カタルーニャ「血まみれの住民投票」から1年
- 2018年 10月 4日
- 時代をみる
- 童子丸開
バルセロナの童子丸です。
世界中を驚かせたカタルーニャ独立の住民投票から1年がたちました。この間に、本当に信じられないくらいの出来事が目まぐるしく私の周辺で繰り広げられてきました。多くのことが変わりました。それは今までお知らせした通りなのですが、今回は、この住民投票1周年の日に起こったことと、住民投票に関する謎に包まれていた部分について、記事にしてみました。
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http://bcndoujimaru.web.fc2.com/spain-4/The_1st-annyversary_of_the_Catalan_Referendum.html
カタルーニャ「血まみれの住民投票」から1年
昨年(2017年)10月1日にカタルーニャ州政府が強行した独立を問う住民投票(当サイト『血まみれのカタルーニャ住民投票(1)』)から1年が過ぎた。その日、2300か所の投票場のうち191か所が警察力で封鎖、または武装警官の襲撃で破壊され、警官隊による様々な暴力行為で、投票に来ただけの一般市民に1000人を超す負傷者が出るという惨事となった。その光景は各種メディアを通して世界中に生々しく伝えられ、カタルーニャ問題をもはや一国内の問題として片付けることが不可能な状況が生み出された。同時にカタルーニャ州民の間にほとんど修復不可能な大きな傷と対立を残す元にもなった。カタルーニャ独立運動は、たとえそれがどんな結果を残すことになろうとも、もう後戻りできなくなってしまったのだ。一方、最近になってようやくこの住民投票に関する謎の部分が徐々に明らかにされつつある。今回は「1周年」のバルセロナとスペインの様子を紹介し、そして謎の部分の一角に光を当てよう。
2018年10月2日 バルセロナにて 童子丸開
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●小見出し一覧
《住民投票1周年:大荒れのバルセロナ》
《独立派内部の分裂が明確に》
《2017年の独立住民投票:突然現れた「投票箱」の謎》
《未だ残される多くの謎》
【写真1:2017年10月1日、投票に来た市民に襲いかかる武装警官隊】
【写真2:2017年10月1日、警官隊の激しい暴力で血まみれになる市民】
【写真3:2017年10月1日、カタルーニャで禁止されるゴム弾を発射する国家警察】
【写真4:2017年10月1日、翌日のCNNニューストップ “The shame of Europe”】
《住民投票1周年:大荒れのバルセロナ》
2018年10月1日、午前中は、反資本主義・急進独立派CUPの市民組織CDR(共和国防衛委員会)による、道路封鎖や高速鉄道の運転妨害、ジロナ市の政府支部からスペイン国旗を降ろすなど、いくつかの挑発的な行動以外、カタルーニャとバルセロナにさほどの混乱は起きなかった。私は昼前に、昨年の住民投票で武装警官隊による大規模な襲撃を受け多数の市民が重軽傷を負ったバルセロナ市内の公立学校に行ってみたが、通常通りに子供たちが校庭で走り回っており、特別に大きな抗議集会が開かれる様子ではなかった。それでも、刑務所で拘留中の前州政府幹部の釈放を求める黄色いリボンや昨年使われた投票箱の絵などが、学校の外側のフェンスに貼られていた。
昼の12時には、カタルーニャ中の(独立派が支配する)地域で、役所や議会や学校などで職員や議員、役職たちが表に出て1分間の沈黙が行われ、自決権獲得への決意とスペイン国家による弾圧への抗議を示した。私は市の中心部で行われている学生のデモ行進に付き合うことにした。10月1日は平日なので昼間は社会人たちが動けないが、大学生を中心に高校生と中学生を含む2万人ほとど思われる(主催者発表で5万人、市警察発表で1万3千人)学生たちが、大声でカタルーニャ賛歌を歌い民族自決を叫んで、市庁舎と州政府庁舎のあるサンジャウマ広場まで行進した。それでもまだ騒然とした雰囲気からは遠かった。
しかし、街の様子は夕方から一変した。午後6時から独立運動を主導する民族主義団体オムニウム・クルチュラルとANC(カタルーニャ民族会議)主催の「住民投票1周年記念デモ」が行われ、市警察発表で18万人が参加した。私も暗くなるまではデモ隊と一緒にいたが、やはり20万人くらいかなと思った。最初は子供から老人まで参加する平和なデモだったが、2,3日前からの経過(後述)を考えると、いずれ過激化するのは目に見えていた。そのデモ隊の流れはカタルーニャ広場から二つに分かれ、一つは州議会会議場のあるシウタデリャ公園に、そして一つは海岸まで伸びるライエタナ通に向かった。ライエタナ通りには国家警察の警察署があり、ヤバいことになりそうだなと思いながら、8時過ぎにそこを離れた。そして案の定、このデモの続きは大荒れ状態になった。
実はこの日に先立って、2日前の9月29日にバルセロナ中心部は大騒動に包まれた。この日、市中心部のカタルーニャ広場からライエタナ通りにかけて、国家警察の警官とグアルディアシビル(国内治安部隊)の隊員の一部が作る労働組合Jusapolの3000人(市警察発表)がデモを行った。スペインの警察官とグアルディアシビル隊員の多数派は、CCOO(労働組合連合)やUGT(労働者総同盟)に所属する組合を作っているのだが、このJusapolはそれらと離れてスペイン国家主義を唱える右翼組合なのだ。この日、Jusapolがバルセロナで行ったデモは、待遇改善などの経済的理由ではなく、明らかに反独立運動と国家主義賞賛の政治目的を持っていた。多数派の警察労組はこのデモを「時宜不適切」「二律背反的」と批判していた。
そしてこのJusapolの動きに合わせてCDR(共和国防衛委員会)が中心の過激な独立派6000人がバルセロナ中心部に集合したのだ。独立派集団はカタルーニャ広場などでJusapolと小競り合いを繰り返した後、市庁舎のあるサンジャウマ広場に集まり、ライエタナ通りを通るJusapolのデモ行進を阻止する構えを見せた。カタルーニャ州警察がその両者の間に入って、というよりも独立派集団の動きを押しとどめて両者の衝突を防いだのだが、独立派集団は黄色や赤の絵具を投げつけて激しく州警察を攻撃し、州警察は6人の独立派を逮捕した。そしてその後、CDRと急進独立派政党CUPはキム・トーラ州知事とミケル・ブック州政府内務委員長を「裏切り者!報いを受けろ!」と激しく非難した。この29日に生じた流れが10月1日に繋がる。
10月1日の夜、ライエタナ通りに残ったデモ隊の一部が国家警察の警察署前の道路を占拠し、署を守る国家警察の武装警官にいろんなものを投げ、花火のような発火物を飛ばして挑発した。また州議会会議場前に集まったデモ隊の一部は会議場を守る州警察の警官と衝突しその人数に押された州警察は会議場に逃げ込んだ。その外で独立派集団は、トーラ州政権に対し「(スペイン国家への)不服従か、さもなければ辞任せよ!」と叫びながら会議場内に乱入しようとする騒動になった。結局は夜10時過ぎに州警察の応援部隊がデモ隊を蹴散らすことになったのだが、この9月29日から10月1日までの出来事は独立派の中に大きな亀裂を作り、トーラ州政権の弱体化を進めるだろう。
《独立派内部の分裂が明確に》
前に述べたように、CUP系統の団体CDRは10月1日の朝に、道路封鎖や高速鉄道の運転妨害、ジロナ市の政府支部からスペイン国旗を降ろすなどの挑発的な行動をしたのだが、それに対して、カタルーニャ州知事キム・トーラは、「よくやってくれた、よく圧力をかけてくれた」と、CDRの行動を賞賛する発言をした。これは9月29日に起きた州警察とCDR中心の独立派集団との衝突に関してブック州内務委員長の辞任を求めていたCDRとCUPに対する配慮だったのだが、いくらなんでもこの発言はまずかった。
口では「共和国建設」と公言しながらいっこうにその具体的な動きをせず、逆に社会労働党の中央政府に歩調を合わせるトーラ州政権に、CDRを中心とする急進的な独立派はしびれを切らしていた。このトーラの急進派にすり寄るような発言は、急進派にとって、またしても言葉だけで誤魔化す気かという疑念と怒りを膨らませただけだった。また独立派潰しを狙う国民党やシウダダノスは、ここぞとばかりに「過激派を支援するトーラ州政府」を非難し、中央政府はトーラに過激派への応援は(中央政府と州政府の関係の)正常化を危機におとしいれると警告した。大喜びの国民党の党首パブロ・カサドはカタルーニャの独立派諸政党の非合法化を求め、そしてシウダダノスは国民党と共に憲法155条の再適用を叫んでいる。さらに、ホセ・マリア・アスナール元首相は現在のスペインの状況を1934年のフランシスコ・フランコによるクーデターの直前の状況になぞらえた。
その一方で、ベルギーのワーテルローにいる前州知事カルラス・プッチダモンもまた10月1日に、昨年の10月10日に行った一方的独立宣言の「効力停止」は間違いだったと語った(当サイト『最も不名誉な1週間』参照)。さらに彼はキム・トーラ同様に、9月29日と10月1日朝のCDRの行動を完全に尊重できるものだと述べた。しかし、10月1日の夜に起きた州議会会議場前での騒乱の後でプッチダモンは、その過激なデモ隊の先頭に立っていた覆面を付けたグループを、挑発のために潜入した敵の手先だとして非難し、暴力を用いるならそれは住民投票の記念ではないと述べた。しかしもう手遅れだろう。
確かに、デモ隊の中に混じる覆面を付けた過激なグループについては「敵の挑発部隊」でありうる。実はカタルーニャ州警察がそのための「特殊部隊」を持っている。これは何年も前から州警察自身が明らかにしていることだ。しかし、もしそれが「挑発」だとしたら州警察の「自作自演」ということであり、州政府はますます責任を問われることになる。
もっと面倒なことは、CUPが州政府与党と決定的に袂を分かつ事態になった点だ。《12月21日カタルーニャ州議会選挙の結果》で書いたように、州政府与党は州議会の過半数を押さえておらず、州政府だけでは重大な懸案について何も決めることができない。カタルーニャの夏前からの動きについては別の機会にまとめて書いてみたいが、独立派内部は実際に四部五裂状態におちいっている。このままではサンチェス中央政府の思うままにされてしまいかねない。外国からの決定的な働きが無い限りは…。あるいは、CUPとCDRが過激な運動を徹底して推し進めて、何らかの新しい局面を作り出すか…。
社会労働党の中央政府は、昨年の警察力導入は「誤りだった」と言ったが、一方で武装警官隊が市民に暴力をふるう映像について「その多くが嘘だった」と、国民党政権の誤魔化し体質だけはきっちりと受け継いでいることを明らかにしている。中央政府は昨年の国家権力による市民弾圧がメディアによって世界中に伝えられたことに、大変な恐怖を覚えている様子である。しかし、今年の10月1日の話はここまでにしておこう。実は、昨年の住民投票の背後には未だに多くの謎が横たわっている。次の項目ではその一部を掘り下げてみたい。
《2017年の独立住民投票:突然現れた「投票箱」の謎》
【写真5:2017年10月1日、実際に住民投票に使われた“投票箱”】
当サイト『カタルーニャ「独立住民投票」前夜』中の《今年9月に入って本格化した「独立戦争」》、および、『血まみれのカタルーニャ住民投票(1)』中の《住民投票直前に起こったこと》で述べたように、中央政府は住民投票を阻止すべく、金銭的、物質的そして情報面で投票実施に必要な手段を次々に奪っていった。6月ごろから州政府の財政状況をチェックし、公式の選挙で用いる透明プラスチック製の投票箱の作成や、住民投票用のポスターとチラシや投票用紙などの印刷に対する費用を出せないようにした。さらには9月に州財政を全面的に国家管理として、実質的に投票不可能の状況を作ろうとしていた。なおかつその目をかいくぐって作成し隠し持っていた投票箱や投票用紙などは、9月中に探り当てて没収した。
ところが、9月29日にカタルーニャ州政府が「投票箱」として示したのは驚くべきものだった。上の写真にあるような不透明なプラスチックの衣装ケースの蓋に投票の口を付けたものである。それらが中国製であることは分かっているのだが、いつ注文を受けて作られたのか、どんなルートでカタルーニャに入ってきたのか、どこに保管されていたのか、誰がどのようにして2300もある投票場に運んだのか…、等々、未だに多くの謎に包まれている。しかしその一部が、カタルーニャ公営TV3(テーベー・トレス)によって明らかにされた。
こちらのTV3の番組とその説明記事では(カタルーニャ語なので分かる人はいないだろうが)、投票箱の製造と運搬に中心的に携わったという人物(男)が、容姿を隠し声を変えてインタビューに応じている。番組では「リュイス」という匿名で彼を紹介している。「リュイス」によると、このような投票箱を選んだのは運びやすく保存しやすく壊れにくいから、ということだ。入念な材質の選定とデザインの後に、その製造は中国で行われ、4本の縦線があるカタルーニャの紋章もまた中国で付けたものである。6月(2017年)の終わりごろに1万個が2日間で製造されたらしい。それを船積みして25日かけてマルセーユまで運んだ。そしてそこから北カタルーニャ(フランス:ピレネー=オリアンタル県:主要都市はペルピニャン)まで運び、そこで隠しておいた。そこは1659年のピレネー条約以降はフランス領となっているが、元々はカタルーニャ(アラゴン王国)の一部だったのだ。住民は当然カタルーニャ人である。
「リュイス」は、この作業を手伝った息子を除いて、投票箱のことを家族にすら話さなかった。しかしその後に8人が作業に加わり、8月初旬にトラックでカタルーニャ内の8か所に分けて運んで隠した。その8人はそれぞれの倉庫から投票箱を投票場のある地域に配る作業にも責任を負っており、その運送は200人から250人が自分の自動車を使って行った。そして、最終目的地であるそれぞれの投票所へは、10月1日の早朝に何千もの(カタルーニャ・ラジオの番組によると3千人の)人々が自分の自動車を使って搬入した。
実際に私もそれを目撃している。『血まみれのカタルーニャ住民投票(1)』で書いたが、私は朝早くから自宅に近い投票場となっている学校に出かけてみた。泊まり込みで投票場を守っていた大勢の人々が道路に出ていたが、まだ薄暗い中を1台の自動車が到着し、後ろの席にカバーをかけておいた投票箱と投票用紙を車から降ろして大急ぎで学校の中に運び込んだのだ。おそらく2、3日前から自宅に隠し持っていたのだろう。カタルーニャ中にある2300もの投票場で、このようにして投票箱が投票机の上に置かれたのである。
「リュイス」はその投票箱の費用、つまり製造と運輸と保管にかかる費用を、すべて、自分が払ってどこにも請求していないと語る。また彼は、誰の指示を受けたのか、彼の他に2人がこの計画に初期の段階から加わっていたがそれが誰のか、などについては具体的には語っていないようである。
それにしても驚くべき話だ。中央政府はこの住民投票を非合法とした。その投票箱を1個でも運ぶことは麻薬密輸と同じ扱いを受けるのである。それが、10月1日の投票当日まで全く見つからなかったのだ。投票箱が投票場に届くまでの作業の全てに、3千人以上の人がボランティアで参加して、しかも完全に秘密が守られた状態で行われた、ということになる。参加した人々は特別なスパイの訓練を受けたわけでもなんでもない普通の市民だが、民族自決のために一瞬にして心を合わせることができるようだ。ものすごいことである。またこれに関連してもう一つ興味深い話がある。
中国で作られマルセーユに荷揚げされた1万個の投票箱は、フランスにある北カタルーニャの町エルナ(Elna:フランス語でエルヌElne)の倉庫に隠されたのだが、そこからカタルーニャ内の8か所に投票箱を運ぶ作業に係わった8人のうち2人の話が、やはりTV3ニュースの記事になった。証言してくれた人たちはカタルーニャ人だがフランス国籍である。彼らは、幹線道路を使用すると警察の検問にかかる可能性があるため、いくつかのルートでスペイン国内に入った。それは第2次世界大戦中に、フランスを占領したナチス・ドイツから逃れたレジスタンスの人々や反ナチス・ドイツ人たちを、ゲシュタポに見つからないようにピレネー山脈を越えて連れていったルートである。逃亡者たちは中立国のスペイン領に(もちろんフランコ政府側にも見つからないように)入って北部のバスクなどから英国に向かったらしい。
80年後、その道を投票箱が通ったのである。証言者の一人は父親からそのルートを教えてもらっていたらしい。そのようなことはフランス人であると同時にカタルーニャ人であるエルナの人々にとって「当たり前」のことだったのだ。この南フランスの地域のとカタルーニャは、民族的に一緒だということもあり、人々も隣町に行くように出入りする。はるか以前から国境を越えた秘密の連絡網があってもおかしくない。というより、国境など意味が無いのだ。
《未だ残される多くの謎》
これらの話が本当だとして(少なくとも最終段階の投票場への運送は私自身が確認しているが)、不思議な点が多く残される。中国で投票箱が製造されたのが6月下旬だった、ということは、そのずっと以前からコンセプト作りや箱のデザインや組織作りなどの準備作業が行われていたことになる。昨年の5月と6月くらいの段階でプッチダモンの州政府は中央政府から財政支出の監視を受けており、正式の投票に使う透明プラスチック製の投票箱を作ってくれる企業を探すのに苦労していた。しかも9月に入って、こっそりと製造していた正式の投票箱のほとんどを押収されてしまった。だが、遅くとも5月か6月の段階ですでに投票箱の「プランB」を秘密裏に準備していたことになる。
しかしその「プランB」は誰の発案で誰が「リュイス」と話し合ったのだろうか。そのことを州政府の誰が知っていたのだろうか。誰がカタルーニャに運び込む作業を組織したのか。いつ誰が投票場に運ぶ作業を組織したのか。スペインの国家警察にもグアルディアシビル(国内治安部隊)にも、またCNI(中央情報局)にも知られずに…。
さらに、マルセーユに荷揚げされたときに「リュイス」は単なるプラスチック・ケースだとして税関を誤魔化したそうだが、税関の検査係はその膨大な数のケースの1個を出させて詳しく調べなかったのだろうか。1万個も荷揚げしてからスペイン国境付近に運んで倉庫に入れる際に誰にも、特にフランスの情報局員に、怪しまれなかったのか。フランスの当局者も隣国で起こっている事態には大いに関心を持っていたはずだ。
マルセーユと言えば、昨年10月30日にカタルーニャ州前知事カルラス・プッチダモンら6人の前州政府幹部が突然ブリュッセルに現れた際にも(《突然ブリュッセルに現れたプッチダモン》)、フランス国境に近いジロナ市からマルセーユまで車で行き、そこから飛行機に乗ってブリュッセルに向かったのではないかと推測されている。これもまたフランスの情報局に動きをキャッチされなかったのだろうか。
またTV3は現在のところ投票用紙を誰がどのように準備したのかについては番組にしていない。警察によって没収されたものを除いて228万を超える投票があったのだが、実際には400万枚くらいの投票用紙を準備しておかなければならなかったはずだ。その膨大な数の投票用紙は誰がどこでいつ作成して、どのようにして投票箱と一緒に各投票場に配られたのか。これもまた、投票箱の謎と同時に、この住民投票に関する謎の一つだ。
さらに、《住民投票直前に起こったこと》に書いたように、グアルディアシビルが州政府の情報通信技術センターに押し入り、州政府の住民投票用のインターネット回線をブロックしたため、各投票場で投票者名簿が手に入らなくなったはずだ。しかし不思議と全ての投票場で名簿を手に入れることができた。これにはいくつかの国のハッカーが全面協力したと噂されているが、真相は分からない。
もちろん、《武装警官隊による暴力は何のためだったのか?》でも書いたとおり、ラホイ政権が武力弾圧を強行したこと自体が最も大きな謎と言える。これは住民投票の謎というよりもスペイン政府の謎というべきだろうが、しかしその他にも様々に不明な点が残されている。上に書いたことはそのほんの一部に過ぎないだろう。いずれにしても、決して表に現れることのない膨大な数量の人と物と情報とカネの動きが、我々が表面的にだけ見ることのできるものごとの奥に存在しているのだ。
【カタルーニャ「血まみれの住民投票」から1年】
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