「マルクス生誕200年シンポジウム」に参加して
- 2018年 10月 24日
- 交流の広場
- 中野@札幌
まずは私事で恐縮ですが、18年住み慣れた中国を離れ、札幌で余生を過ごすことになりました。というわけで、中野@貴州から中野@札幌へペンネーム変更です。
さて、先日21日。私の参加した分科会は「マルクスの経済学と哲学、どう捉えるか」(社会主義理論学会分担)でした。その中の大西広さんの「『資本論』の明らかとしたことと明らかとしていないこと」という報告が、偶然にも先日の私の書評(書評日山紀彦『価値と生産価格』)と関係していたのです。
先日の書評で、私は「マルクスの価値論は価格決定論から切り離すべき」と主張しましたが、この提言は、当然にも「それでは、利潤=剰余価値の価格表現というマルクスの搾取理論はどうなるのか」という疑問を生み出すでしょう。結論から言うと、搾取理論は「投下労働に比例する価格」や「生産価格」という前提なしに、すなわちいかなる価格を問わず導き出されるのです。それこそが、置塩=森嶋の「マルクスの基本定理」の結論でした。
大西さんの報告の要旨は、『資本論』の明らかにしたことは搾取理論などの原理論的法則であり、明らかにしなかったことは利潤率の低落化法則などの長期に関する法則であるというものでした。そして、大西さんは、前者の搾取理論を「マルクスの基本定理」に基づいて説明したのです。つまり、大西さんは、私と同様に、搾取理論は「投下労働に比例する価格」や「生産価格」なしに導き出されると結論付けたのです(もっとも、この報告は「明らかとしていないこと」が中心テーマでしたが)。
大西さんは、先日の書評で私が言い足りなかった部分を補足してくれたことになります。まったくの偶然とは言え、ある種の不思議さを感じました。
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