Yさんへの手紙―大道寺将司のこと
- 2018年 7月 13日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
Yさん、先日お貸し頂いた、昨年獄死した死刑囚大道寺将司の獄中書簡集「明けの明星を見上げて」(れんが書房1985年)を読了いたしました。昨年から私はYさんらの研究会に所属するようになったのですが、最初の懇親会の際Yさんが釧路湖陵高校のご出身であることを知って意気投合、期せずして大道寺のことが話題になりましたね。Yさんは一学年上ですが、大道寺と同じ釧路湖陵高校に在籍し、また私は中学2年のとき「中川塾」というスパルタ塾で大道寺と席を並べ仲が良かったということで、お話がつながったのでした。
あのとき既に申し上げましたが、大道寺の句集を読んだ感想として、予期に反して多くの無辜の民を殺傷したことへのえぐる様な深い悔恨と、苛酷な拘禁状態で死と向き合う実存的境地が短詩型文学に結晶化したものとして評価できるものの、大道寺の政治思想はおそらく芯のところでは変わっておらず、その部分では評価しがたいと思いましたが、今回著書を読んでその思いはかえって強化されました。
大道寺の著作の自伝的部分を読むと、私自身の釧路の想い出と重なるところがあり、なつかしくもありました。大道寺の政治への目覚めは、あの60年安保闘争から始まったようです。家庭での両親の会話に安保や三井三池の話が出てきて、それは政府や資本の横暴を批判する内容だったといいます。しかも彼の母親(実母ではありません)は、一人息子の彼を連れて、集会やデモの現場へ行ったこともあった由。蛇足ながら北海道は炭鉱労働組合や鉄道・教職員の労働組合が強かったので、社会党の牙城でもありました。卒業後、私が母校である釧路江南高校を訪れたとき、先生方―我々とは5,6歳違うだけで、しかも先生方の幾人かは江南卒業生でした―のお話によれば、安保闘争のときはこの学校の中庭で毎日昼休み生徒集会と激しいデモが行われたといいます。当時は学園紛争の真っただ中でしたので、恩師らとそういう話に花を咲かせたのです。ただそのなかで私の記憶に強く残っているのは、担任のY先生の話でした。我々の卒業後わが母校にもアメリカから交換留学生がやってきたそうで、やがてアメリカに帰るとき、彼は次のようなお別れの挨拶をしたといいます。
「私はアメリカに帰ると、兵役でベトナムに行くことになるでしょう。覚悟しています。日本人のみなさんはそういう運命から免れていますから、うらやましいですね。平和の尊さを忘れないでください」
会場は水を打ったようにシーンとなったそうです。思えば、ベトナム戦争といい文化大革命といい、世界の動きがグローバリゼーションとは違った意味で若者の地肌に直に感じられた時代でした。
大道寺は高2になる65年の日韓条約反対闘争のとき、釧路での社会党や労組の抗議行動に参加したそうですから、政治的には早熟だったといえます。私などはのんびりしたもので、国会で強行採決のあった翌日の朝、秀才のO君が新聞をカバンから出しながらこんな怪しからんことは許せないと私に訴えかけてきましたが、私には意味がよく分からず受け答えに窮したのを覚えています。大道寺の縁戚にあたる太田昌国氏―拉致被害者蓮池薫の兄蓮池透との共著「拉致対論」ありーからの影響が強くあったのではというのが、Yさん、あなたの見立てでしたが、民族問題やマイノリティの問題への強い関心は太田氏の思想的触発によるものかもしれません。(太田氏の「ヒューマニズムとテロル」と題する大道寺追悼講演は、氏が大道寺の出色の批判的理解者であることを示しています)
前置きが長くなりました。本題に入りましょう。
大道寺は「三菱重工爆破は誤りだった」として自己批判し、犠牲者に謝罪しています。8人の死者と385人の重軽傷者を出した重工爆破は、ほんとうは無差別テロを意図したものではなかったとしています。爆発の威力が想定外の規模だったこと、もともと一般人を殺傷する目的はなく、そうであるが故に事前に爆破予告を三菱重工側にしたのだと弁明しています。ただ疑問に思うのは、「虹作戦」で使用されなかった爆弾をそのまま重工爆破に用いたという点です。「御召列車」を鉄橋ごと爆破する威力を計算して製造したであろう爆弾です。それを周密なビル街で使用すれば、どれほどの惨事になるのかちっとも想像力が働かなかったとすれば、それは彼らの極端な視野狭窄を証し立てることになります。
その後ダッカ事件で超法規的措置で出獄し、中東に逃れた妻の大道寺あやら子のグループも、三菱重工爆破は人民を敵視する立場に立つものとして大道寺を批判する立場に転じたとされています。しかしそういう彼らも武装闘争やテロリズムを革命運動の主要な方法と考える点では一致しており、さほど両者に事後評価の違いがあるようには思えません。両者とも重工爆破は「戦術的失敗」ではあっても、その思想的実体であるテロリズムは撤回の必要はないと考えていたに相違ありません。現に大道寺自身は、「虹作戦」は失敗に終わったもののその方針が誤りだったとは言っておりません。侵略戦争の最大の責任者でありながらその罪を問われていない昭和天皇を暗殺することは、依然正義であると考えているのです。繰り返しになりますが、無辜の人民を巻き込む無差別テロは誤りであるが、対象を絞った個別テロルは正当な革命上の手段だと考えているのです。重工爆破は戦術において誤ったものの、侵略者への懲罰と被抑圧民族の解放をめざすという意図においては正しかったとする立場は、おそらく終生変わらなかったであろうと思います。
いずれにせよ、大道寺らは70年安保の敗北は国民大衆から浮いた極左的武闘主義の敗北でもあったと捉えずに、テロリズムの方向性への徹底化によって挫折を乗り越えようとしたのです。最晩年に大道寺がどう考えたか分かりませんが、「大衆闘争と武装闘争の結合」などという空文句を弄する姿に真摯な思索のあとを見出すのは困難です。ここは日本であり、パレスチナやラテンアメリカではないのです。帝国主義本国に抑圧され搾取される発展途上国の人民の闘争への連帯に名を借りて、自国に固有の責任ある変革の展望を創出する努力を放棄し、「第三世界」に自分たちの闘いを横滑りさせる思想傾向はあの時代我々の間では珍しくありませんでした。「日本でこんなことをしているよりも、ベトナムやパレスチナへ行って、一戦士として戦う方が意義があるのではないか」、こんな主体性放棄の会話を少なからず耳にしたものでした。ただでさえ学生左翼は市民社会から浮いている―そういう傾向が昂じて、革命の主体を山谷や釜ヶ崎の底辺労働者にしか見いだせないとする「窮民革命論」に行きつき、しかしまた現実の彼らには裏切られ幻滅して孤独なテロリストへと純化していったのでしょう。
大雑把ですが、大道寺に感じた問題点をもう少しまとめてみます。
Ⅰ 昭和天皇暗殺が日本社会にどういう反作用を引き起こすのか、まるで状況が見えておらず、驚くべき近視眼、視野狭窄です。天皇裕仁への死刑執行などと大言壮語していますが、天皇の死は猛烈な反動の嵐を惹起することは必定です。天皇制を成り立たしめているのは、法制度とともに日本国民の多数が天皇に対して抱く尊崇の観念、共同主観的な幻想です。天皇個人を殺してもその観念はなくならないどころか、場合によっては神格化に拍車がかかることにもなりかねません。暗殺は平均的国民の憤激を呼び起こし、天皇へのイデオロギー的求心力が高まって、左翼狩りや排外主義とナショナリズムが息を吹き返す可能性があります。それは象徴天皇制と民主主義とのバランスが崩れて復古反動勢力に大いなる力を与え、日本社会の反動化が進行することになるでしょう。
Ⅱ 大道寺らには権力の実体化というか、権力を人や物件という形で捉える強い傾向があります。だからこそ天皇や三菱重工の社屋、或いは裁判所や道庁がテロの標的になるのです。権力とは制度や機構ふくめ社会的な関係性の上に成立するものであり、それに適合する観念形態と相則不離です。もちろん組織を動かすのは権限を持った人であり、その限りで個人責任は免れませんが、個人を切っても組織は生き残ることができます。企業の社屋を爆破しても、資本と賃労働関係や支配―従属関係が解体されるわけではないし、労使関係が労働側に有利になる訳でもありません。裁判所を爆破しても、司法の反動化に待ったがかかるわけでもありません。権力の極端な実体化は、複雑な社会関係を分析して解きほぐし、主要な矛盾と副次的な矛盾を選り分け、社会変革の主体を析出に向けた知的な努力を放棄する知的怠慢にほかなりません。
ただ類推の域を超えるものではありませんが、事象の実体化という認識傾向は、俳句という物に就いて情を排する短詩型に才能を開花させる素地であったのかもしれません。
Ⅲ 大道寺らは日本企業の東南アジア進出を、戦前と同じく日本帝国主義のアジア侵略として捉えています。これは日本が自立した帝国主義としてアジア侵略に向かっているとの認識です。戦後の冷戦下アメリカとの従属的同盟関係のもとでの日本企業の海外進出の特徴をまるで捉えていません。まさに戦前の帝国主義論の引き写しで、そこには何ら新しい認識はありません。戦後世界体制の変容―つまり社会民主主義を取り入れた資本主義本国の変容や国際通貨貿易体制の構築や、植民地諸国が独立して主権国家になったという条件の変化は、レーニン帝国主義論の世界とは違った世界体制を現出させました。大道寺らの開発=西洋文明の侵略という紋切型の認識では、世界情勢の変化に太刀打ちできません。かつての植民地従属国が主権国家として独立したことの意義は計り知れず、そのことによって先進国からの援助や外資が、国民のための開発計画として生かされる可能性は、大幅に拡大されたのです。
もちろん主権国家であることは経済発展の必要条件であっても十分条件ではなく、開発が均衡ある国土開発や国民経済の成立に資する程度は、主権国家の政府がどの程度民主主義的で開明的であるかにかかっているでしょう。資本主義的開発は依然として文明化と野蛮化という両義性を有しており、秤がどちらの方向に振れるかはひとえに国民の主権者としての成長にかかっています。例えば、スーチー政権の妥協的姿勢ともあいまって旧体制が温存されているミャンマーでは、国際援助や外資の導入も国全体を豊かにするのではなく、産軍複合体(国軍プラスクロニー資本)への富の集中、大都市への一極集中(多国籍企業にとって効率的で都合がよい)、農業のアグリビジネス化によるプランテーション化(大資本の高利潤の一方で、農地の荒廃と貧困化を招く)、社会格差の拡大、大規模開発による生態系の破壊と農村の生活基盤の崩壊といったマイナス面が強く出てくる可能性があります。
なるほどグローバリゼーションによって、主権国家の枠組みは有効性を相当程度失って、国際金融資本や多国籍企業のボーダレスの活動を規制する新しい国際的な制度的枠組みが必要とされる事態になっています。そのことを踏まえたうえで、しかし主権国家の意義はまだまだ大きいと私は考えます。例えば、ロヒンギャの無国籍性を解決する権限を持つのはミャンマー政府でしかありません。以前に比して国連や国際NGOやNPOの働きには目覚ましいものがありますが、それでもロヒンギャ問題の最終的解決の鍵はミャンマー政府に握られているのです。開発や人権における前進、民主主義的改革において主権国家の枠組みは、依然としてその重要性を失っていないのです。
Ⅳ 大道寺らは常に青酸カリ入りのカプセルを携帯し、警察に拘束されそうになった場合は躊躇なく服毒自殺する覚悟でいました。実際に自決に成功したのは、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」グループに属した斉藤和だけでしたが、大道寺あや子も連行の際服毒を試みて失敗しています。まるで、入れ歯の中に青酸カリを隠し持っていたナチスのヒムラーやゲッペルス、ゲーリングの最期を見るようです。大道寺は死刑は怖くないとたびたび述べていますが、その通りでしょう。言ってしまえば、筋金入りのテロリストであり、自爆攻撃する狂信性と極めて親和的です。しかしそれでも理解しがたいのは、70年安保の敗北と彼らが認識したそのときからきわめて短期間で爆弾マニアとでも言いたいようなテロリストに変身したことです。紅顔の美少年というか、色白の優男というか、中学時代のその風貌からはとても想像がつかないことは今はおいておきましょう。ただ当時彼の得意とした猥談はねちっこく描写力に優れ、性に目覚めつつあった私はつい引き込まれて聞き惚れていましたから―まるで昨日のことのように、彼の表情を覚えています―、同じ調子で大道寺あや子らをねちっこくオルグしたのかなあと想像するばかりです。ほとんどが中産階級の家庭で育ち、学校の成績も上位で、実際の抑圧や貧困状態など知らずに育ったお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちの小集団です。その認識論における独断論、その道徳性における独善性、活動スタイルの一匹オオカミ性が際立っていますが、論理だけで突っ走り極限まで論理を徹底させ実行する狂信性は、やはりある意味で二十年後のオーム真理教の先駆をなしたように思います。
切羽詰まった状況において人間が決断するときに強く作用するのは、もちろん事柄の合理性や論理的整合性などの斟酌ですが、それ以上に決定的なのは人格の根柢にある常識というか良識だと思います。それこそが決定的な過ちを犯すことの歯止めになるものです。普通の人は大道寺の話を聞いて、「ついていけないや」と感じたはずです。論理的に整理はついていなくとも、この「ついていけない」と感じさせるものこそ、直観的理性である良識だと思います。人権や民主主義が常識化、良識化していない世界では、論理が独り歩きして、暴走すらするということを大道寺らの誤りは教えているのではないでしょうか。社会主義が普遍的価値を失った今日、圧政や抑圧、暴力や差別に対抗する原理は、ヒューマニズム、民主主義や人権といった価値でしょう。大道寺らにはこうした観点がすっぽり欠落していました。だからこそ我々はこれらの価値のいっそうの彫琢と実践に励み、彼らのしかばねを乗り超えて行かなければならないのです。
追伸 釧路湖陵同窓会誌「くまざさ」第64号に、大道寺将司「句集『棺一基』」の紹介記事が載っておりました。大道寺の話はタブーであった釧路のかつての雰囲気を思うと、感慨深いものがあります。
2018年7月11日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7822:180713〕
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