学習指導要領の暴走を止めよう!(4)
- 2018年 7月 18日
- 評論・紹介・意見
- 青木茂雄
高校で学習する内容は一国の基礎的素養を形作っている。今回の学習指導要領改定のねらいは、その基礎的素養を大きく改変することである。まさに文科省の官僚が言うように「本丸は高校」なのである。
高等学校新学習指導要領の批判的考察
―「歴史総合」「公共」を中心にして ―
(1)2018年3月高等学校の新学習指導要領が改定公示、の意味
今次改定は、2006年教育基本法改定以後、2度目の学習指導要領改定であり、改定教育基本法の当初のねらいが全面展開している。とくに高等学校の改定に、その特徴が顕著に見られる。その特徴と問題点は次の4点である。
第1に、「総則」を改定し、「道徳教育」を柱に据えたことである。「総則第7款1」には「道徳教育の目標を踏まえ、道徳教育の全体計画を作成し、校長の方針の下に、道徳教育の推進を主に担当する教師(「道徳教育推進教師」)を中心に、全教師が協力して道徳教育を展開すること(略)、各教科・科目等との関係を明らかにすること。その際、公民科の『公共』及び『倫理』並びに特別活動が、人間としての在り方行き方に関する中核的な指導の場面であることに配慮すること。」とある。教科目の内容に「道徳教育」が入ったことは、このことにより教科の専門性が阻害されるおそれが大となり、第一の問題であると言わなければならない。また、後述するが「学習評価の観点」とも連動 している。
第2に、改定教育基本法2条の「教育の目的」の言わゆる“愛国心条項”が、教科目の「目標」と「内容」に入ったことである。とくに「地歴」と「公民」において著しい。教科の内容が、特定の政治的意図に基づいた見解により歪められる危険性がある。そして、その歪められた見解が入学試験等を介して公式見解として流布されていくことが憂慮される。それはまさに一国の知性のレベルに関する問題である。
第3に、「資質・能力の育成」が事実上の「教育の目的」と化して、明文規定としての「人格の完成」が空文化したこと、である。これについては、次の教科目の構造変化の項目で詳述する。
第4に、特定の「教育の方法」を「主体的・対話的で深い学び」による「授業改善」として義務づけていること、である。学習指導要領は本来は、生徒が学習する「内容」を教育課程の大綱的基準として国が公示した行政文書であり、法的拘束力をめぐるこれまでの論議は、そのような了解(つまり「内容」の基準)のもとに行われてきた。しかし、今改定に於ては、加えて「方法」の基準を設定したことが重要である。いくつかの科目(例えば「歴史総合」と「公共」)に於ては「方法」が「内容」を凌駕するという逆転現象も生じている。報告者はこれが今次改定の本質であり、最大の問題点であると考えている。
以上あげた4点の問題点は、教科目の構造に大きな変化を生じさせている。それを地歴科の「歴史総合」、公民科の「公共」について検討していきたい。
(2)教科目の構造変化と「資質・能力の育成」 「歴史総合」を例にして
① 地歴科の科目はすべて名称変更されているが、従来の世界史Aと日本史Aを統合した「歴 史総合」に教科目の構造変化が顕著に現れている。
科目の構成が「目標」「内容」「内容の取扱い」の3つの部分より成り立っていることに は 変わりがないが、それぞれの表現内容が大きく違っている。
② 「目標」について。現行の世界史Aと日本史Aでは「理解」させ、「考察」させ、「培い」 、「自覚」と「資質」を養う、という一般的・包括的な表現となっているが、新学習指導要 領「歴史総合」の場合は、より強い目的意識性によって貫かれている。すなわち「国家及び 社会 の有為な形成者に必要な資質・能力の育成」の為の①情報処理の「技能」、②「考察」「構想」「議論」する能力、③「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」を深め る、である。①と②が「能力」であり③は「資質」ということになるであろうか。
このような強い目的意識性に貫かれた教科目の「目標」は、学びの多様性を著しく損ね、学 習過程までが画一化される危険が大であると言わなければならない。従来は、「目標」が一 般的・包括的であることによって、学習過程の多様性が逆に保障されていたのである。
③ 新科目の「内容」は、A歴史の扉、B近代化と私たち、C国際秩序の変化や大衆化と私た ち、Dグローバル化と私たち、の4部構成になっている。学習する内容の提示よりも、学習 方法と修得する「資質・能力」の提示となっている。Aでは思考力・判断力・表現力の育成、 BCDでは「理解する」ことに加えて、能力(思考・判断・表現)の育成に重点が置かれて いる。
④ 「内容の取扱い」は、 従来の約4倍ほどの分量で、その内容も詳細で多岐にわたっている。「内容」が簡略化されているのに比べて、「内容の取扱い」の項目は従来よりも詳細に記載されており、時の政権党の見解が盛られる(領土・国家威信・グローバル化)など問題点が指摘される。また、「年間指導計画」により学校現場の弾力的な運用が阻まれるおそれもある。
《教科目の構造変化》
① 従来の教科目の構造
「目標」 「考察」「理解」「資質」「自覚」させる
「内容」 「気付かせる」「把握させる」「理解させる」内容の配列・記述
「内容の取扱い」「内容」の配列・取扱い上の留意事項
② 新学習指導要領における「歴史総合」
「目標」 「…公民としての資質・能力の育成」
・「技能」 ・「考察」「構想」「議論」 ・「愛情」「自覚」
「内容」 A歴史の扉 思考力・判断力・表現力の育成
B近代化と私たち 「理解する」、能力(思考・判断・表現)の育成
C国際秩序の変化や大衆化と私たち 同上
Dグローバル化と私たち 同上
「内容の取扱い」 ・「年間指導計画」の作成
・「内容」の補足が具体的で多岐にわたる
時の政権党の見解が盛られる(領土・国家威信・グローバル化)
(3)新科目「歴史総合」の問題点
新科目「歴史総合」の問題点として以下の点が指摘される。
第1に、従来は中心的位置を占めていた「内容」が、「目標」と「内容の取扱い」の双方から侵食され、極めて貧しい内容となっている。 学ぶべき「内容」が不明確で貧弱であり、学習方法の学習、いわばメタ学習が中心の記述となっている。
第2に、「内容」の問題点である。「歴史」学習の基本は過去に起こったこと「史実」を謙虚に学ぶことから出発することが基本である。そして「史実」とその配列には学問的裏付けが伴っていなければならない。その点から言えば、BCの事項の選択とその配列は恣意的であり必然性がない。また、学問的裏付けもない。恣意的な「史実」を材料にした「考察」「構想」「議論」や「表現」は場合によっては歴史の歪曲・捏造につながりかねない。また、「Dグローバル化と私たち」は歴史的事実としてはまだ未確定・未評価なものである。時事問題の研究討論をするのならいざ知らず、歴史学習の範囲を越えている。
第3に、科目の「目標」が「資質・能力の育成」とある。新学習指導要領「総則第3款」では学習評価について記述しているが、それによると、「目標の実現に向けた学習状況の把握」という観点が強調されている。今後、学習評価の観点及びその実施方法が検討課題となるであろう。「資質・能力」を評価の観点とすることはどういうことになるだろうか。本来評価は「成果」についてのみなされるべきであって「資質」や「能力」は評価の対象となるべきものではない。「能力」はともかくとして「資質」はおよそ評価不能であり、そもそも「評価」してはならないものである。「態度」「愛情」「自覚」の主観的評価となることが懸念される。
このようにして 教科の専門性と道徳的態度との境界線が取り払われる危険性が大きい。他の科目も同様である。そもそも「評価」とは教育の内的事項であり、法的な強制力があると行政側によって解釈されている学習指導要領の対象領域外のものである。
第4に、「内容の取扱い」の項目で、「領土問題」など政権側の一方的な見解を強制している。これは1976年の最高裁判決の「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的観念を子どもに植え付けるような内容の内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定からも許されることはできない」という判示に反するものである。
第5に、「歴史総合」他の科目による代替を認めず、全員必修としたことである。現行のように世界史Bや日本史Bでの修得を認めず、その結果、現行の世界史Bや日本史Bは3単位に減らされ、結果として専門的な歴史学習が削減される。この国の基礎的素養の水準の維持という観点からは大きなマイナスである。「公共」とともに、そのようにしてまで全員に徹底させようとしていることについて、別の強い意思を感じるのである。
(4)新科目「公共」の問題性
①「公共」は現行の「現代社会」を改編してできたとされるが、しかし、内容的には継承関係がまったくない。「総則第7款 道徳教育に関する配慮事項」の1で高等学校における「道徳教育の中核」として設定された科目であり、これが最大の問題点である。
「現代社会」の「目標」は
「人間尊重と科学的な探求の精神に基づいて、広い視野に立って、現代の社会と人間についての理解を深めさせ、現代社会の基本的な問題について主体的に考察し、公正に判断するとともに自ら人間としての在り方生き方について考察はする力の基礎を養い、良識ある公民としての必要な能力と態度を育てる。」
必要なことが過不足無く綴ってあり、いまさら何を変える必要があるか、と改めて感じるが、それが、「公共」になると次のようになる。
「社会的な見方・考え方を働かせ、現代の諸問題を追求したり解決したりする活動を通して、広い視野に立ち、グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の有為な形成者に必要な公民としての資質・能力をつぎのとおり育成することを目指す。」として、①情報処理をする技能②多面的・多角的に判断し議論し、合意形成や参加する力③自国を愛し公民としての自覚を深める、が具体的な目標として目指される。
第1に指摘できることは、現代社会の「目標」に書かれていた「人間尊重と科学的探究の精神」が「公共」の「目標」から脱落していることである。このことは決定的である。
従って第2に、 現代社会の諸問題について「考える」ことではなく、「公共的な空間」としての「社会」への「主体的な参画」のための準備、つまり「議論する力」や「自覚を深める」ことが学習の内容となる。
第3に、「目標」の①②が獲得すべき「能力」であり、③が「資質」である。「歴史総合」の項目でも述べたが、①②③は「学習評価」とも連動する。「愛国心」が評価の対象となりうる制度設計になっていることを見落とすべきではない。
②「内容」はA「公共の扉」
B「自立した主体としてよりよい社会の形成に参画する私たち」
C「持続可能な社会づくりの主体となる私たち」
となっている。
Aは、社会参加のための道徳的な心構えとそのための討論などの手続き、にいて
Bは、社会参画のための必要な知識・技能が無系統に羅列されており、社会科学的な背景をもった知識ではない。
「日本国憲法」「基本的人権」「国民主権」「平和主義」の項目がない。ということは、これらに全く言及しない教科書でもOKということになる。
代わって「国家主権」「領土」「安全保障と防衛」「国際貢献」などが登場する。どのような方向の「社会参画」へ導こうとするか明白である。その方向へ向けての「思考力」「判断力」「表現力」である。
③ CではABから漏れた問題を網羅している。無系統で羅列的ではあるが、この領域では従来の「現代社会」的な内容を扱う余地がある。しかし、これも教科書や教材次第であり、又「内容の取扱い」の冒頭でABCの順序で扱うことを念押しして、Cの内容の先行を防御している。
④「内容の取扱い」では、「公共」を新科目として設定した側の意図が随所に読み取れる。
第1に、「指導計画の作成」に当たっては総則の第1款の2に示す「道徳教育の目標に基づき、この科目の特質に応じて適切な指導をすること」を配慮するとしている。即ち「…豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、公共の精神を尊び、社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を開く主体性のある日本人の育成に資するようになることを特に留意すること」とある部分である。
この「指導計画」は従来の学習指導要領にも記載されていたものであるが、今改定により文科省の指導により道徳教育の年間計画との関連性が要求されるようになるであろう。具体的には各地教委ごとの施策となるが、学校現場の自主的な判断の余地が狭められることになるおそれが強い。
第2に、Aについては中学校の教科道徳の延長線上に考えられており、教科としての専門性に裏付けられていない。そのことが「内容の取扱い」ではいっそう明白になっている。
第3に、Bについては、社会参加の技能と心構えは説くが、「社会」についての科学的な認識の視点はいっさい与えられない仕組みになっている。「法や規範」については「人権」の観点が欠落しており、「民主政治」についてものその内容は選挙による政治参加に限定させようとしている意図が明白である。一方、領土問題その他については、政府見解の一方的な押し付けを要求している。また、政府の意図に沿った「社会参加」が意図されている。
このように「内容の取扱い」が、従来の「内容」の補足、留意事項の段階を越えて、教育の「方法」にまで詳細に立ち入っていることは、教育内容の基準としての従来の学習指導要領の性格を大きく変えるものである。
⑤ 「内容」のABは中学校「道徳」の「C主として社会や集団に関すること」と重なり、教科内容の科学性・系統性が完全に度外視されている。複雑多岐に発達した今日の社会の問題は「参加」や「心構え」を強調することで解決することは不可能であり、正確で科学的な認識が要求されるところである。社会科学的認識が道徳教育と混同されることによって、中学校までの社会科教育の成果が失われ、それこそ無意味な1年間となりかねない。 高校で教科の中に「道徳」を侵入させてしまったのは教育行政の大きな失点である、と後世に指弾されよう。
⑥「公共」2単位は全員必修であり、現行のように「政治経済」「倫理」による代替ができないことも問題である。道徳教育の高校版の「中核」と設定したことから必然的に生じるものである。教育行政を通した政権側の強い意志を見ることができる。
⑦ 新教科「公共」には、戦前の教科“修身公民科”との類似性が指摘できる。教科「公民」は、教育勅語と終身教育の定着を目標として(つまり道徳教育の延長として)1924に教授要綱が文部省によって作成され、1925年から青年訓練所でまず実施され、1931年から
中学校・師範学校で実施されるようになった。その際、モデルとなったのは勅語の次の箇所である。「…学を修め、業を習ひ以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵ひ、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし…」。
新学習指導要領の「総則」からの抜粋は、
「…豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、公共の精神を尊び、社会及び国家の発展に努め、…」
「総則」の文章に慣れてしまうと勅語の文章もさほど違和感を覚えなくなるのは私だけであろうか。
(4)「資質・能力」概念の批判的検討
新学習指導要領のキイ概念である「資質・能力」について詳細かつ根底的に検討することが差し迫った大きな課題である。私の問題意識を以下に指摘するに止める。
第1に、「人格の完成」の代替概念としての「資質・能力」概念である。
2006年教育基本法改定において「資質」と「能力」が条文の中に特別な意味で挿入されたことが始まりである。「能力」という語は旧法3条にもあるが、教育の目標の中に入り、条文全体のキイ概念となったのは、改定教育基本法が最初である。
1条の教育の目的としての「人格の完成」は2条の(教育の目標)の1号と2号に分解され、1号に「情操」と「道徳心」と「身体」が付加され、2号は「能力」「自主及び自立の精神」が付加されることによって、それぞれ「資質」と「能力」の2つのキイ概念に統合される。「資質」と「能力」によって「人格」概念を解体することは、改定教育基本法のねらいのひとつであり、そのことは当時も指摘されてはいた。
改定教育基本法では必ずしも顕在化されていなかった「資質・能力」概念が「生きる力」概念を媒介することによって事実上の教育の目的となったことが明らかとなるのが、今回の学習指導要領改定である。それは、
第2に、「資質・能力」に対応した「学習評価」を提起したことである。今回の改定ではまだ、提起段階であるが、今後地教委での取り組みを背景に、「学習評価」の具体的な方法が試みられるであろう。「能力」という不確定なものが評価の対象とされることも問題であるが、「資質」としての「豊かな情操と道徳心」も評価の対象とされるだろうことが最大の懸念である。
第3に、教育史的な類推である。1941年の国民学校令は教育目的を「国民の基礎的錬成」においた。しかし、この転換は突然起こったのではなく、ある意味で、それまでの日本の教育学的達成の到達点でもあった。勅語の趣旨に基づく「合科」を「合科教育」と錯覚し、「錬成」を「陶治」と錯覚して、国民学校令体制になだれ込んで行った戦前教育学の轍を踏んではならない。 2018.7.7.
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〔opinion7837:180718〕
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