私が会った忘れ得ぬ人びと(2) 三木睦子さん――政界・言論界で隠れもない女丈夫
- 2018年 10月 31日
- 評論・紹介・意見
- 三木睦子横田 喬
怖いものなしで、思ったことは何でもズバズバ口にする政界・言論界の「肝っ玉母さん」だった。六年前までは健在で、まだまだ長生きしてほしかった。もう三十四年も前、一九八三(昭和五十八)年の『朝日新聞』の企画物の記事に、私が記したこんな文章がある。
――千葉女の威勢のよさそのまま、勝浦市生まれの元宰相夫人三木睦子(六六)の女丈夫ぶりは政界に隠れもない。徳島県人の夫三木武夫(七六)をよくもり立て、三木政権時代は「女総理」の異名さえとった。アンチ三木の閣僚や自民党幹部を夫に代わってやり込めたり、夫人の会などを督励して自派の結束を支えたり、勇ましい逸話は数々ある。
生家は千葉政財界の名門・森コンツェルン。代議士でもあった亡父・森矗昶の薫陶を受け政治家稼業の表裏を学び、夫を支え「クリーン三木」の看板を守り通す。夫の宿敵・田中角栄への敵がい心を隠しておけず、「田中さんの強みは約束を忘れてしまえること。三木なら、財産を公開すると誓えば、バカ正直に必ず守るんだけど。まじめに勉強を勧める三木みたいのは煙たがられ、遊びに誘う悪友の方に人気が集まる。田中派ばかり増える情けない自民党なんて、もうやめちゃえばって三木にも言ってるのよ」。
この発言を翌日の『朝日』夕刊一面のコラム「素粒子」が取り上げ、こうフォローした。<婦唱夫随となれば、大受け間違いなし。自民党なんかやめちゃったら、と三木元首相夫人。>
「金権田中」対「クリーン三木」の衝突は宿命的で、必然の帰結だった。‘七四年、金脈問題で世論の指弾を浴び田中内閣が退陣し、緊急避難~棚ぼた式に三木政権が成立する。翌々年、突如ロッキード事件が発覚。三木はフォード大統領あてに親書を送って協力を求め、日本の最高検に米側の関連資料が届き、前首相・田中逮捕という非常事態に立ち至る。
が、刑事被告人・田中は郷里・新潟で圧倒的人気を誇って衆院の議席を維持し、自民党最大派閥の長として福田~大平~中曽根の歴代政権に睨みを利かす。利権や金力による利益誘導選挙、ずばり言えば土地ころがしによる土建政治――そういう角栄的なものが自民党では、力を発揮する。民主政治は結局のところ数合わせで、多数派が勝ちを収める。「水清ければ魚棲まず」、正論を吐くクリーン三木は煙たがられ、金回りのいい田中派に多くがなびく。気概に富む睦子さんがいかに歯噛みしても、冷厳な現実は覆らない。
睦子さんは、私にこうも言った。
――財界人出身の代議士だった父には、政治家の妻の心得として「他人様から受け取ってもいいお金(寄付金)と絶対ダメなお金(賄賂)をしっかり見分けるように」と、篤と言い聞かされた。それが根本であり一切だ、と思っています。
睦子さんには、‘七二年にも差しでインタビューしている。佐藤内閣の末期のころで、「三角大福」すなわち三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫ら自民党の実力者四人による後継争いが白熱化する折のこと。私は「お茶の間の『三角大福』」という企画を思いついた。夫人ないし娘さんに家庭人としての素顔をざっくばらんに語ってもらう趣向だ。
睦子さんによる夫の紹介は、あからさま過ぎて少々びっくりした。
――まあ、ちょっと居ないくらい不器用な人ね。自分では着物の帯もちゃんと結べず、帯の先っぽをずるずる引きずって家の中をまごまごする。ご飯を食べるにも、お箸で上手に口元へ運べず、ぼろぼろこぼしてしまう。とにかく、困った人よ。
が、ほほ笑みが浮かび、どこか不出来な子を思いやる母親のようで、好感が持てた。そんな不器用さが精神面にも通ずるのか、生来曲がったことが大嫌い。万事に融通が利かず、多数派工作なんかでも損してしまう、といった注釈もあったと記憶する。
「三角大福」の争いは事実上「角福決戦」だったのだが、中間派の中曽根陣営が田中支持を打ち出して大勢が決し、私の企画はおじゃんになる。当時は福田派の若手議員だった森喜朗(元首相)から「田中派は札束ぎゅう詰めの鞄を議員会館に持ち込み、中間派を一本釣りしてるよ」と耳打ちされたのも忘れられない。
角福決戦の前年、三木は参院改革をめざす企てに手を貸している。それまで参院議長を三期九年も務めた重宗雄三が「重宗王国」と言われる独裁体制を築き、その体制を長野出身の長老議員・木内四郎に譲ろうと図る。が、三木派の鍋島直紹をはじめ三木の檄を受けた自民党の反重宗派議員が「桜会」を結成して反重宗で結束し、参院改革に名乗りを上げた河野謙三を対抗馬に担ぐ。共産党を含む全野党が「桜会」と手を結んで反重宗でまとまり、投票の結果は百二十八票対百十八票となり、改革派の河野新議長が誕生する。
当夜、平河町の小料理屋へ当時親しくしていた自民党参院議員の秘書氏と酒を飲みに行った。たまたま重宗前議長の年配の秘書氏もやはり飲みに来ていた。秘書同士で昵懇の仲らしく、酒の酔いも手伝って、重宗の秘書氏は聞き捨てならぬこんな放言をする。
――オヤジ(重宗を指す)は木内から三億もらう約束やった。俺はオヤジの仕事の十分の一はこなしとるから、三千万はもらう気でおった。それが、みんなパーや。
佐藤内閣当時、参院自民党は大臣を順送りで三人出せる決まりで、重宗議長に三千万円ずつ包む習わしと噂された。参院出身の大臣は内閣改造ごとにころころ変わるから、三億円の出資位すぐ取り返せるのかも。自民党政治の闇は深い、と当時つくづく感じたものだ。
本題の三木睦子さんに戻る。二〇〇〇年、村山富市元首相を会長とする「日朝国交促進国民協議会」が発足すると、副会長に就く。日本の社会が「北朝鮮叩き」一色に染まっても右ならいせず、ぶれず、怯まず、信念を貫き通す。‘〇四年、護憲派の作家や学者ら九人から成る「九条の会」呼びかけ人へ名を連ねる。加藤周一・鶴見俊輔・大江健三郎らの面々の中で、自民党政権の元首相夫人という彼女の存在は一際異彩を放った。
夫・武夫は先の大戦に際し対米戦争反対を唱え、翼賛非推薦で衆院当選を果たす。心を許し合う非推薦の盟友に山口県選出の安倍寛がいた。晩年の彼女は、講演会でこう話した。
――安倍さんは、特高の目をかいくぐり、深夜に我が家を訪れたことがあります。おにぎりを結んでもてなした覚えは忘れられない。晋三さんも母方の祖父(岸信介)にばかり私淑せず、父方の方も少しは見習ったらと思います。
全く同感。彼女は‘一二年に九十五歳で亡くなったが、物怖じしない「肝っ玉母さん」にはまだまだ長生きしてもらい、もっと直言を重ねてほしかった。
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