映画作家の想像力―黒澤明の原発観 ―「黒澤明全作品30作の放映」・補遺―
- 2011年 4月 16日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市原発観黒澤明作品
映画監督黒澤明が原子力を取り上げた作品は三本ある。
『生きものの記録』(55年)、『八月の狂詩曲』(91年)、『夢』(90年)である。最初の二つは原爆、三つ目は原発を扱っている。私は08年の黒澤全作品のNHK放映時のコメントでこの三作にも触れた。しかし『夢』では、復員した将校が全滅した部下の幻影と対峙する第四話「トンネル」に話題を絞り挿話の一つ「赤富士」には触れなかった。11年3月11日に発生した東日本大震災を機に「補遺」を書き加える。
《『夢』の「赤富士」では原発が爆発する》
『夢』は(私は)「こんな夢をみた」というタイトルで始まる八つの挿話からなるユニークな作品である。『夢』の第六話「赤富士」は、富士山の噴火とその近傍にある原子力発電所の爆発事故を描いている。以下に「赤富士」のシナリオから二カ所を掲げる。
女「あんた!知らないのかい。発電所が爆発したんだよ、原子力の!」
私「?!」
―通りかかった男が振り向いて言う。
男「あの発電所の原子力は六ツある。それがみんな次から次へと爆発を起こしてるんだ」
―富士の背後の空間の爆発は、ますますすさまじい様相を呈し、富士も不気味に赤くなっている。避難を急いでいる群衆も思わず足を止めて、その富士に目を奪われる。
その群衆から悲鳴と恐怖の叫び声が上がる。
私も女も通りがかりの男もギョッとして富士を見つめる。富士は赤色から灼熱した溶岩の色に変わり、形がくずれ始める。群衆は動物的な恐怖にかられ、大叫喚を上げて雪崩をうって逃げ出す。私も女も逃げ出す。
男「せまい日本だ!逃げ場はないよ!」
―女、その男に喰ってかかる。
女「そんなことはわかってるよ!逃げたってしようがない、でもね、逃げなきゃしようがない!他にどうしようもないじゃないか!」
《死に神に名刺を貰ったって》
男「来たよ」
―私は振り向く。断崖に続くうねうねとした丘を色々の色をした霧のようなものが静かにただよって来る。男は、それを眺めながら言う。
男「あの赤いのがプルトニューム239、あれを吸い込むと、一千万の一グラムでも癌になる。・・黄色いのはストロンチューム90、あれが体内に入ると、骨髄にたまり、白血病になる。・・紫色のがセシュウム137、生殖腺に集まり、遺伝子が突然変異を起す・・・つまり、どんなことになるかわからない・・しかし・・全く、人間は阿呆だ。放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない。知らずに殺されるか、知って殺されるか、それだけだ。死に神に名刺貰ったってどうしようもない!・・じゃお先に!」
―男はスタスタと断崖の突端へ歩いて行く。私は、あわてて男を抱きとめる。
私「君、待ち給え、放射能で即死する事は無いというじゃないか、なんとか・・」
男「なんともならないよ、ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」
―女が子供達を抱きしめて喚く。
女「そりゃ、大人は充分生きたんだから死んだっていいよ、でも子供達は生まれてからいくらも生きちゃいないんだよ」
男「放射能に冒されて死ぬのを待っているなんて、生きてる事にはならないよ」
女「でもね、原発は安全だ!危険なのは操作のミスで、原発そのものには危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない!あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」
男「大丈夫!それは、放射能がちゃんとやってくれますよ。すみません。僕もその縛り首の仲間の一人でした」
《イメージの現実化に茫然となる》
黒澤は自作のテーマについて問われるとしばしば「作品がそれを語っている」といって説明を避けた。『夢』でも同じである。記者会見における次の問答が残されている。
記者 今度の作品のテーマはなんですか?
黒澤 ぼくが映画を作る時は、テーマというものは考えない。自然に撮っていれば、それがテーマになる。プラカード立てるのは嫌いなんだよ。この作品には、今の世の中に対して僕が考えていることが全部出てます。(略)
記者 富士山が爆発するのは、反原発の訴えでは?
黒澤 (ウンザリしたように)まあ、映画を観て下さいよ。原発問題にしても、原発が大事故を起こしたりしたら大変だし、そういう危機感ってあるでしょう。富士山が噴き出したりするのは夢だしね、こむずかしいことを言ってるわけじゃない。やはり、観てもらうしかないんだな(笑)。
2011年3月11日に黒澤明のイメージはリアリティーとなった。
「今の世の中に対して僕(黒澤)が考えていること」は現実になった。
『生きものの記録』考察にも書いたが、戦後の反核運動の基本には「生物的な恐怖心」や「パニック感情」があった筈だが、それは次第に抽象化され、運動は政治的・党派的に変化していった。『生きものの記録』で三船敏郎が扮した工場主が見せた恐怖感とブラジルへの脱出という行動は常軌を逸しているとして批判された。『八月の狂詩曲』では村瀬幸子の扮する「おばあちゃん」も狂気におちいる。
1990年の『夢』はアメリカ映画である。それは黒澤作品の国際化を示しているようにみえる。しかし事実は日本の資本と観客が黒澤にはカネを出さないということであった。
黒澤明の描いた原爆と原発に我々は大きな注意を払わなかった。私は「それ見たことか」と言いたいのではない。「想定外」のない巨匠のイメージは現実となった。そのことに私は声を失ったままでいるのである。
◆本稿作成に『全集 黒澤明』最終巻、02年・岩波書店)を参考にしました。
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