこに「教育」の問題を見出していることです。ーー「今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。」「我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。」「私の文学に求むるところは批評である。」 ーー啄木にとっての「明日」であった21世紀には、「時代の閉塞」が大学にまで及んでいます。私が論文「大学のグローバル化と日本の社会科学」で問題にしたのは、その制度的基盤の崩壊で、大学の「教育」「批評」機能の衰退です。
マスメディアの政権追随と「批評」機能喪失は、すでにこの国の日常的風景です。スポーツと芸能人のスキャンダル、犯罪と災害が定番で、公共放送の夜のニュースでさえ、首相の「お言葉」以外がトップにくることは、滅多になくなりました。首相の「嘘」を暴く情報はウェブ上に数多くありますが、それが政権中枢を揺るがす前に、左翼や隣国を嘲笑しながらフェイクとヘイトをバラ巻く怪しげな情報操作で中和され、大手メディアや国会での、熟慮を踏まえた討論の場には届きません。まともな「批評」とは、イギリスの公共放送BBCの伊藤詩織さんのレイプ事件を扱ったドキュメンタリー「Japan’s Secret Shame(日本の隠された恥)」のように、興味本位ではなく、政権のメディア支配、警察統制、日本の法制度の不備をも真正面からとりあげて「今日」を報じるはずですが、残念ながら海外では流布しても、国内では無視されます。政府の賞揚する「明治維新150年」 についても同じです。政府の推奨するイベントカレンダーを見ると、台湾・朝鮮の植民地支配、満州事変・日中戦争から東南アジアへの侵略戦争がすっぽりと抜けて、「近代化」というよりも「富国強兵・殖産興業」の歴史観の復活です。ただし、この面ならまだ、海外のメディア に頼らずとも、史実や資料の発掘で、じっくり「批評」 する余地があります。テレビやネット情報に一喜一憂することなく、書物を読み、「明日」につなぐ「批評」の立脚点を構築していきたいものです。吉田裕さん『日本軍兵士』(中公新書)や白井聡さん『国体論』(集英社新書)は、そのような「異なる歴史観」「明日の必要」に応えて、広く読まれているようです。私の『「飽食した悪魔」の戦後』『731部隊と戦後世界』(共に花伝社)も、それらの「後衛」として、読まれてほしいものです。FTP不調で、一日更新が遅れました。本サイトも徐々に、「今日」用から「明日」用に切り替えていきます。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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