「資本の論理」を野放しにさせない「憲法の人間性」
- 2018年 10月 11日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士格差・貧困澤藤統一郎経済
資本主義というものは合理的な経済システムである。個別資本が、それぞれに最大限利潤を追求するための合理的判断を重ねていくプロセスでもある。資本の合理的判断は本質的に冷酷なものであって、ヒューマニズムとは無縁というべきである。これを野放しにしておけば、経済が人間性を破壊する。貧富の差は無限大に拡大する。しかし、資本の論理とは別次元でのファクターが、資本の行動に介在すれば、資本の合理的判断は変化せざるを得なくなる。
労働基準遵守の強制はその最たる好例だろう。個別資本の内的な衝動は、限りなく低廉で長時間稼働可能な労働力を欲するが、労働基準を遵守すべき法の強制に違反した際の制裁措置を判断要素として考慮すれば、労基法を遵守すべきことが合理的選択と判断の修正を余儀なくされる。
ひろく、法的な強制や訴訟による判決強制は、これに従うべきことが企業判断の合理性となる。公害訴訟や労災・消費者被害救済訴訟の多くは、事後的な損害賠償請求訴訟である。差し止め請求も果敢に試みられてはいるが、その成果は必ずしも芳しくはない。しかし、利潤追求を至上命題とする企業に対して、事後的にせよ巨額の金銭賠償を命じることは、大きな意味を持つ。
企業経営における合理性は、未然に公害や消費者被害を防止するためのコストの負担を嫌うことにならざるを得ない。しかし、巨額の金銭賠償負担を強いられることと比較して、公害や消費者被害の防止策に費用を投入する方が安上がりとなれば、企業は未然に公害を防止すべくコストを負担することを合理的判断として選択することになるだろう。
資本の横暴や冷酷さを、法や社会の力で抑え込むことが求められている。冷酷な資本に、人間性や環境のサスティナビリティなどという観点から、資本の論理を修正することが重要なのだ。大切なのは、人間であり社会であって、資本ではなく、経済でもない。
冷酷な資本の横暴を押さえ込む最も有効なものは法による強制である。人間性や環境持続を含む社会の要請は、法に盛り込まれる。法を駆使して、この企業社会を御しなければならない。資本主義そのものは人間性を押し潰すことを厭わない。資本主義システムをなすがままに放置すれば、貧富の格差は無限大に拡大される。これを抑制し修正して、人間性の本質に適合させるよう枠をはめるのが法の役割であり、その法体系の頂点に憲法がある。
法が経済を縛らざるを得ない。憲法のヒューマニズムをもって、資本主義の冷酷さを克服できなければ、資本主義そのものを廃絶する以外に道はない。
(2018年10月10日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.10.10より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=11269
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8071:181011〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。